失恋して不幸な人生を送る私の殴り書いた短編集

とうげんきょう

エピローグが終わった後も世界は続く

 文庫本にしておよそ二百八十ページ、そこで幼い男の子と女の子は永遠の愛を誓い合った。

「ねぇ、僕君のこと好きだよ」

「私も、あなたのことが大好き」

ここで、幸せな物語は終わりを迎えた。文章は、物語はここで終わった。文章が終わって、満足そうに読者は本を閉じる。しかし物語が終わった後もこの世界はまだ続いていた。

「僕のことが好きだなんて……本当? 嬉しいなぁ。……これってさ、『付き合う』ってことなのかな?」

そう語る男の子の口元は緩みながらもどこかせわしなかった。女の子は分かりやすいほどに顔を赤く染めながら「そうみたいだね。……付き合っても、良い?」と言った。顔は下を向いていた。コンクリートの上に蝉の死体が転がり、それに向かって一直線にアリが一列で並んでるのが目に入った。女の子は背中がひんやりとする感覚を覚えた。

「全然いいよ。僕は君のことが好きだし、正直に言うとずっと一緒にいたいから」

男の子は時々目を下にそらしながらも女の子を見て言った。男の子は下に転がる蝉の死体に全く気が付かなかった。ピンクのキャップをかぶって汗を流している少女ただ一つのみ見ていた。

「そんなことを言われるの、なんか嬉しいな。少女漫画みたい」

女の子は顔を上げて男の子の方を見た。木漏れ日が男の子を包んで影と光を作っていて、女の子はそれをとても綺麗だと思った。そして、この自分の気持ちは本当に心の底から思っていることであってほしいと祈った。


 女の子はすべてを知っていた。この世界は物語の世界であるということを。そして、その主人公が自分だということを。なにも物語らしい特別なことが起こったわけではない。女の子はただ男の子に恋をしただけだった。しかし、女の子は直感していた。自分は誰かに書かれた文章の中で生きていることを、そして男の子との恋愛も誰かが作ったストーリーの上にあることを。その証拠として、女の子は男の子の名前を知らないし、自分自身の名前も知らなかった。女の子は自分のことを『女の子』として認識し、男の子もまた自分のことを『男の子』として認識していた。恐らく作者が、私たちの名前は不必要として名付けなかったのだろう。

 だからこそ、女の子は怖かった。男の子に対するこの感情が、もし自分自身で抱いたものではなく作者によって無理矢理抱かせられた、言わば洗脳された恋かもしれないということが。そして物語が終わると自分たちの存在意義がなくなって忘れ去られてしまうという不安に、女の子はずっと怯え続けていた。


 思春期に入ったかどうかも怪しい年頃では、自然とデートスポットは限られていた。

「じゃあ付き合ったんだから、これが初デートだね」

男の子は汗を頬に垂らして、屈託のない笑顔を浮かべてそう言った。男の子の右後ろの木で蝉が激しく鳴いていた。

「これからどこに初デート行くの?」

女の子は男の子にそう質問した。男の子は少しばかり考えてから、誰もいない方向に指した。

「あそこのショッピングモールに行こう」

「いいね、それ。外は暑いし、はやく冷房が効いたところに行きたいな」

女の子はそう言って、首元の汗を片手で拭いた。拭った後の汗が固まってまとわりつくような感触がとても嫌で、女の子は何回も首元を擦った。


 地元で一番の大きさの二階建てショッピングモールに足を踏み入れたその瞬間、女の子と男の子は体の正面に冷気が押し寄せてくるのを感じた。

「あぁ、すっずしい!」

男の子は体全身を冷気に当てようと、両手を横に振り回しながらそう言った。女の子も「涼しいね」なんて言いながら、手をぐっと伸ばして伸びをした。客は二人組の子供に興味を示すこともなく、各々自分の買い物を済ませようと買い物かごをもって右往左往している。

「んーじゃあ、君はどこか行きたい所とかある?」

男の子はすっかり両手を下ろして女の子に尋ねた。そして通路の両側に広がる菓子パン売り場や酒売り場に目線を奪われていた。「すごい高そうなお酒だなぁ。名前は一切分からないけど」

「んー、あなたが行きたいとこでいいよ。私は今行きたいとことかはないかなぁ」

女の子は目が行ったり来たりしている男の子を見てふとため息をついた。「あと、そんなにキョロキョロしてたら迷子になっちゃうよ」

男の子はそれを聞くと、女の子の方を振り向いて笑った。

「そうだね、迷子になったらせっかくのデートが台無しだもんね。ねぇ、もし行きたいところがないのなら二階のゲームセンターに行こうよ」

女の子は男の子の目を見た。男の子の目はショッピングモールの眩しすぎる照明くらいには輝いているように思えた。男の子のそんな表情を見るのは初めてだなと思うと胸がむずむずしてきてどこかに走り回りたい気分になった。しかし、自分が今生きているのは物語の世界で誰かの想像の世界なのだと思うと男の子の目も自分の心も上辺だけ輝いているように思えて、どこかに走り去りたいという気持ちは消え去ってしまっていた。

「どうしたの?」返事がないのを不審に感じた男の子が女の子の肩をぽんと触った。

「いいや、なんでもない。ぼーっとしてただけ」女の子はその手を優しく払って歩き始めた。


 ショッピングモールの二階へと上る。仮面ライダーのベルトやプリキュアのパジャマが置かれているコーナーを進んで行き、辺り一面が緑色のペンキで塗られたようなゲームセンターの前で二人は止まった。

「ここだよね?」

女の子はもう一度男の子の顔を見た。顔はやはり輝いていて素敵だった。彼に見られている私はどうだろうか。今すぐ鏡を見たくなった。

「うん、早く入ろうよ」

そう言って男の子は意気揚々と一歩踏み出した。女の子も男の子に合わせてゲームセンターの中に入った。

 ゲームセンターには様々な人がいた。女の子と同年代の人もいれば白髪が生えて腰が曲がった老人もいた。女の子は魚釣りのメダルゲームで友人と一緒に遊んでいる同年代の人を見て小学校で会ったことがないか記憶を辿り、一人でスロットのメダルゲームで遊んでいる老人を見てまるで自分とは別世界の人間だと思った。女の子には自分の老いた姿というのが、どうしても想像できなかった。そのようなことは、何千年も先にあるように思えた。

「何して遊ぶの?」

女の子は男の子に質問した。男の子は目の前の自動換金所を指さして「メダルゲームをやろう」と言った。


 そこから二人はメダルゲームをした。コインを入れるたびにドット絵の同じオープニングが流れる。そのゲーム機は女の子より先に産まれていた。そのゲームをしている時、女の子はまるでタイムスリップをしたかのような気持ちになった。男の子はどう感じているのかな。女の子は男の子が気になって何度もそちらを振り向いた。しかし見るたびに男の子はそんなこと一切関係なく、ゲームにひたすら集中していた。その目は真剣そのものだった。女の子はその真剣な顔を見ているとだんだん感情が昂ってきた。男の子がゲームをしているこの光景が愛おしく特別なものに感じられるようになった。ふと、この世界が架空の世界かもしれないと思ってしまった。胸が激しく突き動かされるような、さっと引いてしまうような、ぐちゃぐちゃとした感情に襲われた。

 ゲームに使えるお金が無くなって、二人が帰るころには夕方になっていた。夕方の空は茜色と藍色で混ざり合っていた。

「今日は本当に楽しかったよ、ありがとう」

別れ際、男の子は横にいる女の子に向かって言った。

「私も楽しかったよ。本当にありがとう」

女の子の顔からは自然と笑みがこぼれていた。

「うん、こちらこそ」男の子はそう呟いて、女の子の方に身体を向けた。

「……あと、こんな僕と付き合ってくれてありがとう」男の子は目線を下に落としながら、消え入るような声で呟いた。そして、それを取り繕うかのように顔を上げてにっこりと微笑んだ。

 顔の右半分が沈みかけの太陽に照らされて、その笑顔はほんのり赤くて小麦色に輝いていた。女の子はその顔を見た瞬間胸が固まったようだった。そして、何とか動く頭を使って自分に移る視界を一枚の写真のように切り抜いた。

 この笑顔を忘れないようにしよう、と女の子は秘かに思った。例え上辺だけのものだとしても、この笑顔が純粋にかっこよくて好きだったから。



 それから三日ほど、男の子と女の子は毎日片身離れず遊んで過ごした。好きな人の横顔を毎日見られることは、女の子にとって至福のことであった。汗をかきながら何かをする男の子の横顔は、他のどんなクラスメイトよりも格好良かった。夏の天気も相まって、女の子には男の子を取り巻く景色すべてが眩しく見えた。男の子はもちろん、少々色が濃すぎる青空や水滴を垂らす深緑色の雑草がとても眩しく美しい光景に見えた。

 男の子と一緒にいる瞬間だけ、少女は自分の不安を忘れられた。この世界についてのこと、自分たちの存在意義、そして男の子が自分のことを上辺だけで愛しているかもしれないという不安を。何よりも男の子が本心では自分のことが好いていないかもしれないという不安は、男の子と一緒にいる時だけ見えないように蓋をされる。

 だが男の子の顔が見えないとき、女の子はその蓋を取ってしまうのだ。


 また次の日もいつものように集合場所に向かって、女の子は胸を躍らせながら男の子を待っていた。しかしいつも男の子が来る時間になっても男の子は姿を見せなかった。女の子は不安になり、辺り一帯を見回した。集合場所はいつもの場所だから間違えるはずはない。だが実際に男の子は来ていない。女の子は徐々に落ち着きをなくしていった。しばらくするとじっと待っていることができなくなりその場で足踏みをし始める。一歩一歩と足を動かす度、少しづつ心の蓋が外れていくのを感じた。どこからか鳴いている蝉の声が段々と激しくなって女の子の耳元にじっとりと張り付いてくる。シャツに汗が染みこみ、身体に汗がまとわりついて気味が悪くなった。道を通る車の速度が妙に速く感じられた。

 それでも女の子はその場に留まり続けた。小雨が降っても、女の子はじっと待ち続けた。いつか男の子が迎えに来てくれて、自分を包んでくれると願っていた。「ごめんね、遅くなって。雨に濡れてるじゃないか、大丈夫? タオル貸すから体拭いてよ。僕のためにずっと待っててくれたんだ、本当にありがとう。君はすっごく優しいね。そういうところ、僕は好きだよ。君の一番大好きなところ」。男の子の愛情が本物ではないということだけは、女の子は絶対に認めたくなかった。だから女の子は男の子を待つことしかできなかった。

 しかしどれだけ待てど結果は変わらず、少女は昇っていく半月を一人で見つめていた。


 そんなことがあってから、女の子は自分の部屋に引きこもるようになっていった。カーテンを閉め切って部屋の電気も一切つけなかった。その部屋で女の子はほとんど何も食べなかった。たまに小腹が空いたときに蓋が空きっぱなしの菓子缶から洋菓子を取り出して食べるくらいで、あとは何度も見返した少女漫画を一ページずつまるで聖書のように読んでいた。そこに救いを求めるかのように。

 女の子はこう考える、少女漫画の世界は幻想郷だと。そこでは必ず、ヒロインの恋は最高な形で報われる。どんなに苦境に立たされても、どんなに心が折れそうになっても、白馬の王子様がヒロインのしわくちゃになった心を包んでくれる。私も、こんな夢の世界に行けたらいいな。そう女の子は思った。同じ物語の世界なのに、なんで私は報われないの。そんな嫉妬に近い感情に身を委ねながら、女の子は少女漫画みたいに自分が救われるような身勝手で自暴自棄的な妄想をする。

 自分は今まともではないと女の子は感じていた。どこかねじがずれてしまったとも思った。しかし、こうしていることが今の女の子にとって一番幸せなことだった。だから女の子は自分がまともになることを許さなかった。胸が痛む。しかも男の子と一緒にいる時に感じるような健康的な胸の痛みではない、まるで自分の魂を燃やしているような不健康な痛みだった。だがそれが一番心地良かった。泥沼に落ちた自分を落ちたまま認めてあげられるような気がして、そして何より、こういうことをしていたら少女漫画の王子様が助けに来てくれるような気がして、女の子は不健康な行いをやめることができなかった。女の子は身勝手なもの想いに耽る。私の王子様は、それは絶対、男の子のことなんだろうな。赤く小麦色に輝いていたあの笑顔と一人で見つめた半月を思い出して、女の子は勝手に傷つけられながら喜んだ。私だけが知るあの笑顔で、私は救われるのだ。そう思うだけで女の子は長い残りの人生を生きていけるような気がしてならなかった。もっとも、女の子がこうなってしまった原因は男の子にあるのだが。


 少女漫画も四週目に入りいよいよ菓子缶の底が見えてきた頃、突如家にインターフォンの音が鳴り響いた。午後五時半、まだ父親が仕事から帰ってくる時間帯ではなかった。女の子は不審に思った。いったい誰が押したのだろう。母親がいた部屋から扉が開いて歩く音が聞こえた。恐らく母親が応対しているのだろう。夏休みだから先生が見舞いに来た、ということは考えられなかった。女の子はため息をついて少女漫画の世界に戻った。

 来客と話している時間はそんなにないように感じた。会話が終わったのかと思うなり急にこちらに向かってくるような足音が聞こえた。女の子は本を置いてじっと耳を立てる。母の足音だけでなく、もう一人誰かの足音も聞こえてきた。たちまち女の子は心臓が固まり急な来客に混乱を覚えた。この部屋の状態ではまずい、すぐにそう思った。しかしベットから一歩も動けなかった。何度か動こうと試みるのだが、その度になぜか「このままでいいだろう」という誘惑が女の子の内に押し寄せてきて抗うことができなかった。

 女の子はこの現状をこう解釈した。きっと、私は期待しているのかもしれない。この環境を、私を不安にさせるすべてを、優しく吹き飛ばす王子様を。包んでくれる言葉を期待したら女の子はどうにも部屋を片付ける気にならなかった。

 だから部屋が空いた時、それを待っていたかのように女の子の胸は飛び上がった。


 

 部屋の扉が開いて時間が経った。

 あのときはごめんね。女の子が男の子からそう聞いたとき、部屋の扉はすっかり閉じていた。女の子と男の子二人になっていた。

「なんで来なかったの」女の子はベットに三角座りして言った。女の子が自分で想像していたよりも遥かに口調は強かった。思ったように自分をコントロールできなくて、女の子は顔を太ももの中に埋めた。視界が部屋の中よりもさらに暗くなり、女の子はまるで空っぽの世界に自分だけ放り込まれたように感じた。

「ちょっと用事が出来て、行けなかったんだ」

「嘘、本当は面倒くさかったんだよね」

女の子は顔を埋めながら吐き出すように言った。

「本当なんだ。信じてくれ」

男の子は立ったまま、顔を伏せている女の子を見て言った。カーテンで遮られた薄暗い部屋の中に蝉と扇風機の音が響いていた。

「本当に?」

「本当に」

男の子は女の子の正面を見ながら頷いた。そして、扇風機と蝉の音だけが部屋の中で流れていた。

「でも、やっぱり信じられないよ」女の子は聞かれない程度の声でそう呟いて目元を太ももに擦りあてた。そして、ゆっくり女の子は口を開いた。今にも折れそうな木の枝にしがみつくかのような懸命さで人生で一番大事な告白をするときのような重たさだった。

「ねぇ、私怖いの」

「何が?」

「この世界が、物語の世界で誰かに作られた世界だということが。物語が終わったとき、きっと私たちの存在は忘れられて存在している意味がなくなっちゃうの、ねぇ、忘れられて何も残せず消えていくのは嫌だ」

誰にも言わなかったことを口にした女の子の声は、小刻みに震える一本の糸のように細く、か弱かった。それを聞いて男の子はじっと黙って、そしてゆっくり女の子の方へと歩んで行った。

「きっと僕たちの存在を忘れる人なんていないよ、もしこの世界が物語で、誰かに見られていたとしても、きっと僕たちのことを覚えておいてくれる人が一人はいるはず、その人が他の人に伝えていくんだよ。『こんな女の子がいた』って」男の子は女の子の肩を優しくさすった。

「でも怖いの、私たちが死んで、みんなに忘れ去られていくことが。結局何も残らないのだったら私たちは生きる意味がないようにしか思えなくって、怖いの。もう時間を前に進めたくない、死へ向かいたくない」

女の子は首を何回も横に振った。

「大丈夫だよ。もし他の人すべてが君のことを忘れていようが、僕は必ず覚えておく。たとえ死んだ後でも、幽霊になって僕は君のことを覚えておく。だから、君は一人じゃないし、忘れ去られる人間じゃない。僕がここにいる時点で、君は絶対に一人じゃないんだ」

そう言って男の子は激しく泣く女の子の背中をひたすらさすっていた。ずっと、ずっと。女の子の悩みが消えるまで。

「ありがとう、本当にありがとう。その言葉や行動は嬉しいよ。でも、私はどうしても信じられないの。この世界が物語の世界だということを思い出してしまったらその途端みんなの発言とか気持ちとかすべてが、作者によって無理に抱かされた上辺だけのハリボテのように見えてしまうの。だから、考えてしまうの。君の発言も上辺だけで心の底からは思ってないかもしれないということを。私の君に対するこの想いも、もしかしたらこの世界を作った人によって抱かされた嘘の恋なのかもしれないということを」

「嘘の恋じゃない、この気持ちは絶対に心の底からの気持ちだよ」

思わず男の子は声を大きくした。

「本当に、私は自分のこの気持ちが分からないの。私はあなたのことが好きだよ。好きなんだけど心の底から、本当の自分から好きだと思えるかどうか、私には分からないの」

「僕にもそんなこと分からない。だからと言って、そんな難しいこと考えなくてもいいんだよ。もっと誰かの側にいたい、そう思った時点で人はその人に恋をしているんだよ。恋に綺麗とか汚いとか優劣がないように、心の底からの恋とか表面上の恋とかないんだよ。誰かのためを思って全力で打ち込めるものが恋だから、表面上なわけがないだろ?」

「だから、安心して。僕は君が好きだ」

顔を伏せる女の子に向かって、男の子は笑顔を作った。それは、ほんのり赤くて小麦色のあの笑顔にそっくりだった。

「これで、どうかな」

無言のままでは少々長く感じるほどの間があって、女の子のが首が横に動いた。髪がそれに応じてゆらゆらと揺れた。

「そうなんだ……」

男の子は女の子に聞こえないように一息吐いた。その息はどこか途切れ途切れで、まるで女の子の声のような不安定さだった。

「どうしても、僕のことを信じてくれない?」

女の子は首を縦に動かして頷いた。

「そっか」

男の子はぽつりと呟いた。女の子の膝はとうに湿っていた。女の子が涙で声を上げそうになった瞬間、男の子は女の子の腕を軽くたたいて自分の顔を前に持って行った。

「ねぇ、これでも信じられない?」

女の子は釣られて顔を上げた。すると男の子はすでに泣いていた。鼻のすする音が聞こえて、泣きながら男の子が恥ずかしそうに笑った。「お願い、信じて。僕はまだ君と一緒にいたいんだ」

その時、女の子は何も言葉が出てこなかった。

 自分を縛っていた鎖のようなものが、一気に割れた音がした。

 急に自分が恥ずかしく思えてきた。今まで男の子のことを信じ切れず散々好きな人を振り回した自分が、とても恥ずべき存在に思えた。彼女として失格だ、そう感じた。もともとこの世界が実在する世界だったとしても、本当の恋かどうか確かめる方法は存在しないじゃないか。なら、向こう側の気持ちを実際に信じてあげることこそが、本当の恋と言えるものじゃないのだろうか。女の子はそう思う。

「いいよ。全然信じる。本当にありがとう」

女の子は笑った。憑き物が全て取れたような、純粋な笑顔だった。




 一言も喋らず、男の子と女の子は隣を歩きながら河川敷へと向かった。そこに着くころにはもうすでに夕方になっていて、空は綺麗な橙色をしていた。もともとその河川敷には人が寄り付かないこともあって、二人を邪魔する者は一切いなかった。女の子は目線を上げた。自分の真横に伸びる、河川敷を上から切るように設置されている橋が見えた。その赤い鉄骨の橋では自転車のカゴにサッカーボールを入れた小学生の集団が笑い声をあげながら走り去っていった。二人は何もすることなく何も言うことなく横に座った。そして長い沈黙があった。

「もう、大丈夫?」

男の子は先に沈黙を破った。女の子は男の子の横顔を見た。

「うん、大丈夫だよ。心配ありがとう。ごめんね」

女の子から見える男の子の右目は優しかった。男の子の生理的な瞬きさえも、女の子にとってはいつも愛おしく胸を締め付ける物だった。

 だからこそ、女の子は怖かった。この関係が失われることが。女の子は、男の子から本当に愛されていると思いたかった。死んでしまいたくなるほど好きな男の子に私は愛されている、その実感が欲しかった。心の底でずっとくすぶっていた不安が解消されて、女の子は自分に素直になることができた。「あぁ、私はただ彼と両想いになりたい、それだけだったんだ」と。

「どうしたの?」

女の子の回想に気が付かない男の子はその優しい両目で女の子を見た。橙色に染まる空のせいか、女の子の顔は赤みを帯びているようだった。女の子は男の子の顔を見てほんのりと笑う。「なんでもないよ」

カラスが一回鳴く余裕があって、男の子はほろ苦そうに口を動かした。

「ねぇ、あの時は本当にごめんね。もうちょっと、僕は君に対して好きだということを伝えられれば良かった」

「いいよ、全然。私があなたを信じてあげられなかったのが悪いのだから」

「いいや、僕が悪いよ。本当にごめん」

そう言って本気で落ち込む男の子を女の子はなでるように見つめた。段々と、悪いことをしたくなる気持ちに襲われた。男の子のことは十分に信頼しているが、だが、女の子は乙女としてちょっとをしたくなった。

「本当にいいよ、全然気にしない。……ただ、あなたが私に両想いの証明をしてくれたらの話だけど」

私は本当に意地が悪い、女の子は思った。だが、これから男の子がそういうことをしてくれると考えると、胸が跳ね上がりそうでたまらなかった。

「えっ、恥ずかしいな」

男の子は小さく呟いた。そして、息を吸った。

「僕は君のことが好きだよ。この物語の世界でも、僕は君のことを本心から愛している」

そうして、男の子の指先と女の子の指先が触れ合った。お互い顔を背けていたから、女の子は男の子がどんな表情をしていたかは知らない。だけど、男の子の表情はなんとなく想像がつく気がした。男の子はきっと、夕日よりも赤い顔で幸せそうに恥ずかしそうな表情を浮かべているんだろう。だって、私がそうなんだから。

 夕日が傾いて空が紺色になってきたころまで、二人は指先だけを絡め合った。






 読み切った本をテーブルに置いて、女の子は椅子の手すりに力を入れて腰が重そうに立ち上がった。最近は立ち上がるのにも一苦労する。女の子はやれやれとした表情で今さっきまで座っていた椅子を眺めた。土日になると、愛らしい孫が女の子に一目会いに行こうと家まで訪ねてきてくれる。それがささやかな楽しみだったりした。

 仏壇には男の子の写真が飾られていた。つい昨年、男の子は大往生を果たした。死にゆく間際の顔は、どこか幸せそうだった。もしかしたら走馬灯で幸せな記憶をたくさん見ていたのかもしれない、女の子はそう解釈している。仏壇に拝んだ後、また椅子に座って違う本を読む。本棚から読む本を探していると、昔の少女漫画が目に入った。あの時の自分が懐かしくなって、女の子はそれを手に取って読み始める。老年の彼女は、少女漫画を見ているとあの時の女の子へと若返っていく気持ちになった。

「ねぇ、君は今何をしているの?」

あの男の子のような声が聞こえた。女の子は慌てて振り返ったが、そこには誰もいなかった。風が縁側を通り抜けて、女の子のスカートをなびかせる。女の子は口に手を当てて、目をクシャっとさせながら一人でくすくすと笑った。椅子に戻って本の続きをめくる。

 少し経つと、女の子に眠気が襲ってきた。目をつむりたくなった。風は吹き抜けて、程よい温度になっていた。

「なんか、少し眠くなってきちゃった」

女の子は独り言を吐いた。そして左を見た。あの優しい眼が、女の子をまた包んでくれるような気がした。

「そうなんだ、疲れてるんだね」

実際に、女の子の目の前に横を向いた男の子がいるような気がした。

 昔の記憶が鮮明に蘇る。あの輝かしい笑顔だったり、カーテンを閉め切った自分の部屋だったり、純白のドレスを着た自分と、そしてタキシードを着た男の子。自分のアルバムを高速でめくっていくようだった。女の子は微笑んだ。物語の世界がどうとか、どうでも良くなった。男の子と心の底から愛し合っていると知って、それで心の底から言葉にできない幸せで一杯だった。

「この幸せは本当だったんだ、これで、幸せなまま死ぬことができるね」

女の子は言った。見えない男の子に向けて。

「あぁ、そうだね」

そう、男の子は言った気がした。

そして女の子は、長い眠りについた。

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