4.『時には脅しも必要』
アニスが案内された客室は、まさに『女性向け』の色調の明るい部屋だった。彼にとっては可愛らし過ぎる雰囲気に少々げんなりしたが、よく見て回れば、調度の一つ一つはホセ国の伝統と繊細な細工技術の粋を集めた物ばかり。
さすがはラベリ侯爵家と、彼も一応の溜飲を下げた。
侍女に「今、お茶を準備します」と促された布張りのカウチも上品な小花柄が可愛らしく、しかも新しい布に張り替えてある。姉達なら「合格です」と微笑んだだろう。
彼は乱暴に腰掛けた。先手は打ったが、根本的な解決策は見つからないばかりか、謎は深くなる一方だ。
(これはラベリ侯爵も一枚どころか、前のめりで話に噛んでるな。一体どういうつもりなんだ)
アニスが王命を授かってから、ラベリ侯爵と彼は、一度も顔を合わせていなかった。侯爵にわざわざ足を運べとまでは言えないものの、理不尽な命を受けた自分に簡単な事情の一つくらい、と苛立ちが沸く。
不意に彼の目に、荒れた様子のモニカが浮かぶ。
(随分、甘く見られたな……あの態度は、明らかに僕に諦めさせようとしてた。フン、その辺の女性なら泡を食って逃げ出したかもしれないが。そうはいかない)
女装してまでここにいる彼に、怖いものはなかった。
「アニスさま、お茶が入りました」
「あぁ。ピケ、お茶のあとはすぐに招待状を書く。準備を」
「かしこまりました」
ピケは深々と一礼すると、続きの隣室へ姿を消した。
彼女はラベリ家の客室付き侍女ではあるが、この頓馬な計画の協力者だ。彼女が彼を『アニス』と呼ぶこと自体がそれを証明している。
この邸で他に事情を知る者は家令、侍従長、侍女頭、ピケ、そしてモニカの暮らす離れにももう一人。多くはないが、人の邸で女装していたと噂を広めるには充分な人数だ。気を引き締めてかからねば、と彼はお茶を口に含んだ。
「……美味い」
目を瞬かせた。
馥郁とした香りが抜け、僅か舌の上に甘さを残す。ラベリ領産の茶葉か、とアニスはカップの中を見下ろす。透けた赤は深すぎる程だが、渋みは少ない。香り付けしてあるのか「これは美味い」と再び唸る。
彼はお茶に目がない。自領では茶葉の産出に力を入れたいが、人出がかかり安価に卸せる物ではないため、予算の捻出に頭を悩ませているのだ。
(思わぬ収獲だ。これは手土産にもらって帰ろう)
香りを味わいお茶を飲み干したアニスは、ようやくの小休止にカウチにだらしなくもたれかかった。
考えてみれば、この二週間は気の休まることがなかったのだ。連日の念入りな女装と演技。姉からの弾圧から離れ、今やっと独りの時間を得たと気がついた。腹が温まり、コルセットが余計に忌々しくなってくる。
彼は煩わしげに眼鏡を外し、床に落とした。喉仏を隠すための窮屈な首回りを緩めようと手を彷徨わせ、鎖骨の見える程まではだけさせた。解放感にはぁ、と目を瞑る。耳に掛けた金髪がするりと垂れ、背もたれに擦れて見る間に乱れていく。
今、彼はどこからどう見ても
――しばらくして文箱を手に戻って来たピケは、アニスの放つ無自覚の色気にハタと足を止めた。鼻血が出かけたかもしれない。
寄せた眉や男性とは思えない細い腰や隠された首元。乱れた金とも銀とも言えぬ髪の美しさ。頬が染まり、熱いため息が吐かれた。彼女は猛烈に感動していた。
アニスはその気配に目を開き、彼女が口元を隠してぷるぷると震えているのに気づいた。怪しい様子に「何だ」と問えば、彼女は侍女らしくすぐに居住まいを正す。
「……アニスさま。お疲れのご様子ですので、ご夕食はお部屋にお運び致します」
的を射た気遣いに彼は頬を緩めた。心からありがたい提案だった。
「あぁ、そうしてくれ。少し休みたい……いや、先に招待状を書くか」
「文箱はこちらに。それから、隣室の衣装部屋にアナベル王太子妃殿下からドレスも届いております。ロティアナさまからはドレスに合わせた小物が。それはもう大変な数です。明日からのお召し替えと、お嬢さまとのお茶会のご準備はわたくしに全てお任せくださいませ……!」
「着替え」の辺りから心なしか表情が輝き始めた彼女に、アニスは顔を引き攣らせた。辛うじて「頼む」と短く答える。
(そうか、こいつもか……)
男の女装を好んで手伝う侍女とはどこにでもいるようだ。せっかく優秀な侍女と感心したのに、いやそうでなければ僕の世話は務まらない、そうだよなと、複雑な心持ちでアニスは再びカウチにもたれかかった。
◇ ◇ ◇
半刻後、アニスは家人を呼び出し話を聞こうとした。
招待状を書くに当たりモニカの邸内での生活や性格など、詳しく確認しておかなければ、と考えていたからだ。
しかし結果は誰もが不自然に口をつぐみ、協力は得られなかった。
まず家令は「お嬢さまは随分前から離れでお過ごしですので」などと明言を避ける言い回しを繰り返し、彼をうんざりさせただけ。
それなら侍女頭かと、こちらも呼び出してみれば「旦那さまに口止めされております」とキッパリ返され、やはり詳しいことは分からなかった。
ピケならば、と尋ねれば「お許し下さいませ」と侍女頭と同じ対応だ。
(一体、ラベリ侯爵はどういうつもりなんだ。本当に自分の娘を何とかする気があるのか!)
頼みの綱の離れの侍女を呼ぼうとも思ったが、ピケから「その者はお嬢さま付きの侍女ですので、すぐには……」とけんもほろろ。
侯爵令息という立場で乗り込んでいればある程度の無茶はできただろうが、今のアニスは官吏の『アニー=ヴィンセント』。事情を知る者達やモニカに対しては行儀指南役として強く出られるが、邸内で敵を作りすぎても困る。
かと言って、下手に強引に離れに行けば手荒く追い返され、最悪、男とバレてしまうだろう。
(あくまでアニーとして彼女を引っぱり出せってことか? 面倒な)
彼は苛立ちながらも思案し、ペン先をインクに含ませた。
招待状の差出人を『アナベル』としたためた。
「もっと後に使おうと思っていたが、致し方ない」
アナベルとはアニスの一番上の姉、でありホセ国の第一王太子妃である。彼が十の頃には王太子の妃として王宮に嫁いだ、次代の国母に最も近いとさせる女性。
アナベルは最愛の弟にクローゼットに入りきらない程のドレスと、自身の複製印章を届けさせていた。破格の融通。間違いなく、アナベルの口利きで女装することになったと彼は確信している。
蝋の溶け垂れるのをじっと待つ。
(さあ、モニカ嬢はどう出るか。まさか本物の王太子妃の封蝋に気づかないってことはないだろう)
彼は姉の好んで使う深緑色の蝋だまりに、印章を押しつけた。くっきりと浮かぶ、百合の刻印。固まるのを待ち、ひらりと持ち上げる。ツンと封蝋の匂いが鼻を突いた。
「ピケ。お互い準備があるので、返事は明日の朝食まで必ず、と伝えてくれ」
「かしこまりました」
心なしか急ぎ足の侍女が部屋を出て行くのを見送り、彼は手元の燭台の火を吹き消した。つるりとした木の持ち手の印章をもてあそぶ。『背後に王太子妃がいる』と匂わせればまともな令嬢なら度肝を抜かれるはずだ。
「ちょっとはまともだといいが……こっちも本気で引っぱり出しに来たんだ、少しは驚くといい」
口の端が愉快げに上がった。
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