5.『美味しいお菓子は必須』
鬘の金髪はまるで威厳ある王太子妃さながら、複雑な形に結い上げられ、所々に貝細工の飾りが差し込まれている。あいにくの曇り空だが、少しの光量でも内側から輝くような不思議な
(ピケは出来上がったアニスに延々と「眼鏡を外して欲しい」と懇願した。彼はもちろん却下した。)
王宮茶会──豪奢ながら、椅子に座りやすく貞淑な雰囲気──の刺繍で重いドレスに身を包み、王太子妃になりきったアニスは来客の先触れにゆっくりと立ち上がった。発言を許すため、持っていた扇をパチリと鳴らす。
「ラベリ侯爵家、モニカ=ラベリでございます。お招きありがとうございます」
モニカの丁寧なお辞儀。彼は微笑みを貼り付けて挨拶を返した。
「お待ちしてましたわ、モニカ嬢。どうぞお掛けになって」
「……喜んで」
(目が死んでるぞ)
内心でツッコミながら、アニスはしとやかに椅子に掛けた。
モニカも
合間、彼が今日の天気など当たり障りない話題を提供すれば、モニカは控えめながら淀みのない回答。その声は氷砂糖のように僅かに冷たい涼やかさを含んで、甘く空気に溶けていくようだった。返す言葉も迷いがない。
(地頭はいいのか?)
昨日、薄暗闇で光っていたヘーゼル色の瞳は丸く可愛らしい形だ、と彼は眺めた。明るいところで見ればますますリスじみて見える。それも白目は血走っている。
(寝不足か? まぶたも浮腫んでいるようだが)
彼女について気になることは多いが、彼はまず挨拶に満足した素振りを見せた。
「さぁお茶をいただきましょう。今日はわたくしのお好きなお茶を用意しました。どこの産地か、当てられるかしら」
「……いただきます」
挑発的な彼の言い方に、モニカの目が据わる。「ウフフ」とわざと愉しげに笑みを漏らせば眉も寄り、反応は上々。
アニスはまずは初手、と安堵の息をお茶と共に飲み込んだ。茶の香りを肺に深く取り込む。
(これで会話に繋がればいいが)
――母屋の応接室を貸し切って行われたそのお茶会にモニカが現れるかどうかが一番の懸念だったが、招待状に対する返礼状の直筆も美しく、部屋に入るときの挨拶も作法としては全て文句のなしだった。視線は合わないものの、仕草はさすが侯爵令嬢と言えた。
(やはり昨日の歓迎はわざとか)
くしゃくしゃだった彼女の黄銅色の前髪は、今日はふわっと軽やかにカールし、緩く編まれて横に流している。
ドレスは陽射しの下に出るには少々地味な栗色。地味とはいえ仕立ては上等でレースが首元、袖の内側、スカートを繊細に飾っている。装飾品も控えめだが、品がある。
「どうです、口にあったかしら」
「……えぇ、美味しいですわ。ラベリ領の物ではありませんね。今年の夏摘みのものでしょうか、とても爽やかな香りで美味しいです」
お茶のおかげか、モニカの頬が僅かに緩んでいるのを感じ、アニスは笑みを深める。
「それは嬉しいわ。でもまだ分からないかしら? もう一杯いかが、モニカ」
「えぇ是非いただきます」
(負けん気は筋金入りだな)
この茶会が終わるまでは彼は王太子妃、モニカは侯爵令嬢としてお互い振る舞うことになる。これは彼の行儀指南役としての授業の一環であり、彼女に売ったケンカでもある訳だ。
興の乗ってきたアニスは彼女の一挙一動をつぶさに観察し始め、密かに眉をひそめた。お茶を飲むために顔を上げたモニカの肌色はひどく青い。
(売られたケンカを買う気概は認めるが……それにしても顔色が悪い。どんな生活をしているんだ)
カサつき荒れた肌、目の下の隈。香油で潤してはいるようだが、パサついた黄銅色の髪、病的に白い手首、しかし顔はむくみ少々太り気味。そしてまた、ウエストは締め上げないタイプのドレスであることから、体の線を隠していると思われる。
彼の姉に培われた女子力は、一日二日の手入れでは隠しきれない生活の乱れを見てとった。
「……アナベル王太子妃さま、発言をよろしいでしょうか」
アニスは物思いにぼんやりしていたことを、首を傾げて柔らかく「えぇもちろん」と応えることで誤魔化した。
モニカは彼を直視していなかったのでそれには気づかない。
「お茶の産地は、ヘレンゲル領のものではございませんか」
「あら、理由を教えて頂戴」
「……まず夏摘みの茶葉は、一般的に市場には流通していない時期と思います。それこそ南の領地まで赴けば別です。ですから王太子妃さまがこの茶葉を入手できるとすれば、そうご実家のヘレンゲル領のものではございませんか。わたくしは自領のお茶ばかりですので不勉強で恐縮ですが、確かヘレンゲル領の茶葉は果実のような香気で渋みが少ないと聞きます」
「……正解です。お見事ね、モニカ」
モニカは相変わらず暗い表情ながら、ふぅと息を吐き出し「光栄です」と答えた。
(他領のこともそれなりに知っているのか。それにやはり賢そうだ)
アニスは驚きと感心がない交ぜになった心持ちで「あらもっと喜んで頂戴な。ごほうびにお菓子でもいかが」と侍女に合図をする。
今回の茶会は、特に菓子も趣向を凝らした。
庶民一般のものから高級で流行のものまで、多くの品を用意し、食べきれない程だ。
初回で好みの菓子を知っておくと次回からの対策になる上、ジャンへの助言の幅が広がる魂胆もあった。
「今、巷で人気のレモンクリームパイも用意しましたよ」
「! はい……!」
途端、それまでほとんど無表情だったモニカの瞳がパッ、と輝いた。
準備が整わない中、甘い砂糖の香りが鼻をくすぐりはじめれば、そわそわと視線が揺れ始める。まるで本物の小動物のような挙動、別人になったようだった。
(どうしたんだ?)
最後の侍女が背を向けた瞬間、戸惑うアニスに向けられる上目遣いの瞳。小さな唇がはくはく、と何かを待っている。
(まさかおねだりか……?)
「どうぞ召し上が」
「いただきます!」
モニカは狙っていたのか、迷わずスコーンに手を伸ばした。
近くに添えられた赤く熟れた果実のジャムをたっぷりとスコーンに付け、彼女は大口を開けた。がぶりと一気に半分が吸い込まれた。唇からはみ出たジャムに気づけば、ペロリと舌がそれを舐め取り、また次の一口でジャムを付け直してしまう。何が楽しいのか「くふふ」と、美味しさに笑いを漏らしながら、彼女は新たな一つを手に取った。今度はクリームをたっぷり。
そこから彼女は、アニスが声を掛けるまででテーブルの菓子を一心不乱に食べ続けた。スコーン、焼き菓子、レモンクリームのたっぷり乗ったパイ、プディング──。
彼女の瞳は菓子しか映さない。
「……モニカ、お腹が空いてらしたの」
彼は彼女の急変した態度に薄ら寒いものを感じながらも、あくまで笑みを絶やさず話し掛けた。
すると彼女は我に返ったように手を止め、カッと頬を赤らめた。同時、苦虫を噛み潰したような眉。手にはまだしっかりとスプーンが握られている。
「えぇ……実は」
「モニカったら、買ってきた菓子よりもラベリ家のジャムに真っ先に手を伸ばすなんて。よっぽどお好きなのね。……わたくしも今朝、朝食でいただきました。もしかしてモニカさまは毎日召し上がっているのかしら。ラベリ侯爵家の自家製ジャムは特別甘くて美味しいのですね」
話しながら、スッとアニスは目を細めた。
お茶会という名の
モニカもすぐにそれを理解したようだが、スプーンを置こうか逡巡している。菓子の誘惑が強いか。
(さて、ここからどう出る?)
「どうぞモニカさま、好きなだけ召し上がって下さい。堅苦しいお茶会は終わりです」
「え、えぇ」
「甘い物がお好きなのですね。では次回の授業もお茶会に致しましょう」
「……」
さらりと、彼は次の約束を取りつけた。
しかし彼女は彼の問いかけには答えず、渋々という体でスプーンを置いた。見ればいつの間にか手元のプディングは完食している。
彼は内心で舌打ちし、菓子の話題で会話を繋げようとした。
「モニカさま、こちらのパイは」
「もう小芝居は、終わったのでしょう? わたくしは部屋に戻ります」
「お菓子はまだよろしいのですよ」
「……アニー=ヴィンセント。わたくしも侯爵令嬢の端くれですから、父上の顔を立てて貴方の授業には出て差し上げますわ。ですが」
モニカはガタッと椅子を鳴らし、乱暴に立ち上がるとやおらフォークを掴んだ。荒んだ目で、それを振り上げる。
尖った切っ先が光を反射し、アニスの目を灼いた。
侍女の悲鳴。
――フォークの切っ先は、勢いよくクリームパイに突き刺さった。
同時に、振り下ろされた拳の反動でクリームが周囲に飛び散った。アニスの服に、モニカの頬に。
「貴方のこと……あんまり煩わしいときは、わたくし容赦しませんから」
フン、と鼻を鳴らし、彼女は勢いよく彼に背を向けた。
「お嬢さま! なんてこと!」と、離れ付きの侍女が叫び、彼女に追いすがる。応接室の扉が大きく開け放たれ、台風の目は出て行った。
残されたのは、アニスとピケと静けさ。ピケはすぐに「お怪我は」と彼に駆け寄った。
アニスは何度か目を瞬かせて、呆然としていたが。
「ふふ……ふっ」
「アニスさま?」
「ふ、ふ。は……ははっあっはは……! 何だ、あれ……! はっ、あははは」
あぁアニスさまの気が触れて、とおろおろするピケをそっちのけ、アニスは数刻笑い転げた。あまり笑いすぎて涙が出る程。
(『
小説のワンシーンをそのまま用いた牽制もさることながら、退室間際、手についたクリームをぺろりと舐めた姿もなかなかの強者ぶりだと、彼は可笑しくて仕方ない。
(あの様子じゃ、頬についたクリームも舐めただろう。存外に面白い女性かもしれないぞ、ジャン)
身動きの度に香るレモンが、彼を何度も笑いに誘った。
――次のお茶会は三日後。
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恋愛小説メモ
『
巷で人気の溺愛もの小説。
よくある設定の騎士がヒーローだが、ライバル役の悪役令嬢の嫌がらせが話題となっている。顔に血しぶきをつけて「わたくし容赦しませんから」と見下す台詞が令嬢たちの間で密かに流行っている。
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