どこにも存在しない理想の青春
数学の時間が終わってもそれに気づかず居眠りを続けていた高崎健太は誰かから肩を叩かれた感覚で目を覚ました。
「おい、もう数学は終わったぞ」
目を開いたと同時に男の声が聞こえてくる。
「あぁ、もう終わったの?クッソ早いじゃん」
高崎がそう答えると声をかけた男は男は吐き捨てるように言った。
「寝てたお前が言うことじゃねぇだろ」
そしてワックス跡が目立つ短髪のその男は聞こえるように舌打ちをした。
「いやぁ起こしてくれてサンキュな、飯田」
高崎は顔も見ずに言った後、席を立って窓に見せつけるように大きく伸びをした。教室にいながらも、窓の向こうから聞こえる蝉の音と少しばかり強すぎる日差しによって外にいるような気分になった。
「お前のせいで当てられる順番ずれて俺が痛い目にあったんだぞ」
この数学教師は席順に問題を聞いてくるような教師だった。だからほとんどの生徒たちは教授が当ててくる場所を予測してあらかじめ準備しておくいことで対応していた。そのために、当たる順番が一つずれるということは彼らたちにとって死を意味した。
「悪い悪い、でも勉強になってよかっただろ」
高崎は後ろから放たれる飯田の鋭い視線を意にも介さず答えた。
「うるせぇな、お前もやれよ」
飯田はあきれた口調でそう言った。
「そうだよ、高崎くんもちゃんとやってよ」
明らかに男子の声ではないと分かる声に、高崎は胸の高鳴りを隠しながら振り返った。そこには高崎の後ろの席に座っている神原咲が立っていた。
「ごめんごめん、つい眠くなっちゃって」
高崎は頭を搔きながら神原に言った。
「でも神原さんならこの問題簡単に解けるでしょ」
「やめてよそんなこと。私頭良くないから」
神原は高崎の冗談にくすくすと笑った。長髪長身で細身の彼女は意外と目立たないが、男子生徒からは可愛い、綺麗などと陰で必ず褒められる存在だった。高崎は彼女と席が近くなったことをかなり誇らしく思っていた。
「でもこないだ神原さん中間テストで数学満点取ってたじゃん」
「いやいやあれはたまたまだって」
神原は懸命に首を横に振る。まるで最高級の漆が混じっているかのような黒くつややかな長髪が揺れた。高崎はそれを見て微笑んだ。
「神原、たまたまでもすげぇよ。高崎なんて赤点ギリギリだったんだぞ」
「黙っておけよ恥ずかしいわ」
三人は顔を見合わせながら声に出して笑った。
「そういえば」
飯田が突然何かを思い出したかのように喋る。
「どうしたんだよ」
「いや、それほど大事なことではないんだけどさ、来週の期末試験終わったら夏休みに入るなって思って」
「あー確かにね。期末めんどくさいなー、早く夏休み来ないかな」
「神原さんは期末試験の勉強したの?」
「私はしてないかな、今回は本当にだめかもしれない」
「出たわそうやって保険かけるやつ。そう言っておいて結局神原さんの方が俺よりテストの点数高いんでしょ」
「いやいや今回こそは本当にきついんだって!」
神原は焦ったように声を上げた。そして息をする間もなく続けた。
「そう言ってる高崎くんこそ絶対勉強してるんでしょ!」
神原は口角を上げながら高崎を問い詰めた。
「俺がしてると思うか?していたら数学の時間寝てないぞ?」
「それこそ勉強やってないアピールなんじゃないの?」
「もう引き際分らなくなっちゃったよ」
高崎は笑った。神原もそれにつられて笑った。
「漫才見せられてる俺の気持ちにでもなれよ」
「悪いな飯田」
「まぁ、これから夏休みが始まるんだぞ。二人とも何か予定でも立てたか?」
飯田は高崎と神原の間に立って二人に聞いた。
「いやー特に私は立ててないかな」
「俺もこれと言って予定はないかな。……あ、部活が結構あるわ」
「飯田くんは何か部活とか予定があるの?」
「俺も特にないな、部活があるくらいだな」
「じゃあみんな夏休みは暇ということだね」
高崎はそう言って二人を見た。神原も飯田もそれに頷いた。
「なら三人でどっか海にでも行こうぜ」
飯田は半ば興奮気味に言った。「せっかくの夏休みだ、遊び散らかそうぜ」
「それ結構あり、行きたい」
「私も賛成かな、すっごく楽しみ」
「じゃあ決定な、夜にいつ行くか日程決めようぜ」
「あとせっかくならさ、海だけじゃなくてみんなで祭りに行かない?」
神原は前のめりになって二人の顔を見た。二人ともそれが名案だと言わんばかりの明るい顔をしていた。
「良いね祭りも行こう、絶対楽しい夏休みになるぞ」
「他に何するか決めようよ」
高崎がそう言った途端、教室内に始業のチャイムの音が鳴り響いた。
「あー、もう終わりか」
飯田は口惜しそうに時計を睨みつけた。
「まぁ、放課後にカラオケにでも行って夏休みの会議でもしようぜ」
飯田は二人の方を振り返って、そして自分の席に着いた。
その飯田に神原と高崎は頷いて、自分たちの席に着く。
高崎は夏休みの約束を心臓が飛び上がるほど嬉しく思った。高崎は神原に密かに思いを寄せていたからだ。神原と喋るだけで嬉しかった高崎は、夏休みにもまた神原に会えると思うと胸の鼓動が止まらなかった。そしてそれは神原も同じだった。神原も高崎と言葉を交わすことが楽しかったから、幸せだったから、また夏休みに会えるのが楽しみだった。
高崎はそんなことには気づかずに窓を眺める。外はまだ蝉が鳴き続けていて、一瞬で日焼けしてしまいそうなほどに明るかった。窓の隙間から一陣の風が吹く。木々が揺れて、プリントが浮足立って、高崎の前髪が軽くなびいた。彼の夏は、これから始まる。
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