17.月は夜をどこまでも照らす

 モニカは今夜も書斎を訪れ、暖炉の前で本を読んでいた。

 つい昨日の茶飲み話でアニーが語った隣国の起源神話に触発され、少々古くさい歴史文献を捲っている。


(ホセ国の古語と殆ど同じだけど、やっぱり読みづらいわね……面白いけど時間がかかりそう)


 モニカはそれと分からぬよう小さくため息を吐いて、本の影からアニスを盗み見た。

 書斎は暖炉脇と執務机の他は明かりがなく、薄暗い。揺れる明かりに照らされる彼女の髪は昼間に見るより銀色めいて――金髪のはずなのに、と毎晩不思議に思うのだが、まるで女神のような美しさ。

 まさに今読んでいた段落から、月の女神に恋した半神半獣の物語が始まったところだったので、モニカは羨望を込めてアニー妄想の燃料を眺めた。


 普段の微笑みはどこかに捨ててきたような不機嫌な表情。

 眉間に皺を寄せ、ペン先を書類に押しつけている。恐らく署名をしているのだろうが、憎しみでも込めるような鬼気迫る強さと、速さ。

 書類を捲り、重ねながら読み、署名をする。

 難しい案件なのか、不意に手を止めると、口元に手を寄せて考え込む。さらに深くなる眉間の谷。


(……アニー、忙しそうだわ……それとも、どこか具合が悪いのかしら……昨日の夜から変なのよね。)


 モニカはアニーからそっと目を逸らし、月の女神が半神半獣と恋に落ちる神話特有の超展開に再び集中し始めた。



 ――昨晩、三日間悩み続けたモニカは結局、ヴィンセント家の『おやすみ』を継続所望した。


 就寝前に「今夜はどうしましょうか?」とまるでドレスの色を尋ねるような調子で問われ、モニカの回転しすぎて熱を持った脳味噌が遂に破裂しかけた。


「もう……もぉずっとヴィンセント家の『おやすみ』でいいわよ!」


 可愛げなく叫んだモニカに、アニーはどこか満足気に微笑んだ。

 そして茶会用の椅子から立ち上がると、モニカの手を取った。茶会の終わりを告げ、手を結んだまま彼女を立ち上がらせる。

 二人は向かい合ったまま見詰め合った。


「わたくしには既に嫁いだ姉が二人いるのですが、彼女たちが家を出るまではこれが就寝の挨拶だったものですから……本当にお嫌ではありませんか?」


 その問いかける心配そうな眼差しに、照れていたモニカは思わず素直に応じた。


「いいえ、別にっそんなことはなかったけど!」

「あぁそれなら良かったですわ。実は姉たちにはされるばかりで、他の方にしたことがなかったので。安心しました」


 額にそっと落とす口づけが自分だけのものと知った瞬間、モニカは胸に湧き上がる歓喜を抑えられず頬を染めた。澄ました顔で彼女の髪を撫で始めたアニーの傍ら、彼女の脳内は再びフル回転する。


(わっわたくしが初めて! 初めて……! わたくしだっておでこにチューはダーニャ以外は初めて……待って、あれは夢だものアニーが初めての方ってことに……! わあぁぁぁそんな何か恥ずかしくなってきたわああぁ!……で、でもヴィンセント家の『おやすみ』に決まったもの! だってだって小説の『おやすみ』シーンだと、どうしても事後だったり恋愛ムードむんむんだし! こ、こないだ初めてされたときだってびっくりしすぎて大変だったのに、あれ以上刺激が強かったら……いやああぁぁアニー相手にときめいてどうするのよ! チューは家族に対する挨拶よ、ただの挨拶なんだからあぁぁ)


 真っ赤になって視線を揺らす彼女に、アニーが形のいい眉を上げた。


「どうかされましたか、モニカさま?」


 アニーの指が彼女をあやすように、頬肉を軽く摘まんだ。

 モニカはアニーには何の罪もないと分かっていながら、どうしても皮肉っぽい言い回しになってしまうのを抑えられない。


「何でもないわ! それにわたくしは素敵なシーンが多すぎて選べなかっただけで、ヴィンセント家の『おやすみ』がどうしても良かった訳じゃないんだからねっ」

「えぇ存じ上げてますよ。ですが……やはり家族でもないのに、額の口づけは親密すぎますか?」


 眉を下げたアニーに核心を問われ、モニカは、そんなこと! と動揺で声を張り上げた。


「わたくしだってダーニャ家族でない男性から額に口づけくらい受けたことあるものっ! 心配ご無用ですわ!」

「………………へぇ?」


(あ、あら?)


 モニカは突然声が低くなったアニーに勢いを削がれ、目を瞬かせた。てっきり『そうですか』と口の端を上げるだろうと思ったのにそうではなかったからだ。

 髪だの頬だのに触れていた手をパッと離し、アニーはそのまま何も言わなくなってしまった。促されるまま『おやすみ』をして書斎を出た。


 そして今日のアニーは、口数も友人同士の触れ合いも少ない。あまりモニカの傍に寄らないのだ。

 

(お友達同士だって、毎日ベタベタする訳じゃないもの。きっとお仕事が忙しくて機嫌が悪いのよ)


 モニカは掛ける言葉がよく分からず、そのままで一日を過ごしていた。


     ◇ 


「モニカさま。もう、そろそろお戻りになられては」

 

 ハッとした。すっかり没頭してしまった、とモニカは自分の顔と活字を引き剥がした。

 途端、周囲の薄暗さが迫り焦点の合わない目を擦った。薪がすっかり白炭に変わっており、随分長い時間が経ったと知れた。彼女は傍にアニーがいるかと思い、見回したが。

 執務机からアニーの疲れた声が通った。


「難しい稟議が多く、わたくしも時間を忘れておりました。今夜はお茶はせずに、離れへお戻り下さい」

「もう、そんな時間?」


 モニカは筋肉の凝り固まったお尻を伸ばしつつ、立ち上がった。続きは明日に読もうと、椅子の座面に本を置く。


「アニーはまだ終わらないの?」

「……えぇ、もう少しだけ。さぁ、今侍女を呼びましょう」


 モニカは返事をし、くたびれた仕草で呼び鈴を鳴らすアニーの背中を目で追った。


(やっぱり何か変……機嫌が悪いのかしら)


 拭えない違和感にじっとしていられず、首を巡らした。侍女が来るまでまだ時間があるわね、と窓際へと足を向け、秋冬用の分厚いカーテンを引いた。

 瞬間、サァッ――と冷気と冴えた月光が彼女を青く照らした。


「アニー! 満月よ」


 モニカは子どものように呼び掛けた。書斎にはモニカの影が黒々と伸び、彼女の黄銅色の巻き毛はまるで銀を纏ったように見える。

 アニーはしばし彼女の横顔を見詰め、観念した様子で傍に近づいた。


「……本当ですね。書類ばかり見ていて気がつきませんでした。冬が近いせいか、青みがかって美しいですね」


 アニーはモニカの掴んでいた布を引き取り、大きくカーテンを開けた。書斎に二つの影が並ぶ。モニカはちらっと隣を見上げた。


(きれい……あぁアニーは本当に月の女神みたいだわ)


 アニーは、青い銀の光に煌めいて見えた。

 白銀の如くに艶めき緩く結い上げられた髪。無粋なガラスに覆われているものの、白磁の肌も柳眉も、細い顎も彫刻のように整っている。

 モニカは先程まで読んでいた神話を思い出し、ぐふっと笑いを漏らした。姿形はそっくりでも、アニーが半神半獣の神やその他諸々の神々を取っ替え引っ替えする奔放な女神には見えなかったからだ。

 アニーはそれに一度、怪訝な顔を見せたが、すぐにまた窓の外に視線を戻した。


 月は夜をどこまでも照らし、二人を銀色に晒す。

 ――その二人の間には、ただ月を仰ぐだけの不自然な静寂が横たわる。


(アニー、やっぱり変よ)


 彼女は冬支度の済んだ庭を眺めながら、今夜は来なければ良かったと後悔した。『おやすみ』がして欲しくてアニーに会いたくて、のこのこ来てしまったのが間違いだった、と。

 気分がどんどん沈んでいく。


(もう部屋に戻りたい。アニーもわたくしと一緒にいたくないのかもしれないわ……前なら、こんな夜は寝室から絶対出なかったのに。ダーニャのことばかり考えていたのに)


 不意に、アニーが呟いた。


「……きっとこんな月の夜だったのでしょうね。『夜薔薇』の二人が出会ったのは」


 ドキリと鼓動が強く打った。

 まさかアニーも『夜薔薇』の同じことを考えているとは、と肩が揺れた。

 モニカの脳裏に主人公とダーニャの出会いと、彼の台詞が浮かんだ。


「『俺は明る過ぎる月は嫌いだ。特に満月は。他の奴に見透かされる気分になる』」


 口をついて出たのは、ダーニャの厭世と嫌悪。


(わたくしもそうだった。昼間でもないのに明るくて、好き勝手生きることを責められている気分になった。夜に紛れて外を歩くしかなかったから。月なんて嫌いだったのに)


 どうして今夜はきれいに見えたのかしらと、物思いするモニカの横で突然くすっと笑い声がした。モニカはそれに揶揄いの色を感じ、反射的に頬を膨らませた。見上げる。


「何よ」

「いいえ。わたくし、すっかり貴方に毒されてしまったな、と思ったのです。月を見て小説のことを思うなんて」

「毒って酷い! アニーったら失礼ね!」

 

 「申し訳ありません」と薄く持ち上がった口角。楽しげに上がった眉。


(なんだ、やっぱりいつも通りじゃない)


 モニカはアニーの様子に安堵した。おかしな態度はきっと仕事疲れだろうと。

 そして俄然『夜薔薇』への想いが溢れ出す。今日一日、親しく会話できなかった反動もあった。


「でもまぁ、さすが目の付け所が良くってよ、アニー! そう『夜薔薇』が最高なのは、月と薔薇の美しさがダーニャとの恋を鮮やかに彩っている、ここよ! 出会い然り主人公とダーニャの歩み寄り然り、想いを交し合う、そして体をッ……ごほんっ! と、とにかく『夜薔薇』を語るには情景の美しさは外せないわね!」

「そうですね。あの作品は男性が少々強引で台詞が甘過ぎるところを除けば……いえ、モニカさまはそこがいいのですものね」

「そうよ! 特にわたくしの愛するダーニャは元々……」 


 モニカは興奮のままアニーにガッシィ! と掴みかかろうとしてハタ、と動きを止めた。その瞳が悲しみに揺れているように見えたからだ。


(え? 私、何か余計なこと、言ったかしら)


 咄嗟に口を噤む。それに応えるようにして、アニーはただ黙って彼女に向き合った。

 緩んだはずの雰囲気がまたしても硬くなり、モニカは肩をすぼめずにはいられなかった。不安で仕方がない。


「アニー?」


 弱気で甘えを含む呼び掛けに返答が来ず、彼女が目を瞑りかけたとき。

 アニーの唇が動いた。


「モニカさまは、ご結婚を……ジャノルド殿下をどう思っていらっしゃるのですか」


 それは夜に溶ける囁き。

 同時、頭一つ分高いところから視線が突き刺さった。何色か判然としない、しかし真っ直ぐで圧倒的な量の光を流し込んで来る。


(どうしていきなり!? そんなの結婚なんてしたくないに決まってるわ! 殿下のことも、まだ信じられない。でも何か、何か言わなきゃ)


 モニカは苦い唾を飲んだ。


「ど、どうって……別にいつか結婚するんだわ、って思ってるだけよ」

「では、ご結婚が嫌ではないのですね」


(嫌よ……!)


 胸が押し潰されるように痛んだ。考えまいとしていたことを予告なく問われ、追及され、もはや駆け出したくなる寸前だ。

 しかしアニーは瞳を逸らさない。――それは真摯な懇願。

 モニカは、逸らせない。


「えぇ、もちろんよ。……覚悟してるわ」


 ひと摘まみの負けん気がそう言わせた。しかしひと息の内に、酷い嘘で顔が歪んだ。覚悟なんて欠片もないのだ。

 顔を伏せ、息を止める。瞳の縁が濡れていることをアニーに気づかれたくなかった。

 ――どこか遠くで、アニーは父上の手先よ、と自分が叫んだ。

  そうだった彼女は行儀指南役だと、ぼんやり思い出しはした。不遜な台詞でモニカの生活をめちゃくちゃにしたのだ、と。


 でもそれは過去だ。


(アニーはわたくしを『お慕いしている』と、『必要』だと言ってくれた!)


 反駁が、腹の底から沸いた。

 同時に、はっきりとした恐怖も。


(嘘を……そうよ嘘でいい! せめて聖誕祭まで……そうよ『さよなら』まで嘘をつけばいい。アニーを困らせたくない、悲しませたくない。わたくしをまだ好きでいて欲しい。嫌われたくない……!)


 ひと粒、音もなくこぼれた。

 月の光の届かぬ足元へ、涙は吸い込まれるように闇になった。


(嘘を!)


 アニーとの親愛を守るため、脆く醜い自尊心を守るため。

 太腿をキツく抓った。


「春に結婚するなら勿論、賛成よ。わたくしは侯爵家の一人娘、モニカ=ラベリですもの。これ以上の幸せはないわ」

「そうですか。さすが、モニカさまです」


 安堵したようなため息が、彼女のつむじに降った。

 髪に、手が触れた感触。巻き毛が緩く指に巻かれているような。


 ――モニカは感情が一気に溢れそうになった。

 どす黒くて我が儘で粘度の強い、酷い臭いの何かが。闇夜に泣き喚いてしまった記憶から、凍える程に冷たくて湿った何かが。

 蓋をして知らない振りをし続けようとした現実が彼女のまぶたの中で暴れた。


 しかし彼女はそれを全部飲み込んで、精一杯、顔を上げツンと顔を背ける。涙だけは見られないよう無理に胸を張った。

 アニーの手は離れた。


「あっ当たり前ですわ! そうね……ジャノルド殿下が優しくて、少し強引で、わたくしだけを愛してくれるダンスの上手な方なら、明日にでも結婚したいくらいよ!」

「明日にでも……?」



 ――そこでノックが響いた。


 アニーがつい、と扉へ振り向き「少しだけ待って頂戴」と応えた。

 モニカはその間に彼女から一歩離れ、手の甲で涙を拭う。サッとカーテンを閉めた。これでよく見えなくなったわ、とモニカはヒリつく目尻を触った。


「モニカさま、急に立ち入ったことを伺って申し訳ありませんでした」

「別に。気にしてないわ」


 モニカがアニーを見上げると、今度はアニーが視線を逸らした。眉は寄せられ、唇は何か言いたげに開いて。


「アニー?」

「……モニカさまは、ダンスがお好きなのですか」

「ダ、ンス?」


 モニカは戸惑いに口ごもった。てっきり結婚の話の続きかと思ったのだが違った。ただし話題が変わってホッとしたことは事実で、彼女の口元は緩んだ。


「え、えぇ。好きですわ。まぁ本当はあまり上手くは踊れませんけれど」


 『あまり』どころか今の体では殆どステップも踏めない有様だろうが、彼女はつい見栄を張った。刹那、今度は虚しさが胸に広がって体が冷えていく。


(わたくしって本当にバカだわ)


「……冷えてきたから、もう休むわね」


 彼女は素っ気なく扉に向かった。するとアニーが大股で彼女を追い越し、扉の前に立ちはだかった。まだ話すことがあるのかと彼女が眉を寄せると、その皺の上に、優しい口づけが降りた。しっとりと頬が合わさる。


「おやすみ、モニカ。いい夢を」


 蜜が溶けるような色が彼女のヘーゼルに絡んだ。

 夜にだけ向けられる、菓子のような甘い眼差し。待ち望んだ、細く優しい手が髪を撫でた。


「おやすみなさい、アニー」


 モニカは辛うじて返し、開けてもらった扉から逃げるようにしてすり抜けた。

 背後で扉の閉まる音。

 彼女は駆けた。居ても立ってもいられなかった。

 今すぐにでも「違うの」とアニーに縋りつきたかった。全部嘘なのだと、結婚などしたくないのだと、また喚いて騒いで、抱きしめて慰めてもらいたかった。

 そうしないよう、逃げた。

 

(そんなこと、許されるはずない)


 再び込み上がるまぶたの熱さを誤魔化す。

 しかし彼女は、通用口の手前でもう息が切れて立ち止まった。追いついた侍女が肩にガウンを掛ける。


 ――外へ出た。

 ふらつきながら全身を月の光に晒したモニカは、あぁと顔を覆った。

 全てを見透かす光。


(嫌よ。殿下と結婚なんて! わたくしはダーニャと……いいえ、アニーさまのような方と結婚したかった)


 丸っこい指の隙間から温い雫が滴り、夜露に変わった。

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