白雪と失恋と独白

 雪が降る街と聞いて、世間一般は恐らくそこにロマンを見出すだろう。大雪が降る景色を家で窓越しに眺めながら暖炉で暖まる光景や、二人で愛の強さだけ手をぎゅっと結んで結局お互いの手が痛くなるとか、相合傘をして自分は右肩だけを彼女は左肩だけを雪で濡らしながら見るイルミネーションが格別に綺麗で色んな意味で忘れることができないクリスマスの夜とか、様々なことを想像するだろう。それは確かに美しいし、別の言葉で置き換えるならそれは幻想的という言葉が最も適切だろう。

 だが、そんな中でも僕は雪に対して素直に喜べなかった。まぁ、僕は東北地方のさらに日本海側の出身だから、雪は散々見飽きていて彼らの脅威を知っているということも一つの原因に挙げられるし、クリスマスの時僕の友達だった佐々木俊介が中学校のころから片思いしていた三浦春香に告白しようとして集合場所を間違える痛恨のミスを犯してしまったことが思い出されることも原因に挙げられるだろう。

 しかし、僕のこの雪嫌いの一番の原因は、もっと別のところにある。

 僕はこの雪に嫉妬してしまうのだ。

 雪自体に罪がないことくらい、錯乱状態に陥り失恋ソング以外聞けなくなってしまった僕にもわかる。しかし、雪を見ているとくだらないこの二つのことよりも、もっと大事なあのことを思い出してしまうのだ。

 当時高校生だった僕は、同じクラスメイトの相沢真希に片思いをしていた。片思いの期間は長かった。蝉が無惨にも車道に落っこちて、あれほどみんなに可愛がられた紅葉が生徒に見下ろされながら無感情に箒で捨てられていって、そして雪を避けながら登校するまでの間、僕は彼女に恋をしていた。誰にも打ち明けない密かなる恋をしていたころは楽しかった。授業中の彼女の後姿を眺めるのも急に先生に当てられる時以上にドキドキしたし、返却された英単語の小テストの点数を彼女と競う時は胸が飛び上がりまるで明るい未来が確約された人のように世界が輝いて見えた。彼女と言葉を交わすだけで、他の人とは何か違う、特別な空気感が得られた。

 そんな生活を続けていくが、時間は必ず過ぎ去ってしまう。高校二年生の僕はそろそろ受験を意識するようになっていった。幸か不幸か、僕の通っていた学校は偏差値が高い進学校ではなく、偏差値が五十くらいの普通の学校だったから、三年生になってから受験勉強、高校二年生のクリスマスは思い思い好きな時間を過ごせる雰囲気だった。これが進学校だったら、きっと僕は彼女に思いを伝えることもなく自習室に籠って一方的な愛を武器に勉強していただろう。今振り返るとそれはそれで、幸せだったのかもしれない。ハッピーエンドでもバットエンドでもない、幸せな僕の勝ち逃げ状態になっていたかもしれないから。いつだって恋愛小説は結ばれた後が心躍るものではない、結ばれる最中が心躍るものだ。

 しかしその時の僕はというと、「告白しなかったら一生引きずることになる、相沢真希は僕が生きてきた中で最高の人物だ」という思想に憑りつかれていた。いや、憑りつかれているという表現は良くないのかもしれない。実際に、彼女は今まで僕が生きてきた中で一番素晴らしい人だったのだから。話を戻すと、高校時代大人たちは口々に必ずこう言った。「高校時代の青春が一番良かったな」と。何かとため息を吐いてシミが付いて汚らしい床を見つめている人も高校時代の話になると必ず、あの人に告白すればよかったなどと未練を残してはもの鬱気な顔で冷水を飲んでいた。高校は人生という連山の一つの頂点であり、そこで妥協したことはその後になっても未練を残す、僕がそう結論付けることは決して難しくなかった。だからこそ、僕は未練を残したくなかった。卒業してもなお人々の胸に刻まれるような高校時代は青春の限りを謳歌してやろう、そんな考えを僕は常に持っていた。

 だから電話で「付き合ってもいいよ」と言われた時僕は舞い上がるように幸せで、目的が達成されたような気がしてとても誇らしかった。

 そこから僕と相沢は平日だけでなく休日にも顔を合わせることになった。休日の相沢は見違えるほど素敵だった。灰色一色のコーデが多かった彼女は高校生とは思えずまるで大人と見違えるような魅力を放っていた。彼女の周りに立つ無機質なデザインの電灯さえも、一風変わった魅力を持っているようで素敵に見えた。僕は他の男が知らない隠された彼女の一面を知ったのだと思うと、出会って顔を見合わせているこの一秒一秒がルビーとかの宝石なんかよりもずいぶん尊く思えてきた。彼女とみるクリスマスのイルミネーションはもう言葉にするまでもないだろう。だが――意外かもしれないが――僕たちは高校生にありがちである典型的な距離が短すぎるようなカップルではなく、一歩引くようなそんな関係性を保つカップルだった。だが僕は文句をつけることがなく、むしろ雲一つない青空かのように満足していた。ちゃんと計画的に僕との関係を考えてくれているような気がして嬉しかったからだ。

 確かにその時僕は密かに有頂天であったし、自分は高校生活に成功したと確信した。何せ、交際していることがばれた時、周りの友人に会うたびに羨ましいとため息をつかされたのだから。あんなにも可愛らしい女の子と最高のひと時を過ごしているのだ。有頂天にならないやつのほうがおかしい。僕はあの時、全世界の十七歳の中で最も幸せだったと言えるだろう。

 これが僕の全盛期だった。この先から少しずつ、僕たちはどこかずれていく。恋愛小説のようにハッピーエンドで終わることはできない。恋愛小説も一番心の距離が近くなったところで終わるからハッピーエンドになって登場人物が幸せなまま幕を終えることができるのであって、どうせきっといつかは歩幅がずれていくものだと、僕は祈っている。

 雪は解けて、桜が咲くころには僕たちはクラスメイトではなくなっていた。とはいえ、僕たちはまだ二人を繋ぎとめるだけの恋があったはずだから、目があえばどこからともなく近づいて談笑をしていたから、僕と相沢は話すこともなく一切会わないということはなかった。そんなことはなかった。

 桜が咲いて僕は三年生になった。受験期に差し掛かった僕たちだったが、僕と相沢では学力に雲泥の差があった。相沢は歴代でも群を抜いてトップに成績が優秀で、模試では国民全員が聞いたことがあるような超難関大学もこの学校の生徒としては驚くような判定を取っていた。一方の僕はというと成績は一番下を争うグループのうちの一人で、大学はおろかこのままでは就職も厳しいとさえ言われたほどだった。一、二年生の頃に勉強をさぼっていたおかげで推薦は受けることができず、一般入試で勝負するしかなかった。そんな状況の癖に、僕は塾の先生が知っているくらいの知名度の難関大学に入学することを憧れていた。相沢が目指すような超難関大学とはかなりの差があるが、それでも僕が志望するところは学年で一人でも出れば素晴らしいと呼べるような大学だった。そんなところに受かるためには、僕はこの一年の全てを捧げる覚悟が必要だった。

 しかし、運がいいことに僕が志望する大学は相沢が志望する大学と都道府県が同じだった。大学生になってもまた相沢と会える、そう思うと僕は勉強に対して俄然全てを捧げる気になれた。そして、僕は文字通り全てを捧げてしまった。

 相沢は成績が段違いに良く、更に受け答えも高校生としては完成されすぎていたために圧倒的余裕をもってその超難関大学にあっさりと合格を決めていた。二月初旬のことだった。僕も入試前日に応援の言葉を送り、彼女の合格を心から祝った。そして彼女は二月初旬で早い方ではないとはいえ、彼女は一年生の頃からこまめに勉強をしていて学力にかなりの貯金があったので、就職組や比較的早めに終わる推薦組の友達と遊び最後の学生生活を謳歌していた。そこまで頭がよくまめな性格ならなぜこの高校を選んだのだろう、という疑問が僕の頭に浮かんだがそれは落ち着いて消去することにした。そんなこと考えても仕方ないし、現にこの高校に来てくれて僕は幸せな時間を過ごしたのだから、詮索するだけそれは無駄なことだと当時の僕は考えていた。そんなことより、僕は勉強に集中して大学に受からなければならない。成績は順調に上がっているとはいえ、まだ大学が求めるラインには届いてなかった。僕は邪念を振り払うようにして首を横に振り、英語の長文参考書に目を落としていた。

 今僕は振り返ってみると、この時にはすでに歩幅がずれていたように感じる。だが、僕は僕なりに彼女に恋をしていた。その恋の動力があったからこそ、僕は身も悶えるような苦行に取り組めていた。彼女を見る機会が減っていても、僕は彼女に恋し続けていた。彼女の写真を見るたびに、僕の胸が皮膚を突き破って出ていきそうで彼女を愛おしく思った。彼女と一緒に見たあのクリスマスのイルミネーションを思い出して、一人で勝手に高揚して未来は明るいものになると自分に言い聞かせていた。彼女と一目会った時には、その瞬間だけ二人の間に流れるゆったりとした空気を感じ取ろうとした。

 彼女の笑顔を見るたびに、僕は華々しい未来を想像していた。

 三年生の三学期はもはや三学期と呼んでいいのか怪しいようなものだ。進路が決定した人は自宅での家庭学習日となり、彼らは外で遊んで最後の思い出を作っている。そんな中僕のような一般組は補習を行って大学の二次試験対策をこつこつと黙々とやっていた。相沢はというと最初は入試が控えているため補習に参加していたが、合格を勝ち取ってからは友達と最後の思い出つくりに勤しんでいた。

 そういえば最近連絡を取り合っていないということに僕は気が付く。以前はこまめに連絡を取っていたにもかかわらず、最近では何日に一通やり取りをするというペースに落ち込んでいた。僕は変わらず毎日時間を見つけては返信をしていたが、思い出つくりに忙しかったのか彼女の方が何日か返信が遅れるようなことがあったり、僕のメッセージに既読だけつけておくことが増えた。その度に心の中身がが体から抜けていって叩いたら音が響くほどには心に空洞ができたが、僕は彼女の過密なスケジュールを想像することでその空白を埋め尽くした。そもそも大学生活で何度も会えるじゃないかと思って僕は未来の大学生活を考えることで勉強に励んだ。その甲斐あってか、僕の成績は着々と上がっていき、上がった分だけ僕は相沢の身近で四年間を過ごすことができる期待に胸を膨らませていた。

 そうした日々を送っているとあっという間に入試当日を迎えた。一通り友達からのメッセージを見て、特に同じ入試日程の友達とお互いを励まし合った。そのメッセージを見ていると僕は志望先の大学に受かりそうな気がして自信が付いた。同じ境遇にある仲間の言葉はやはり重みがあるように思えた。そのおかげで、僕は緊張に体が支配されるようなことはなかった。

 結果から言うと、僕は晴れて第一志望合格を勝ち取った。インターネットで自分の受験番号を見た瞬間、僕は上がりきった胸を撫で下した。こういったものは案外親などの第三者が喜ぶようなもので、親に合格したことを伝えると母親はすぐに家を飛び出して隣の家の母親友達に聞きとして僕の合格を伝えに行った。

 そして僕は当然、彼女にメッセージアプリで合格を伝えた。卒業式は彼女の都合で会うことが困難となったが、僕は受験終了記念もかねて彼女と代わりに卒業旅行に行こうと計画していた。僕の閉じこもった一年間はようやく終わりを迎え、これから彼女との新生活が幕を開ける。僕は興奮を抑えることができなかった。

 僕が一報を伝えてから三日後に返信が来た。相沢は僕に「おめでとう」と伝え、そして「ごめんなさい、別れよう」と告げたのだった。

 僕は何度も説得をしようと試みた。「何か悪い部分でもあったの。悪い部分は頑張って直すよ。だから素直に言ってくれ」相沢は譲らなかった。「何も悪い部分はないよ。でも、私別れたいの」

 「どうしてなんだ」と僕が尋ねると「ごめんなさい、別に君に話すことなんてないよ」と相沢は答えた。「怒らないから素直に言ってくれ」「本当になんでもないの、これはただ単に、私の問題」。

 そんな堂々巡りが始まって十巡目、相沢は根負けしたのか、ほんの少しだけ僕に今までと違う言葉を送った。「あなたのことが好きじゃないの。だから、本当に別れて」。

 この時僕は、この言葉に何か言い返すこともできた。しかし、なぜか指が動くことはなかった。僕のことが好きで、だから付き合っていたわけじゃないのか、様々なことが混ざり合って深い混乱が当時の僕の脳みそを襲った。窯で熱した高温の細く鋭い鉄棒で僕の脳みそが引っ掻き回されているようだった。そして、その苦痛に顔をにじませながら時間だけが経った。頬に冷たいものが走った。時間が経っても、僕の頬は冷たいものが延々と走っていた。声を出したらなんとなく、自分がみじめに思えるから声だけは出さなかった。もし出してしまったら、情けない声になるだろうから。

 夜が更けて日が昇るまで、僕はそこから一歩も動かずただ時間が止まることを祈っていた。




 祈りに反して時間がどんどんと過ぎ去っていき、今に至る。今日はクリスマスで、駅には様々な人が交差して様々な表情を浮かべていた。幸せそうな人、これから幸せが始まりそうな人、時間を気にして急いでいる人もいれば、赤の他人の幸福をねたんでいるような表情の人もいた。この駅にいる全員がこの中のどれかの表情をしていた。僕はそれを見ながら、バイトの帰りで乗り慣れた電車に乗ってそそくさと一人家に帰る。バイト先では恐らくクリスマスパーティーが開かれているだろうが、僕はそれに参加しなかった。参加しなかったことによる後悔は微塵もなかった。バイト先の人とはそりが合わなかったこともあって、むしろ向こうも僕がいないことにほっとしているだろう。

 大学内ではクリスマスパーティーをするような人は一人もいなかった。そういった人間関係を作ろうと思えば恐らく作れるのだろう。だがなぜか心の底からそういったことが面倒くさく感じられて、新しい友達を作る気にもなれなかった。

 外に出ると雪が降っていた。道路は粉雪のベールで白く包まれて、都会のビルも相まって光と調和した一面幻想的な銀世界になっていた。駅前広場では中央でイルミネーションが飾られて周りの風景をより一層ロマンチックに仕上げていた。

 イルミネーションを見ると、あの人を思い出す。高校時代、僕が全身全霊をかけて恋をしたあの人を。幸せは長く続くことはなく、花がしぼむように終わりを迎えた。あの頃は輝いていた、最近はずっとそのことを考えている。高校三年生の頃でさえ、当時の自分は輝いていたと思える。あの時はどこか瑞々しく前向きに走っているような感触があった。だが、今の自分にはそれはもうない。あの時に大股で一歩踏み出したものを、今の僕は小股で半歩ずり足で出ている。そこに瑞々しさは一切なく、老樹のしわくれた樹皮のように乾燥していて頼りなかった。

 イルミネーションのあのことは、今では思い出すだけで嫌になった。少し前はあれほどいい出来事の象徴であったのにも関わらず、現在の早すぎる凋落っぷりに自分でも笑ってしまうほどだ。もう今では女性を信じることができなくなってしまった。僕に送られる言葉の裏にはどこか冷笑めいたものが隠されているような気がしてならなかった。今あのことを振り返って、僕は思う。実は最初から相沢は僕のことを愛してくれていないのではないのか、と。彼女との特徴の一つであった一歩引いた関係性も今では、相沢が実は好きではなかったから僕と親密な関係になることを拒んで一歩引いていたようにしか思えなくなった。「付き合ってもいいよ」その一言は相沢が僕の重すぎる恋に譲歩して仕方なく出た一言のように感じる。二月頃に起きた数日おきのあのメッセージも、僕との関係上返信するしかなく嫌々で適当に返信したように思える。もう一体、どこから間違っていたのだろう。僕はもう分らなくなってしまった。

 雪は変わらず降り続いている。傘を下ろして顔を上げると雪が僕の顔に当たって頬に水気を感じる。ふと顔を下ろすと、見たことがあるような顔があった。じっとそこに目の焦点を当てると、そこには笑顔で少し斜め上を向く相沢がいた。目線の先はすぐそこで、誰かがいるような気がした。相沢の目線を辿っていくとそこには相沢を見つめる男がいた。顔も格好よく、その人は僕に完璧なる敗北を与えた。赤い服とマフラーを身に着けた相沢はその男と腕組みをして溢れんばかりの笑顔で彼を見ている。彼も相沢をじっと見ながら微笑んでいる。僕はあんな相沢の笑顔を、今日初めて知った。あんなに素敵な笑顔を見せるなんて僕は一切知らなかった。相沢は僕にあんな笑顔、一度も見せたことがなかったから。

 途端に体が寒くなったような気がした。目を閉じてしまうとそこにあった暗くて糸のように細い一本の道が千切れて無くなってしまうような気がして、僕は目を閉じる気分にはなれなかった。今降り続ける雪が、更に憎くてたまらなくなった。足元をめり込ませるように踏んづけて雪を自分の周りから消し去る。雪を消し去ると僕はそこに座り込みたくなった。しかし、一回座り込んでしまえば僕はもう二度と立ち上がれないような気がした。駅や広場から絶えることなく聞こえ続けるはずの人々の喧騒が段々と遠くなっていった。人々は僕に目線を配ることなく避けていく。僕がこの雰囲気に馴染めず一人浮いているのを感じる。足元の力が徐々に抜けてきて、頭が重くなっていく。

 僕は一体、これからどうなるんだろう。

 人々が止まることなく行き交う駅の広場で、僕だけがぽつんと一人立っていた。

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