3.『どんな理不尽も、微笑みで受け流す』

 ――アニスが王家からの封書に卒倒したあの日から、準備期間は二週間。

 その間、彼は血眼でジャンの尻を叩いては添削した手紙や花を贈らせて見たものの、モニカ=ラベリ嬢から色よい返事はなかった。返事の来る気配すらなかった。


 一方で彼は、女装のままで一日中生活することを強いられた。


「さぁ、アニー変身しましょう。あぁ腕が鳴るわ、あぁ何年ぶりでしょう。貴方にドレスを着せるのは! 子どもの頃は毎日三姉妹みたいに過ごしたわよね、懐かしいわ。あら心配しなくても大丈夫です。衣装代も化粧代も、特注の詰め物胸パッドも全て王家持ちですからね!」

「あ、ちょ、やめっ」

「元々薄いようですけど、髭の処理も任せて頂戴。ふふふ、二週間後にはつるっつるの赤ちゃん肌に改造してあげましょう!……ふふふ楽しい」

「ひぃぎゃぁぁ!」


 横暴な提案はロティアナによるもので、さすがの彼も「せめて半日!」と食い下がってはみたがもちろん即却下された。


「ねぇアニー。ヘレンゲル侯爵令息が女装してラベリ侯爵家に潜り込んでいたと世間に知れたらどうなるかしら……まず王太子殿下の婚約は白紙ね。事情を知らない令嬢に一生消えない心の傷を作るでしょうし、殿下の株も大暴落。貴方と仲がいいことは誰でも知ってますからね、いくら王家が隠し立てても醜聞になるでしょう」

「そんな、姉さ」

「それに今でこそ『冷然たる琥珀デレない瞳』なぁんてもてはやされていても、将来誰もお嫁に来てくれなくなるわよねぇ。もう貴方一人の問題じゃないのよ、わたくしも父上も片棒担いでるんですから。一度でもヘマをすれば……分かってるわね?」


 期間中、書類の他は「女心の研究をなさい」と命じられ、彼の部屋には読みたくもない過激な恋物語が高く積まれていった。登場する騎士の甘い台詞に、彼は砂を吐きそうになりながら読破していく。


(女性の好む物語の男性は、絶対性格破綻者だ、二重人格だ。冷淡だったのがいきなりに強引に体を求めるなんておかしいだろ! しかもそれが実は一目惚れ!? 幻想だ)


 そうして女心を知るために、完璧な女装――夜着はネグリジェ、下着もドロワーズと、徹底した生活を送る中でアニスは男性としての尊厳を奪われ続けた。それでも「ジャンの幸せのためだ、王命だ!」と自分を納得させていたのだが。

 様子を見に来た、さしもの王太子殿下の言葉はこうだった。


「アニー……。お前、本当は女だったのか」

「このバカ殿下! 全部お前のせいだ!」

「だめよアニー。女性は『お前』なんて言葉は使いません」


     ◇ ◇ ◇     


 ――昼近くの陽射しが、首元を隠したアニスに照りつけた。うなじに汗が滲む程の暖かさに、彼は化粧が落ちないかと動揺を隠し続けていた。


 彼はラベリ家に到着して早々、モニカ嬢が住むという離れに案内されていた。

 ロティアナが張りついて選んだドレスは、鬘の金髪に合わせ生成りと深緑色の簡素なもの。しかし布は上質でささやかに光るボタンが幾つも飾られた、絶妙に肩幅を感じさせない寸法の一品だ。胸には特注の詰め物でごく自然な膨らみが丘を作っている。

 特徴的な琥珀の瞳は、野暮ったい眼鏡を掛けることで色を誤魔化していた。


(願うべくは、モニカ嬢がジャンとの婚約を……いやそれは高望みか。そう、僕の行儀指南役を受け入れて、何とか聖誕祭の集まりに顔を出す気になってくれれば……そうしたら僕は実家に帰る。絶対に帰る)


 彼が淑女らしい完璧な足運びを見せながら物思いにふけっている間に、案内の侍女は秋薔薇の咲き乱れる庭を過ぎた。

 そして見えてきたのは、可愛らしい石畳を辿った池の側。その離れは鳥の声すら静まって聞こえる程、人気ひとけのない場所にあった。


 そうしてアニスが通された部屋は応接室ですらなかった。

 扉が開かれた途端、真冬のような冷えがスカートの内側を這った。昼だというのにカーテンの閉め切られた書斎。彼は明暗にくらみ、眉を寄せた。

 令嬢付きの侍女が「お越しでございます」と声を掛けると、薄暗がりの中、何かの塊がのそり、と顔を上げた。真っ直ぐに射貫くような二つのヘーゼルの瞳が彼を睨んだ。


「貴方がアニー=ヴィンセント?」


 涼やかな声に、彼は部屋の奥へと視線を投げた。


 ――ギラリ。


 薄暗がりで光る二つのヘーゼル色の瞳が彼を睨みつけ、貫いた。


 来客があると知りながら、まったく整えられていない黄銅色の金髪。ハイテーブルには本が積まれ、モニカ自身もページを繰る手をそのままだ。客人をもてなすべき部屋は、カーテンすら開かれず埃っぽい湿っぽさを漂わせていた。

 何より、その荒んだ目。

 撫でようとするとひどく噛みついて来る、手負いのリスを思い出させる。


 歓迎されていない――明らかな拒絶。

 

 しかし彼女と目を合わせた瞬間。

 彼の心臓は何の理由か、強く、跳ねた。


(これは、手強いかもしれない)


 アニスは取り繕いと分からぬよう、優雅に一礼した。


「お初にお目もじ致します。この度、ラベリ侯爵さまより、行儀指南役としてご指名を承りました、アニーと申します」

「……随分、背の高い方ね。どうぞお顔を上げて頂戴」

「ありがとう存じます。恥ずかしながら、父に似てしまいまして」


(女性の怒りや嫌味は、受け流すに限る)


 モニカは「ふん」と、眉を上げた。

 しかしすぐにまた、口の端を引き攣らせて彼をめつける。


「……父上がお選びになった方だけあって、貴方美しい方ね。仕草も一流なのかしら、官吏のご家庭なんでしょう? まぁ、父上は金髪がお好きだから仕方がないわね」

「美しいだなんて、お褒めいただき光栄ですわ」

「ふん……わたくしはバレラ侯爵家の長女、モニカ=ラベリです。こちらにお掛けになる?」

「お許しいただければ」


 アニスは謙虚に見える微笑みを浮かべた。

 本来なら、モニカが『お掛けになって』と誘うべき――相手がまともな令嬢であれば指南役に対して礼儀に則り、ある程度の装いをして応接室にてお茶に誘う――場面だが、ここは書斎。

 しかも着古した部屋着に、本すら手放さない態度。


(どうする、このまま門前払いは辛い。次の約束を取りつけられるかどうか。ねばらないと)


 彼は努めて穏やかな微笑みで、我慢強く相手の出方を待った。さすがにこのまま追い出されるのは、二週間犠牲になり続けた自尊心が許さない。

 彼の背から入る光が、彼女との間に無数に浮かぶ埃に反射し、消える。

 

 「そうねぇ」モニカは、寝乱れたような金の巻き毛をもてあそびながら目を伏せた。本の上に。


「実はわたくし、先ほどお茶を飲んでしまったばかりですの。どうぞ応接室へ。お過ごし、早くお帰なさいな」


(よし!)


 アニスは殊更、笑みを深めた。虫も殺さぬような善良さを以て。


「それはお時間を合わせられず、大変失礼を致しました。とのことですから、初めての授業はお茶会と致しましょう」

「え?」


 バッとモニカの顔が上がった。本を取り落としそうになる。


「すぐにでも、正式に招待状を届けさせますのでお待ち下さいませ。それではわたくし、急ぎ準備を致します。モニカさま、これで失礼致します」


 えぇ、とヘーゼル色が驚きに丸くなったのを尻目に、アニスはさっさと一礼、彼女に背を向けた。


 「これでまずは先手」と少しも急がぬ足取りで離れを出る。

 彼は、小さな池を渡る涼しい風に僅かに目尻を緩ませ、優雅なスカートさばきで母屋へ向かった。

 

(情報収集が必要だ)


 薔薇の香りが彼の鼻をくすぐった。

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