2.甘やかすと碌なことにならない

 ここ、ホセ国は王権を残す歴史ある小国だ。


 伯爵以下の貴族は近年廃され、官吏、侯爵御三家そして王の三権で政治を行っている。王太子であるジャノルド=ホセは、その体格を生かし、国軍に所属して武を振るう継承権三位。

 アニスは身分さえ違えど、父親が宰相であること、そして母親を早くに亡くした事情からジャンと同じ子ども部屋で育てられた。

 現在は平和そのものだが、つい十年前までは若い宰相に毒を盛るなど日常茶飯事だった。王宮の子ども部屋が最も安全だったのだ。


 幼い頃から頭の回ったアニスは、直情的で情け深いジャンが巻き起こす騒動――城下に抜け出しケンカ、周辺国の王太子とケンカ。『悪徳商人を成敗したいがどうすればいいと思うアニス』など――を仲介ないし解決に導いてきた経緯があった。

 そしていつしか、二つ年上であるはずのジャンは何か厄介ごとがある度に「助けてくれ!」と彼の元に駆け込んでくるのが常になっていた。

 

「どうやって婚約者と仲良くなればいいんだ、アニーィィィ!」

「知らないよ……僕には婚約者はいない」

「アァァ! 女性嫌いのくせにモテまくってるなんて世の中おかしいぞ!」

 

 何度か同じ問答を繰り返すと、ジャンは「俺にはもうどうしようもない!」と頭を掻きむしり、顔を覆い、最後は虚空を見遣りながら何やら呟くだけになった。


「王宮に帰るなってことはだぞ。俺、軍寮に住むってことか? 嫌だ、あんなむさ苦しくて臭い場所……メシだって粉と水混ぜて煮たようなやつしか食えないんだぞ……そんなんで鍛錬したら三日で倒れちまう。来年には国境沿いに遠征もあるのにブツブツブツブツ」

 

 アニスはお茶に口をつけ、青くなったり赤くなったりする幼なじみの顔をしばらく眺めながら、逡巡しゅんじゅんしていた。


(婚約者との仲を取り持つ、しかも侯爵令嬢か。ラベリ家と国王が絡んでくるとなると、僕が大っぴらに動いては面倒なことになりそうだ。いや、もう二十七の男が女性関係で友人に泣きついて来ること自体、はっきり言って気持ち悪い。……やはり自分で何とかしてもらおうか)


 心を決めたアニスはひとつ肯くと、冷えた琥珀こはく色を光らせた。


「国王陛下がお怒りとは、よっぽどの状況だろう。子どもの口約束で決まった婚約者じゃあるまいし、自分で何とかするべきじゃないか」

「分かってる。俺だって、お前に好きでこんなこと相談してるわけじゃない……だけど」


 恐る恐る顔を上げ、ちろりと窺うように視線を送った彼に、アニスは目を細めるだけで先を促した。


「実は、今は手紙の遣り取りすらできてないんだ。送ったって返って来ないんだよ……おい、そんな目で見るな! 俺だってそれなりにご機嫌伺いくらいはしてたんだぞ! しかしあまりにもそっけない返事に、その」

「手紙の遣り取りすら? いつから」

「もう半年……最後に顔を会わせたのは二年前だ」


(それはお前が悪いだろう!)


 アニスはその杜撰ずさんな甲斐性に気が遠くなった。婚約者とそこまで遣り取りがないのは、異常だ。


(女性相手に、放置は一番まずい。これは王も相当ご立腹のはずだ)


 侯爵三家しか貴族のいないホセ国では、成人した男女──家同士の取り決めた婚約であっても──なら結婚に向けて積極的に遣り取りをしておくべき、という風潮が近年強い。言ってしまえば、決まった相手なら婚前交渉もアリなのだ。

 それでなくともジャンは王太子であり、侯爵令嬢相手なら国政に関わる縁談。なりふり構わず、式の日取りを決めても文句を言われないはずだが。むしろ結婚してから仲良くしてもいい。

 そう問えば、子どものような立派なふくれっ面ができあがった。


「好かれてないと分かっていて、結婚を強要するなんて俺には無理だ! 婚前交渉なんて以ての外だろう! 政略結婚だとしても、心を持った人間が相手なんだぞ」


 憤慨する様子に、まぁそうだろうとアニスは冷静に肯いた。それが第三王太子殿下ジャンの素晴らしい人間性であり、王になるには三十年後とうそぶかれる所以ゆえんだと深く理解していたからだ。

 ジャンは口をへの字に曲げ、紺碧の瞳を歪ませて「うぅ。俺、嫌われるようなことをした覚えがない……手紙だって最初はそれなりに続いてたんだ」と再び頭を掻きむしり始めた。


(どうしたものか。どうやら本当に困っているらしい)


  夕陽は落ちかけ、白く繊細なレースカーテンは赤と群青のグラデーションを透かしていた。陽を浴びれば輝く金髪は、今はくすんだ黄土色に沈んでいる。

 その情けない顔に、アニスはひとり降参の苦笑を浮かべた。


「仕方ない、エスコートの仕方くらいは助言しよう」

「アニーィィ! お前ならそう言ってくれると思ってたアァァ!」

 

 ジャンが厄介ごとを持ち込むことが常なら、アニスはそれを請け負うことが常。お互いに、唯一の友情を分かち合う相手の頼みを断わった試しはなかった。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝。

 今回も例に漏れずジャンの厄介ごとに巻きこまれたアニスは、昨日の今日で届いた調査報告書に目を走らせていた。


「ラベリ侯爵令嬢、モニカ嬢か……やっぱり絵姿を見ても、ピンと来ないな」


 ここ三年以内の夜会と舞踏会の参加リストによれば、彼女は公の場にはほとんど現れていないらしい。参加したとしても、『ほんの一、二回。しかも顔を出す程度』との記述しかない。

 同様に、はっきりとした目撃情報も二年前――ジャンと顔を合わせた夜会からなく、親しい友人関係も分からない。


(よっぽど内気か、人前に出られない事情でもあるのか……原因を明らかにしないことにはジャンと親しくなれない可能性もある。しかしここまで徹底してるのはすごいな。僕も真似したいくらいだ)


 アニスは自嘲に眉を下げ、夏の気配を残す窓の外を眺めた。


 彼は国中の若い女性がため息をつくほどの美貌を持つが、好んで振る舞うことはしなかった。夜会もできる限り、不参加を貫いている。

 「ヘレンゲル候爵家の親族か、ジャンの前でしか彼の口角は上がらない」とは、社交界においての不文律となっている。それがまた、世の女性たちのツンデレ萌えを掴んで離さない要因だった。


 誰もが見惚れる癖のない白銀の髪、琥珀色の瞳、加えて姉仕込みのレディファースト。中性的で圧倒的な麗しさの化身アニスは、一度夜会に出れば『冷然たる琥珀ちっともデレない瞳』もしくは『最後の貴公子絶滅危惧種』と二つ名を囁かれるほど、近隣国のご令嬢や若い女性官吏に絶大な人気を誇っている。

 しかし、その無表情ながらそつなく対応をこなす甘い容姿の裏の、彼の本音はこうである。


「女性なぞ興味はない。それに、腹の底では何を考えてるか分かったもんじゃない」 


 彼のこの女性観は間違いなく二人の姉の影響であり、初恋の訪れをも阻害していた。



 ――アニスは仲を取り持つ糸口が見つからず、机に紙束を放った。

 目頭を揉みしだき「面倒だ」と呟く。

 そもそも彼にとって、女性と関わり合いになるのは面倒以外の何事でもない。相手がジャンでなければ請け負うはずもない話だった。


(どうしたものか)


 するとそのとき、ノックと共に侍従が入室し「ロティアナ様がお越しです」と先触れを告げた。彼は勢いよく立ち上がった。


「『姉さん』だ、その手があった!」

「あら、どんな手かしら。何か面白い企みごと?」


 同時に部屋の扉が開き、紺色の上品なドレスの女性が顔を出した。

 彼にそっくりな顔立ち、こっくりとした蜜色の瞳。栗色の髪を緩く結わえているのは、既婚者の印。可憐でありながら妖艶にも見える微笑みが、彼に向けられていた。


「ロティ姉さん! 助かった!」


(女性のことは女性に聞けばいい)


 「珍しいこと。熱烈な歓迎ね、私の可愛いアニー」と、彼に愛おしげにハグを求めたのは、官吏に降嫁した二番目の姉のロティアナだった。




 お茶の準備が整い、人払いが済んだのを見計らって、アニスはロティアナに尋ねた。


「姉さん。ジャノルド王太子の婚約者、ラベリ侯爵令嬢について詳しく聞きたいんだけど」

「何か楽しい話題かと思えば……まさかあなた、横恋慕?」


 疑わしい眼差しを浴び、アニスは「姉さん」と睨んだ。しかし美貌の姉は「冗談よ」と、目尻を下げた。


「モニカ=ラベリ嬢ね。何度か会ったことがあるわ。彼女が何か」

「……これは個人的な相談事だから、他言しないで欲しいんだけど。いくら手紙を送っても返事が来ないらしい。有益な情報があれば教えて欲しい」

 

 ロティアナは「あぁ」と面白くなさそうにカップを摘まんだ。「もっと楽しい話かと思ったのに」と、音もなく傾ける。


「貴方。殿下を甘やかすのはいいけれど、度が過ぎると身を滅ぼしますよ」

「えぇ、まぁ。分かってます」


 ロティアナは彼の返事を無視し、何か深く思案するように目を伏せた。

 アニスは肩をすくめると、ロティアナの返答を静かに待った。こういうときの姉を邪魔してはいけない、と彼は骨身に染みていたからだ。

 彼女は難しく表情を変えながらゆっくりとお茶を飲み干すと、遂に艶やかな微笑みを見せた。


(まずい、嫌な予感がする)


 彼は姉の笑みに、身を強張らせた。ひどい悪寒に震えすらした。


「モニカ嬢の件は……そうね、少々こじれてる可能性があるわ。この件、わたくしに預けて頂戴。アナベル姉様に相談してきます」

「ちょっと待って! 姉さん、何を!」


 ロティアナは彼の制止のニュアンスを無視して立ち上がると、有無を言わさぬ優雅なスカートさばきで退室した。出がけに「大丈夫任せて頂戴、アニー」と念を押して。

 彼は「まずい。話すべきじゃなかった」と青ざめたが、本当に色を無くしたのはその三日後のことだった。

          

  “ジャノルド王太子の結婚は、王家の急務である。”

  “アニス=ヴィンセント=ヘレンゲルは女性の装いでラベリ家に滞在し、行儀指南役としモニカ=ラベリ嬢を聖誕祭の舞踏会に出席させよ。”


 美しい飾り文字は、踊るよう。


「お、女の装いって、まさか。え、これホントに父王オヤジの直筆だ、ぞ」


 王直々の封蝋を開け、アニスの前で読み上げたジャンはあまりのことに後退った。一方アニスは震える手で書を受け取り、王のサインを確かに認めて真っ青になっている。いや、真っ白だ。

 はらり、書を落とす。


(女装しろってことか!)


 刹那、傾いだアニスを慌ててジャンが駆け寄り支えたが、既に彼は麗しい白銀の髪と区別が付かぬほど色をなくしていた。

 「ヒィ!」と、ジャンは叫んで彼を揺する。しかし銀の睫毛が琥珀色を閉じ込めていき、その頬に影を落とした。


「アニー死ぬなァァァ! 女装して俺を助けてくれぇぇ!」


(もう絶対、こいつの相談には乗らない……!)


 薄れていく意識の中で、彼は初めて卒倒する女性の気持ちが分かった気がした。

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