夢の跡地

 この話は、文明の発展により地球のいたるところに高層ビルが立ち並び、電気自動車が空を飛び回る現代とは違って、移動手段として汽車や電車があって、少し街を出れば植物が生い茂り田畑が見えるような、そんな昔の話だ。



 あてもなく電車に乗ることだけが趣味な男がいた。ある時、男は一か月の休暇を得た。激務に耐えられず、心を壊したためだ。終わりが見えない仕事量、上司からのプレッシャー、夜遅くまで続く残業、これらは、男の精神を崩壊させるのに十分だった。支えになる人は誰もいなかった。男はもはや、何も詰まってない空っぽの状態だったのだ。



 休暇が始まったその日から男は電車に乗っていた。それ以外の時間のつぶし方を知らなかったからだ。そして、男はスマートフォンなどの通信機器をすべて家に置いてきた。少しでも通信できる機械があると、男はこんな状況でも上司からの電話におびえてしまうからだった。だから、家を出る際迷うことなく男はそういったものを家に置いてきたのだった。とにもかくにも、ここから逃げ出したかったのだ。

 男は顔を動かして車窓を覗いた。車窓からはどこか懐かしいような田園風景が延々と続いていた。男は子供のころを思い出していた。毎日が楽しく、希望に満ち溢れていた時代。当然男は自分の将来に自信を持っていた。凄い人になれると信じて疑わなかった。



 しかし、男はそのような人間にはなれなかった。

 今回の休職によって恐らく出世の道も閉ざされただろう。

 男は思う。自分はこの社会そのものに向いていなかった、と。

 後悔の念が押し寄せる中、電車の揺れに包まれて男は目をゆっくり閉じた。








 男が目を覚ましたときにはすでに電車が止まっていた。車両内を見渡すが乗客は誰一人としていなかった。

 乗り過ごして終点までついたのか、と男は結論づけた。しかし、そうとするにはかすかな違和感があった。駅のホームにも人がいなかったのだ。男は車窓からそれを確認するといよいよじっと座って待つことはできなくなっていった。

 次に男はいつもより少し大きな声で職員を呼んだ。だがその声が列車内に響くだけで何も返ってこなかった。

 どうすることもできない男は灰色のリュックを持っていよいよ立ち上がり、列車から降りた。








 男が列車から降りるとそこは、こじんまりとした無人のホームだった。蜘蛛の巣やゴミがない、清潔なホームだった。駅員を見つけられず焦っていたあの時とは違い、男はこの無人の光景がごく自然で当たり前なもののように感じられた。古代遺跡に住んでいる人がいると違和感に思うような、そんな感じだった。男にはむしろ人がいるとおかしい場所に思えたのだ。

 そこをじっと見ていると、男は心が浄化されるような気分になった。だが、それでも見つからない駅員を探すため、男は駅の構内へと入っていった。



 その時、風が吹いた。男の後ろでは、風鈴が鳴っていた。








 男が薄々感じていた通り、やはり駅構内に人はいなかった。予期していた結果が出て男は肩を落とした。

 切符を見せる人間もいないので切符も出すことなく、とぼとぼと駅を出る。

 しかし、構内を出ると駅とは正反対の光景が広がっていた。町の中には人の流れが並ほどにあったのだ。買い物袋を持っている人や子供を連れている家族、男女二人で歩く夏服姿の学生もいた。男は彼ら彼女らをみて胸を撫で下した。さらに、駅付近からは二車線道路が伸びていて、車も多くはないが通っていた。それらを見て男はどこか自分が生まれ育った土地と似ているな、と思った。田舎だと大体似たような感じになるのだろう。

 あの時駅員がいなかったのはただ単に自分が寝過ごしていただけなのか、男はそう納得した。








 駅からしばらく歩いて男は橋の前まで来て、一服するため脇道にそれた。胸ポケットから取り出した煙草に火をつけて橋の下に広がる川を見ていた。川こそ大きいものの、水中の岩や川の真ん中にできた地面などで邪魔されるからか、流れは少し激しく見えた。少し目線を動かすと木が生えていて、そこに蝉が止まってじりじりと鳴いていた。道路のアスファルトが、地面の熱でグラグラと燃えるように揺れていた。男はここで吸う煙草がいつもとは違って、一段と味わい深く感じられた。ただ自然をぼんやりと眺めて、余った神経を味覚に集中させるからか、と男は結論付けた。


 こういうところも悪くはないな、男は思った。少なくとも邪魔な情報が一切なく、煙草に集中できることは少なくとも男にとってメリットだった。








 そんな感じで男が物思いにふけっている時のことだった。後ろで何かが落ちる音がした。男がとっさに振り向くと、そこには小学生ほどの少女が倒れていた。どうやらこけてしまったらしい。

 男は倒れている少女に歩み寄って怪しまれないよう意識しながら話しかけた。

「大丈夫かい?」

「大丈夫です」

少女は目を丸くして少し驚いた様子だった。男にはその理由は理解できなかった。

「でも血が出てるじゃないか」

「家に帰ったら絆創膏があるんで、大丈夫です」

すっと少女が立ち上がろうとした。

「でもその時には血だらけじゃないか、危ないよ」

そう言って男は、リュックから絆創膏を取り出した。こういう時のためにとリュックに入れておいたのが功を奏した。

「自分が絆創膏持ってるから、安心して」

「ありがとうございます」

少女は一瞬嬉しそうにして、それを隠すかのようにすぐにむっとした表情になった。この子はわかりやすいんだな、男は思った。








 「ありがとうございました」

少女はそう言って立ち上がろうとする。男はそれを見下ろしながら助言するように言った。

「次からは気を付けるんだよ。あと、かさぶたはとっちゃだめだからね」

少女は「わかりました」と傷口を見ながら答えた。

「本当にありがとうございます」

「いえいえこちらこそ」と男は返事をした。

それから一瞬間が空いた。少女は目線を四方に動かしながら、やがて腹を決めたように男に目線を合わせた。

「あの、怪我を治療してくれたお礼がしたいこともありますし、もしよかったら、私の家にでも泊まりに来ませんか?」

「いきなり急にどうしたんだい?」男は突拍子もない質問に声を上げた。

「いえ、今さっきに言った通り、お礼がしたいなって」

男は戸惑った。確かに今日寝る場所には困っていたが、それよりも他人からまるで誘拐犯にみられることを危惧したためだ。もし何か言われたとしたらいったいどうすればいいのか、男には弁明の余地はないように思えた。

「えっと、怪しい人とは行動しないって言葉知ってる?」

「知ってます」

「じゃあ家に誘うのやめたほうがいいんじゃないかな」

「でも怪しい人には見えません」

「怪しい人は大概そうなんだよ」

「本当に怪しい人は自分から怪しいとは言わないです」

かなり歳が離れた少女に言いくるめられている事実を男は恥じた。そして昔もこんなことあったな、と懐かしい、きっと忘れられない人を思い出した。

「親の心配とか入らないですから、どうぞ」

少女の熱量に押され、男はしぶしぶ「少しだけね」と承諾した。








 少女の家はそこから少し歩いた先にあった。できることならこの道が永遠に続いてほしいと男は思った。この事情をこの少女の両親に説明する事が男にとって嫌で嫌でたまらなかった。向こうの両親に少女はどう説明をつけるのだろうか、いやむしろこの町はこういうことが盛んな文化なのか、いろいろな思考が交差する。

「大丈夫ですよ。私の家しばらく一人ですから」

「えっとそれは」男が言葉を紡ぐ間に少女は続けた。

「仕事で両親ともども都会のほうに行ってるんですよ」

それは育児放棄ではないのか、という言葉は飲み込んだ。

「もちろんあなたが心配してるようなことはないですし、こんなこと何度もありますからね」

少女は慣れた表情で言う。おそらく、ここの住民が何度も聞いたのだろう。

「ほら、つきましたよ」

そうこうしているうちに二人は少女の家に着いた。いたって普通の、幸せそうな家族が暮らしているような家だった。








 どうぞ座ってください、そう少女は言う。

 家の中に招待されて、素直に男は椅子に座った。それをみて少女は冷蔵庫からお茶を、食器棚から二つコップを取り出した。

「今日はとっても疲れました」

食器棚用の足場から降りながら、少女はそう言った。

「そうだね、自分もすごく疲れたよ」

「この町はどうですか?」少女はテーブルにコップを置いて、お茶を注ぎ始めた。

「よかったよ。自分が昔住んでた町を思い出した」そして男はコップを手に取る。「ありがとう」

「どういたしまして。昔住んでいた町って、一体どんなところなんですか」

「それはいい町だった。自然が沢山あって、よく幼馴染や友達と遊んでいた」

「いいじゃないですか。今住んでいる町はどんな感じなんですか?」

「今住んでいる町か。……あまりよくないかな。仕事もそうだけど、どこか息苦しくてつまらないな」

そう言って、男は手の暇を紛らわすためにお茶を口に含んだ。純真無垢であろう少女に仕事の話をするのが恥ずかしかったからかもしれない。一方、その言葉を聞いた少女は目を丸くして驚いていた。

「意外です。大人ってやっぱり楽しいものだと思ってたから」

心底不思議そうにする少女を見て、男は少女に少年のころの自分を重ねた。いや、男が重ねたのは自分の存在だけではなかったかもしれない――虫取りに躍起になっていた友達や、カードゲームで白熱した友達、一緒に秘密基地を作って遊んでいた幼馴染の姿も、重ね合わせていたのかもしれない。彼ら彼女らと昔こそお互いに夢を語り合っていたものの、もはや今はそのかけらもなくなった。夢や将来などなく、あるのは現実的な不満だった。

「大人っていうのは、そこまで楽しいものじゃないよ」

そんなことをいうことで、男は今の自分に認めさせてやりたかったのかもしれない。








10

 男はこの言葉で少女が失望するだろうと願った。大人に対して過度な希望を抱かないでくれ、そう男は願った。いずれ子供は理想と現実の差を知って絶望するのだから、今のうちに理想を低く見積もっておけばいずれ来る絶望に備えることができるし、傷つかない。

 男は少女を見た。少女は表情を一つも変えず、男をじっと見ていた。男は祈った。すると少女は笑って、

「そんなに大人が辛いなら、今から楽しいことをすればいいじゃないですか」

そう言った。そして、こう続けた。

「明日から、楽しいことをしましょう。そのために、今日は早く寝ましょう」

自分の発言を見事にスルーされた男は、何も言うことができなかった。



 こうして男は、名前も知らない少女との不思議な夏を送る。

 それは男にとって、忘れることのない夏となった。








11

 そんな奇遇なことが起こってから数日間、男は少女の遊びに付き合った。そして、少女は少女が思うなりの楽しいことを実践し続けた。少女は同年代の男の子が楽しいと思うようなことが想像できなかった。だからこそ、必死に楽しいことを想像したり、自分が楽しいと思うようなことをして何とかして男に楽しんでもらうよう考えた。読書だったり、ゲームだったり、必死に考えて折り紙を提案したこともあった。



 「どうですか?その本、私のお気に入りなんですよ」少女は本を閉じた男にそっと話しかけた。

「うん、とってもいい本だったよ。まさか真犯人があの人だったなんて思いもしなかった」

少女はミステリー系の本を男に渡した。恋愛小説もあったがそれを渡すのはためらわれた。

「私もそこ驚きましたよ。あとアリスが殺されたとき驚きました」

感想を口にしながら、少女は自分が読んでいた本を閉じた。男は「そこ驚いたな」と言いながら少女を見ていた。

「どんな本読んでいたの?」

「ミステリー系です」

「まだ幼いのにすごいな、自分なんかこの頃は本など読まずに漫画ばっかり見てたよ」

少女は男の冗談にクスリと笑った。

「今日は楽しかったですか?」

「ああ、楽しかったかな、ありがとう」

自分が企画したことで男が楽しんでもらえると思うと、少女はどこか得意げな気持ちになった。








12

 またある日はショッピングにも行った。

 町が町なのでたいしたショッピングモールなどはなく、二人は小規模の商店街で買い物をして回った。

「こういうとこよく来るの?」

男は楽しそうに前を歩く少女に向かって軽く質問をした。

「学校が休みの時とか、たまに行きますね」

「そうなんだ」

「ここくらいしか何か売ってるところがありませんからね」

少女は男に聞こえるようなため息をついた。「都会のほうとかはたくさん物があっていいなぁって思います」

「確かに都会にはブランド品とかがたくさんあるね」

「ほら、やっぱり都会のほうがいいじゃないですか。おいしい食べ物とかたくさんあって、おしゃれな服もたくさんあって、全部の面でここに勝ってるじゃないですか」

「そんなことはないと思うよ」

「絶対勝ってますって」

少女は力説し、自身の考えを譲る気配はなかった。それを察しながら、男は口を開いた。

「そうか、でもどんなに酷い場所でもきっとその土地だけにしかない、ほかのどんな場所にも勝るようなところはあるものだよ。そこの土地にしかない良いところがあるから、そこの土地に住んで幸せに暮らす人がいるんだ。もしそこに何も魅力がなかったら、きっと人は住んでないし、みんな辛そうに生きてると思うよ」

「そんなものですかね?」

少女は素直な疑問を投げかけた。

「そんなものじゃないかな」

そういって男は活気にあふれた店の中を見た。








13

 それから二人は適当な店に入り、品物を見て回った。入った店は雑貨屋らしく、色とりどりの商品が整理しておかれ、それでも通れる道の幅がとても狭かった。

「見てくださいこれ」商品にあたって落ちないように少女は体をひねり、それを男に見せる。「綺麗でしょう?」

それは一本の美しい花柄のしおりだった。黒に塗られた上品そうな紙の下部に一輪、縦に伸びたあじさいの花が描かれていた。

「確かに、綺麗だ。見ていて吸い込まれる」

「でしょう?私、すごく気に入りました」

「その気持ちがわかるよ」

男がそういうと、少女は気恥ずかしそうな、申し訳なさそうな、そんな表情を浮かべた。

「ああ、お金がないの?買ってあげようか?」

「すいません、ありがとうございます」

少女は安堵の息をついた。きっと気を遣わせることになるから言いたくなかったんだろうな、男は思った。

「買ってもらう身でつべこべ言うのもあれですが」

男がレジへ向かおうとしたので、少女は呼び止めた。「なんだい?」

「いや、もう一つ買って二人同じにしましょうよ」

「きっとそっちのほうがいいじゃないですか、お土産とかになりますし」少女は慌てて理由を述べた。

「確かにそうだね」男は納得した。「二つ買おう」







14

 翌日、少女はカードゲームのデッキを二つ男の前において対面するように座った。

「どうしたんだ、これ。子供のころ自分もやってたなあ」男はデッキを見ながら少女に言った。

「こういうこと男の人は好きかな、と思ったので」

少女はそう言って、若干目線が下に落ちて「……やっぱり違うのがいいですか?」と続けた。

「いや、いいよ。せっかく準備してくれたんだからこれをやろう」

男は少女に笑顔で答えた。そして、「準備してくれてありがとう」とも付け加えた。

少女は顔を上げて「ありがとうございます」と呟いた。あれを思い出すな、男はそう思った。








15

 男には幼馴染と呼べるような、親しい女の子の友人がいた。人の悪口を言わない、優しい少女だった。家が近く、幼稚園のころから二人で遊ぶことがしばしばあった。彼女は好きではなかったものの、遊ぶ時には男の趣味に合わせることも多かった。男がカードゲームをやろうと言い出した時も、彼女は快く引き入れてくれた。

「いいけど私、それのデッキなんてなんて持ってないよ」

「大丈夫だよ、俺が貸してやる」

「あらそうなんだ、でもルールなんてわかんないよ」

「じゃあこのルールブックを渡すよ」

次の日、幼馴染はちゃんとルールを覚えてくれていた。

「ルールほんとに覚えたんだ」

「一緒にやろう、なんて言い出したのはそっちでしょ」

その時、男はささやかな嬉しさと、どことない安心感を覚えた。








16

 社会人になり理想と現実の差に苦しみながら頑張っている中、男はふと、幼馴染に会ってみようと思ったことがあった。幼馴染とは高校までは一緒だったものの、大学からは離れ離れになり連絡も取っていなかった。

 様々な考えが交差しながら、男は幼馴染に連絡を取った。



 雨が降る、じめじめとした夜。男は幼馴染と待ち合わせをしてからその後安い居酒屋に向かった。

「休日とか何してるの?」

「んーあたしはね、今は何もしてないかな」

「ずっと寝てるだけなの?」

「そうだね」

そんな下らない会話をしているうちに目的の店につき、二人はそこで夕食を取った。

夕食を取っている時も下らない会話を続け、男はそれに満足していた。ある時までは。

 その時は突然やってきた。

「仕事は何してるの?」男は焼き鳥を頬張りながら言った。

「ふつうに事務仕事してるかな」幼馴染は酒を飲みながらそう言った。

「そうなんだ、俺は営業してるんだ」

男は何気なく答えた。すると、幼馴染はまるで待っていたかのように食い気味で口を開いた。

「そうだ、ちょっと聞いてよ、うちの上司がさ……」

そこから彼女はたまっていた何かを晴らすように仕事への不満を続けた。男は口をはさむタイミングもなく、延々と彼女の愚痴を聞いていた。彼女の口から不満が出るたび、世界が色を失っていくような、そんな失望感に男は襲われ始めた。

 ちがう、ちがう。

 俺が知っているあいつは、こんな人じゃなかったぞ。

 そしてその違和感は、閉店時間まで止まることがなかった。








17


 あれから、男はたまに幼馴染との楽しかった思い出に浸る時がある。幼馴染と一緒にいた時だけに感じられた輝きと楽しさを。

 そして、振り返るたび男は思う。



 もしかしたら、もしかすると、

 あれは恋心だったのかもしれない。

 だが、恋心だと気づく前にあいつは変わってしまった。

 遅すぎたのだろう、初恋に気付くのが。



 そして伝えることのないだろう想いを胸に、いつも男は晩酌をするのだった。








18

 「これでダイレクトアタックです」

その少女の声で男は現実に引き戻された。

「ああ、負けてしまった」

「やった、なんとか勝っちゃいました。……楽しかったですか?」

少女は目線を挙げて男の目を見ながら言った。

「ああ、楽しかったよ。童心に戻った感じがしてよかった」

「そうですか、ありがとうございます」

「うん。そっちは楽しかった?」

「はい、とてもすごく楽しかったですよ。大人の人に勝つことができましたし」

「そうか、それならよかった」

「こんな事してるとお腹が空いちゃいます」

「そろそろいい時間だね、お昼ご飯といこうか」

そうして二人は穏やかな一日を過ごした。








19

 それから時間がたった、ある日のことだった。二人は午前中楽しいことをして時間をつぶした後、夜ご飯の材料を買ったスーパーの帰りに二人は団地にあるような小規模の公園を見つけた。

「団地に来ちゃいましたね」先に声を発したのは少女のほうだった。「そっちは団地とかあったりしたんですか?」

「ああ、あったね。こんな感じだったなあ。こういうところの公園で遊んでいた記憶があるよ」

「あ、公園がありますよ」

「遊びたいのか?」

「遊びたいです」

素直な顔をする少女を見て、少女の子供らしい一面を確認しながら男は少女に公園で遊んでもいいという許可を出した。

「ありがとうございます」少女はうれしそうに公園へ歩いて行った。男はそのあとをついていった。

「こっちに来てくださいよ、楽しいですよ」

男が公園に入った頃、ブランコに乗りながら少女は男を呼んだ。少女を見ると、男はどこか懐かしい感じがした。うまく言葉にできないが、どこかで見たことがある風景だった。男は最初こそためらいながら、最終的にはブランコに乗ることにした。



 夕日を浴びる二つのブランコが音を立てながら揺れていた、乗っているのは二十代の男と十代の少女。どこからどこまでもおかしい組み合わせだった。しかし、男は意外にもそこまで違和感を持っていないことに気が付いた。まるで十年近く一緒に過ごしてきたような、そこにいるのがごく自然に思えるような、そんな安定感のようなものを少女に抱いていた。それは少女も同じだった。

「ブランコは好きなの?」

何気なく男が質問すると、

「ええ、好きですね。とっても」

少女はうれしそうに答えた。

「そう言うと思ったよ」

「どうしてですか?」

「なんとなく、勘だね」

なんですかそれ、少女は笑った。








20

 映画やドラマにてブランコに乗った二人が青臭い話をすることがあるように、ブランコには人を感傷的にさせる何かがあるのかもしれない。この二人も例外でなく、夕焼けが似合うような感情的な話をし始める。

「そういえば結婚とかされてるんですか?」激しくブランコに揺さぶられながら少女は言った。

「まだしてないかな」男は言った。「この歳になってまだ人と付き合ったこともない」

「意外です。大人になったら誰かと勝手に付き合ってるものだと思ってました」

男は少し笑って諭した。

「大人に対して過度な期待は抱かないほうがいいよ、子供の延長線上なんだから」

「わかってますよ。恋とかはしなかったんですか?」

「恋か……恋って感じの恋はしなかったなあ」

「へえ、そうなんですね」少女は意外そうな顔をしていた。

「あんまり人に恋するってことをしたことがないんだ」

「とはいっても、何回かしたことありそうですけどね」

「本当にしてこなかったなあ、なんか人を好きになることがないんだよな」

男が空を見上げてそういうと、少女は微笑んで、ブランコの速度をほんのりと揺れる程度までにゆっくり落とした。

「それはきっと、昔の恋を引きずってるんだと思いますよ」

自分の推論を披露しているからか、少女は自慢げだった。

昔の恋、少女の言葉を男に置き換えるのなら、それは幼馴染のことだろう。

「確かに、それはあるのかもしれない」

男は小さく頷いた。すでにブランコは止まっていた。

「まあ、無理もないことですよね。その人のことを好きなまま、ほかの人を好きになろうとしても好きになれるはずがないですもんね。だって好きな人の魅力には他の人は勝てないんですから」

到底十代なりたての言葉じゃないな、男はしみじみと思った。

「そういうものなんだな、勉強になるよ」

「そんなこと言われると少し恥ずかしいですね」

少女は顔を俯けた。それを見て男は笑った。

「ちなみに、そういう君は恋とかしてるの?」

「秘密です」少女は男から顔を背けて言った。







21

 その後もブランコに乗りながら、様々な会話を続けた。

 年齢のかみ合わない二人組は、地域からの顰蹙を買った。時々通りかかる四十代の主婦らしき人物が、こちらを不審そうに見ていたことを男は感じ取っていた。

 だが、男はそれをあえてどうとすることもしなかった。この不思議な関係が終わったら、自分はここから去る。去ってしまうのだから、ここの住民の目を気にすることはない、男はそう思っていた。

 何より、少女が楽しそうに話しているところを見ると、どうも水を差したくなかった。あの時の少女の言葉は男の胸をつついて、そのおかげで男は単純明白な事実を再確認できたのだから。

 どうやら、自分はまだあの時の幼馴染を、初恋を忘れられないらしい。

 そんなことに気付かせてくれた少女に感謝の意を示すためにも、男は彼女たちに気づかないをして、笑顔で話す少女との会話に没頭していた。








22

 そんな出来事があってから、二人の距離はほんのり縮まったように見えた。少女は前より笑う機会が増えていったし、男は前より冗談を口にすることが多くなった。だが、二人の日常はいたって変わらなかった。彼らはたがいに楽しいことを考えて、それをしていた。例えば、絵しりとりだったり、バスケットボールだったり、はたまた商店街に行って何も買わずにただ商品を眺めたりもした。それらは男にとってどれも楽しく、刺激的なことだった。

 だがそれと同時に心の隅のほうで男はこのことに対して若干の違和感を持っていた。何かが違う、端にある一枚のパズルピースが合ってないような、そんな感覚を持っていた。

 しかし、男はその違和感から一旦目をそらすことにした。そんなことに執着していると今過ごしている貴重な時間を捨てたことになってしまう、男は何となくそんな気がしたからだ。不用意に話を広げることに時間を費やすよりも、今ある幸福な時間を過ごすことが大事だったからだ。




 この関係は永遠に続かない。きっともうすぐこの関係は終わりを迎える、男はそのことを無意識のうちに感じ取っていた。だからこそ、今この時間を大切にしたかったのかもしれない。








23

 その一件からかなりの日数を二人は同じ空間で過ごした。そして、それは二人の間に流れていた他人同士の関係を見事に破壊し、いつの間にか二人はまるで友人同士のような言葉遣いへと変わっていった。

 夏休みの宿題をやっている少女はふと口にした。

「なんで宿題ってこんなに多いんですかね」

「それはきっと、たくさん勉強をしてほしいからだよ」

「いやです、もっと楽しいことしたいです」

「じゃあ、先生が宿題を出すのは子供の楽しみを邪魔したいからか」

「そうですそうです、先生は悪魔です」

少女は控えめに手を叩いて笑った。

「もしあなたみたいな人が先生だったら、ずいぶんと楽しいんだろうなって」

「それは俺を買いかぶりすぎだよ」男は笑った。

「宿題とか一切出さずに外に出る授業とか多くしてくれそうです」

「保護者からクレームが来そうだな」

男がそういうと、少女はちょっとだけ首をかしげて「ええ、そうですね」と笑った。男はそれを見ていたが、深くは考えなかった。








24

 「ここ、分かんないです」少女は鉛筆を机の上に置いて男のほうを振り返った。

「どこかな、もしかしたら俺も分からないかもしれない」男はそう言って少女が書き込んでいたノートを覗く。

「わからなかったら馬鹿にします」

「ごめん、分からない」

「馬鹿ですね」少女は何も考えることなく言い放った。

「じゃあ君は分かるのか」男は反撃しようと試みた。

「分かりません」少女は何も考えることなく言い放った。

「大馬鹿者だな」

「その冗談、面白いです」

「奇遇だな、俺も面白いと思うな」

「やっぱり馬鹿者同士、考えが合うんでしょうね」








25

 それから少女は男の助けを借りながら何とか宿題を一つ終えることができた。

「やっと終わったのか」窓の外の太陽を見ながら男は言う。すでに太陽は登り切って、気持ちよさそうに下りて行っていた。

「やっと終わりました、ありがとうございます」

「そっちこそご苦労さま」

「あなたがあんごうだったために、今の時刻に終わりましたね」

「なんだその、あんごうって聞いたことはあるけど」

男が質問する光景が面白くて少女は「あんごう」の本来の意味と真逆の意味を男に伝えた。

「あんごうは、とっても賢い、すばらしいという意味ですよ」

「そうなのか、じゃあ、あんごう」

「はい、あんごうです」

少女は声を上げて面白がった。男はその理由もわからずに、少女に合わせて笑っていた。








26

 またある日は大型の商業施設に行き、そこの中にある図書館で時間をつぶしていた。

「この本いいですよねー」本棚で本を見ていると、少女はささやくように言った。

「本当にミステリーが好きなんだな」男は関心しながら言った。

「ミステリーの本はもともと家においてあったんでそこからですね」

「一家そろって本が好きなんだな」男は感嘆した。








27

 そこからあてもなく図書館で本を探し回っていた。児童向けの本が置いてあるコーナーへ行くと、「こんなもの学校にあったなあ」と男が伝記などを見て懐かしんでいる間を見計らって、少女はミステリーよりも大好きな恋愛小説を見ていた。

 どれもこれも見たことあるなぁ、少女は思う。ミステリーも良いが、やはり胸が昂る恋愛小説のほうが少女の好みだった。だが、そのことを少女は親しい友達にしか告げてなかった。前に一度小学校の図書館で借りたことがあったのだが、借りる手続きをしているところをクラスメイトの男子に見られ、からかわれたためだ。それ以来、少女は学校の図書館で恋愛小説を借りることはなくなり、本屋で買うか図書館に行って借りるようにしていた。

 そうやって本を探していくと、一冊だけまだ少女は読んでいない本を見つけた。衝動的に借りたい気持ちになったが、男の目を気にすると一歩踏み出せなかった。男にこの趣味がばれることはどうしても避けたかった。きっと気付いたら馬鹿にするのかなぁ、と思ったからだ。少女は男にそんなことして欲しくはないし、失望もされたくなかった。

 そうして考えに考え、導いた妥協案が本を何冊も借りその中にしれっと目的の本を混ぜておく、だった。少女はこれで男にはばれないと思い、そんなことを発案した自分を褒め称えたい気分にもなった。








28

 「じゃあそろそろ行きましょうか」

少女は四冊の本を持ってそういった。

「それ全部借りるの?」男は驚いた顔をした。

「はい、全部気になっちゃって」少女はなるべく自然に見える笑顔を作った。正直、そこまで惹かれない本もあったのだが、お目当ての恋愛小説を借りるくらいならそれくらいは気にならなかった。

「どんな本を借りるんだ?」男から質問が飛ぶ。少女はその瞬間動揺した。

「え、いや、それは秘密ですよ」少女は顔を背けながら言う。「さあ行きましょう」

少女は体の向きを受付がいる方向に変えて、真っ先に歩き出した。








29

 貸出手続きの最中も、少女は男から隠すように体を動かしていた。

 そうして、少女は無事本を借りるとあらかじめ持っておいた手提げ袋に入れた。

「準備できましたよ、ありがとうございます」少女は男の前に立って言った。

「ああ、全然待ってないよ。じゃあ行こうか」

そうして図書館から出て、エレベーターに向かう最中、男はさらりと言った。

「まさか恋愛小説も見るなんて、驚いた」

少女は心臓の拍動が強くなったのを感じた。

「一冊だけ変わってる本があったから、よく見たら恋愛系で意外だなって」

「それは妹がですね、借りてほしいと何度もせがまれたので仕方なくですよ」咄嗟に言い訳を付けた。

「へえ、そうなんだ。あの本の数から頑張って探すって凄い妹想いなんだね」

男は感心したようだった。少女はそれを見て徐々に後悔が募っていった。自分の嘘を男が信じ切っていることがどこか胸の裏を突く気持ちにさせた。

「ごめんなさい、やっぱり今のは嘘です」少女は謝った。後悔のほうが勝ったのだ。

「実は自分が読みたいだけですけど、恥ずかしくって妹が借りたことにしちゃいました」

男はそれを黙って聞いていた。深刻そうに、というよりは純粋に驚いていたようだった。

「……馬鹿にしますか?」視界一面に広がるフローリングが少女にはどこか冷たく感じられた。反対に男はその言葉を聞いて笑ってからこう言った。

「馬鹿になんてする訳がないよ。ただかわいい趣味があるんだなぁ、って思って。その趣味、俺は全然自信を持ってもいいと思うよ。実際人の趣味がどうこうなんて全然気にしないしね」

「でもクラスの男子からはからかわれました」

「他人の目線なんて気にしなかったらいいんだよ」そして男は続けた。「そんなことされるなんてむしろいいじゃないか、男子からからかわれる女の子なんて恋愛物語の主人公みたいで」

「それはとっても嬉しいですね」

認められ、主人公のようだと褒められた少女はそこから溢れてくる嬉しさと笑みを隠せなかった。








30

 図書館を出ると、二人はそこの大型商業施設で遊んでから帰ることに決めた。

 大型の店舗によく見られるゲームコーナーに行くとクレーンゲームが並んでいた。少女はそれを見ると興奮した様子でクレーンゲームの景品を一つ一つ眺めていく。六個目のクレーンゲームを見て、少女はそこに入っていクマのぬいぐるみを指さす。男はそれを見て微笑んでから「少しだけだぞ」と言って財布を手に取る。少女は喜んでお礼を言う。「ありがとうございます」。しかし少女には難しく、成功した時には少しだけとは言えない額のお金を使ってしまった。

「お金、使いすぎちゃいましたね」

「確かにな、こんなに難しいとは思わなかった」

「ごめんなさい、欲張りすぎちゃいました」

「いいんだよ、すごい熱中してたし珍しいもの見れたから」

「大切にしますね、しおりと含めて」

「ぜひそうしてくれ、俺の身銭を切っているんだから」

「そういえば、あのしおり、ちゃんと使ってますよ」

「本当か?それなら嬉しいけど」

「本当です。今借りた本に挟んでますから。見せましょう」

「……ああ、本当だ。使ってくれて嬉しいな」

「当然のことです。買ってもらっているんですから」







31

 その建物から出た後、家へ帰る途中にある公園で男は少女と遊んだ。ひとしきり遊ぶと二人は公園から出て帰り道をまっすぐ進んでいった。すると公園から少し離れたころ、向かい側から四十代くらいの主婦らしき人物が歩いてきた。彼女は男に対して怪訝な目つきを見せた。男はその目つきにどこか既視感を覚えた。その正体を探っているうちに、彼女は男に向かって話しかけてきた。

「最近、よくその子を連れまわしているところを見かけますけど」

口調こそ丁寧だったが、どこか嫌悪感がにじみ出ているようにも思えた。

「はい、確かにいろいろなところに出かけてますね」

男は答えた。主婦は男と十分な距離を保って、会話を続けた。

「私は以前、その子が両親と散歩に出ているところを何度も見たことがありますけど……あなたはその子の親類ではないですよね?」

ああ、男は既視感の正体をつかんだ。前に公園でブランコに乗っていた時、不審そうな目で見ていた彼女だ。

「はい、確かに親類ではないです」男は正直に言った。蝉の音が耳元でじりじりと這い続ける、嫌な日だった。

「じゃあどうして二人で遊びまわっているのですか?」

その言葉の裏は恐らく「誘拐でもしているのか?」だろうな、そう男は思った。相手をしていても理解されないかもしれない、男はそう思って軽くあしらうことにした。

「クレームをつけられるようなことは全然してないつもりですよ?」

男が軽口をたたくと、主婦は首を傾げて何か考え込んでから口を開いた。

「質問の答えになってないから答えてください」

男はこの作戦が失敗していることをひしひしと感じた。そうなれば誠実に言うほかなかった。

「私が疲れて旅に出ているところ、この子が提案してくれたんです。楽しいことをしましょうって」

「あまり嘘を言うと警察に通報しますよ」主婦はそう言ってポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出した。男は慌てて弁明を始めた。

「本当なんですよ。実際彼女も楽しんでくれてますし、何より遊びまわっているところを見たのなら私たち二人が楽しそうにしているところを見たはずです。彼女にも聞いてみてください、そこまで怪しむのなら」

男がそういうと主婦はしぶしぶ少女に目線を合わせて今までと一切違う、子供に向ける口調で話す。

「ねえ、このおじさんと一緒にいて怖くないの?」

「はい怖くありません」

「大丈夫、素直に言っていいよ。誘拐されてるんでしょう?おばさんが救ってあげる」

「いいえ、大丈夫ですよ、おばさん。私は自分でこうするって決めたんですから」少女は息を吸った。「実際に、この人といて楽しいですし、連れ去られるような悪いことは絶対にしないという安心感がありますから」

少女はそう言い切った。主婦は彼らの主張を信じたのか、それともあきれたのか、男には分からなかった。しかし、主婦はそれから一切疑うことをしなくなって、ただ「もし危険だったりしたら言ってね」とだけ言い残し去っていった。








32

 「ありがとうございます」少女は言う。

「俺も何とか助かったよ」男も言った。

「まさかあんなに言ってくれるとは思ってもいませんでした」

「俺も君があんなに楽しんでくれてるとは思っていなかった」

「いろんなことができて、すっごく新鮮で楽しかったですから」

「俺もそうだった、楽しい日々を過ごせてありがとう」

「どういたしまして」

「じゃあ、帰ろうか」

「はい」








33

 そうして、二人はお互いどう思っているか改めて知ることとなった。

 夕焼けの空が一面に広がる中、二人は今この時間を噛み締めるように歩いて帰った。

 帰り道、お互い言葉は交わさなかった。

 気のせいか、二人の距離はいつもより近かった。








34

 その日、男は長い夢を見ていた。アルバムを見るように自分の記憶を振り返る、そんな夢だった。印象に残ったことが一枚の写真のようになって、スライドショーのように流れていく。最初に出てきたのは幼児のころだった。親戚の人からご飯を与えられているところだった。男はそれを懐かしく思った。そこから幼稚園へと進む。お遊戯会、運動会、砂場遊び……どれも男にとって懐かしかった。

 続いて小学生の時の思い出が流れてくる、幼馴染との思い出が多かった。秘密基地、ブランコ、虫取り、バーベキュー……。

 男は何かに引っかかった。よそ見をすれば見逃せるような、そんな小さい引っ掛かりだった。しかし、男は確信していた。その妙な引っ掛かりを逃すと、一生後悔することになるだろうと。一旦、そのスライドショーを停止して逆再生をかける。一回だけではその正体が分からなかった。しかし、男は何度も何度もスライドショーを再生して、違和感の正体を掘り下げようとした。


 時は経って、両手で数えられないほど再生した後、男はその正体を掴んだ。そしてその正体を掴んだ瞬間、すべての疑問点が一気に氷解した。








35

 ああ、そうなのか。男は思う。


 至る所にヒントはあった。それに俺が気が付かなかっただけだった。もちろん、このいま俺が見ているものは夢だ。そうではなくて、俺が今生きている世界が夢なんだ。夢の中で、まるで自分に言い聞かせるように男は独り言を吐いていた。




 最初に何かがおかしいと思ったのは電車から降りる時だった。あの時俺はただ寝過ごしていただけと思って特に何も気にせずにいた。だが、よくよく考えてみると乗客を起こさないことなどあり得るのだろうか?流石にそんなことはないだろう。ましてや終点なのだから、駅員が忘れ物の点検をするために車両に入ることだってあるだろう。その時俺は叩き起こされるはずだったのだ。

 そして、少女の存在とこの町の真実がこの世界が夢だと証明する大きな鍵だった。

 どうして俺は、少女がブランコに乗っている姿を懐かしいと思ったんだろうか?

 どうして俺は、あの時少女がブランコを好いていると思ったんだろう?

 その理由は簡単だろう。俺はそれを一度見ているからだ。

 彼女がカードゲームだったり何かするたびに俺は幼馴染のことを思い出していた。そして、あの時俺は確かに『十年も近くに一緒にいるような安心感』を感じていた。それはつまり、少女と幼馴染は近しい何かがあるということだ。

 そして、この町の真実だ。俺はこの町を見た途端、自分の生まれ故郷と似ているように思った。さらに、この町は時代が少し前のように感じられた。今やだれもが知っている言葉が通じなかったり、主婦の携帯電話は折り畳み式だったり、どこかがおかしかった。そして、俺がこの真実に気づくきっかけとなったのは、ブランコの記憶だった。少女と団地に入った際俺は団地の公園で遊んだ記憶があったと言った。俺は幼馴染とブランコに乗って遊んでいたのだ。




 これらを踏まえて、俺は仮説を立てた。

 この仮説は馬鹿馬鹿しいと一笑に付す者もいるかもしれない。だが、俺はあくまでもこう考えるのが正解な気がした。


 この世界は十数年前、俺が小学生だった時の世界だ。








36

 男はゆっくり起き上がりカーテンをちらりとめくる。夜は更けていなかった。月明かりがよく、満月の日だった。

 次にまだ眠っている少女を見る。無防備な姿で眠る少女に、男は幼馴染の姿を重ね合わせた。

 それはやはり、あの時恋した幼馴染の姿だった。そして、男はそれにしばらく見とれていた。

 十数年前の記憶がふつふつと蘇る。幼馴染の笑顔や色褪せることない思い出が蘇る。

 それによって男は握り潰されるように胸が激しく締め付けられるのを感じた。

 ああ、きっと。男は思う。これが恋なんだろうな。

 十数年感じることがなかったその感情を、男は今更のように嚙み締めた。何もかもが遅すぎた恋だった。

 そして、男は今まで少女と過ごしてきた日々とともに、その感情をじっくりと噛み締めた。そんな感情を感じることがなかった今までの人生を取り返して余りが出てくるほどに。男は、遅すぎる青春を満喫していた。



 おそらく、俺の推論は正しい。少女は十数年前の幼馴染で、この世界は夢なんだろう。男はそう思った。それと同時に、夢であることに落胆してしまう自分もいることに男は気づく。結局は夢なのだからこの夢から覚めた時、きっと、何もなくなる。




 反対に、こうとも考える。


 これは神様がくれたチャンスではないのか?

 あの時自分が伝えられなかった恋心を、あの時の幼馴染に伝えることができるのではないか?

 あの時伝えられず、心の奥底で引きずっていた感情をあらわにすることができるのではないか?




 もう時間がないことはわかっていた。この夢から覚める時は、きっと少女とのこの生活が終わる時だろう。そしてそれは、一週間を切っていた。



 終わり始めるこの関係に、新たな目標が一つ生まれる。

 あと一週間、悔いがないようにしなければいけない。男はそう思って、再び深い眠りについた。








37

 長かったこの話もいよいよ終わりへと近づいている。


 男は残された時間を有効に使うため、死に物狂いで今後のことを考えた。

 いままでやってきたことは決して楽しくなかったわけではない。実際に男は何かをするたびに笑っていたし、幸せに感じていた。だが、そういうことを感じていながら、同時にどこか違和感を持っていた。自分はこういうことが本当にしたかったのだろうか、その疑問は男の頭を何週も駆け巡った。

「なんか今日は深刻そうな顔してますね」

少女が心配そうな顔をしてこちらに話しかけた。

「具合でも悪いんですか?」

「いいや、そんなことはないよ」

一人で考えるには埒が明かなかった。そろそろ少女の力を借りるべきだろう、そう男は思った。

「なあ、俺が本当にしたかったことは何だろう?」

唐突の質問に少女は困惑した。

「え、楽しいことじゃないんですか?」

「いや、楽しいことはしたいんだが、今までやってきたことも楽しくて幸せな時間だったんだが」男は丁寧に注釈をつけた。「本当に自分がやりたいことか、と考えるとどこか違うような気がするんだよな」

「はあ」

男の話を理解してないような相槌を少女は打った。そして少女は男の真意を理解するため、男の役に立ちたいがため、深く考え込んだ。しばらくして、少女は「分かりませんけど」と前置きしたうえで話を始めた。

「もっと自分に素直になったらいいんじゃないんですかね?自分は大人だからって無理に大人っぽくいようとなんてせずに、大人であることを一旦捨てて、どんなに子供じみても馬鹿馬鹿しくてもいいから、心の底から望んでいたことをすればいと思いますよ」

そして、少女は付け足した。

「悩んでいるのなら、一回くらいそうしてみましょうよ。安心してください、ちょっとやそっとであなたのこと嫌いになったり引いたりするような人間じゃありません」



 男は少女に感謝した。大人であることを捨てろ、男にはこの言葉がとても大事なものに感じられた。

 それがどんなに恥ずかしいものだったとしても、一度自分に正直になってみてもいいかもしれない。








38

 それから男はじっくり考え、自分が本当にやりたかったことは何かを考えていた。思えば、男は自分に対して正直になるということを年を取っていくたびにしなくなっていた。中学、高校、大学、社会人と上がっていくたびに男は自分の本当の気持ちから目をそらし続け、最終的には自分に正直でいるやり方すら忘れてしまっていた。だが、この世界は男が久しぶり、十数年ぶりに自分の素直な気持ちを表すことを可能にさせた。男はそのことに言葉では言い尽くせないほどの感謝をしていた。




 しばらく経った時、男は自分が心からやりたかったことを思い出す。

 浮かんできたのは、何かあるたびに常々思いだし浸ってきた小学生時代の思い出だった。虫取り、バーべキュー、秘密基地、満天の星空……これらの輝かしかった思い出を、もう一度感じたい。男はそう思った。文字通り、小学生に戻りたいのだ。他の誰でもない、幼馴染と。他人から見ると愚かに見えるかもしれないが、男はもう他人の目など気にするわけもなかった。

「やりたいこと、決まったよ」

男は少女と目を合わせて言った。

「へえ、それはよかったです。ちなみに何をするんですか?」








39

 それから男たち二人は虫取りや釣り、バーベキューを二人で楽しんだ。虫取りはかぶれないように夏場でも長ズボンを穿いて、片手に虫取り網をもって駆け回った。男は自分の身分を忘れ、目の前にいる少女が幼馴染だということを踏まえたうえで、それらに没頭していた。少女も男に合わせて駆け回った。自分のやりたいことに合わせてくれる少女を見て、男はより一層胸が飛び出るかのような思いだった。虫の種類や名前はわからなかったため、大きさや見た目で良し悪しを決めて、二人で勝敗を決していた。釣りでは釣り堀に行ってお互い何匹釣れるか勝負をした。少女は釣り上げるタイミングこそよかったものの筋力が足らず、最終的には男に手伝ってもらっていた。疲れたら朝二人で作っておいた弁当を広げて、口いっぱいに頬張った。帰り道近くに公園があるとそこにある遊具で体力が一滴もなくなるまで遊びつくし、家に帰るとバーベキューをしたりして夕食を取って、死んだように眠った。これを繰り返した。








40

 「初めての虫取りにしては頑張ったほうじゃないですか?」虫取りを終えて、勝敗を決めている時のことだった。持ってきたタオルで汗を拭きながら少女は言った。

「初めてにしてはよくこんな大きい物取りに行こうとしたな」

男は少女が捕まえた昆虫を見ながら言った。大きく、立派な角が二本生えたクワガタだった。初心者、ましてや少女が取りに行くようなサイズではない。男は心の底から感心した。

「本気で勝ちに行こうとしましたから」

「それはひしひしと感じるよ」

「でもあなたのほうが大きいし強そうじゃないですか」

「虫に好かれているんだろう」

「そこまで嬉しくない能力ですね」

「特に夏場はな」

少女は微笑んだ。「確かに虫刺され多いですもんね」そう言って男の虫刺され跡を見た。

「一個くらい譲ってやるよ」

「絶対に嫌です」








41

 そんな中ある日、少女がベットから起き上がるとすでに男は起きていたらしく、男は部屋にいなかった。

 少女はそのことを珍しく思いながら、朝食を作ろうと台所に向かおうとすると、そこでは男が立っていて包丁を動かしていた。包丁の音が小刻みにリズムよく聞こえる。

「あれ、もう起きてたんですか」

少女が気さくに声をかけると、男は笑顔で振り向いた。

「ああ、そうだよ」

「朝ごはん、ありがとうございます」

少女は男に向けて手を合わせた。

「とはいっても卵焼きにソーセージ、キャベツの千切りといった簡単なものだけどな」

「大丈夫です。おいしいですから」

少女はそう言った。そして男の手料理を食べることが楽しみで待ちきれず、背筋を伸ばして椅子に座り運ばれてくる料理を待った。








42

 「今日は何がしたいんですか?」

卵焼きを口に入れながら少女は質問する。

「そうだな、どんなことをしようか」男は味噌汁をすすりながら答える。「今日の卵焼き、どうかな」

「ええ、おいしいですよ」

「おいしいならよかった、口に合わないならどうしようかと思った」

「嘘でもまずいって言えばよかったですかね」

「それだけはやめてくれ」男は苦笑いをした。

「そうだ、今日やりたいこと、今決めた」

「なんですか?それは一体」

「秘密基地を作りたい」

いいですね、それ。少女は前のめりになり、目を大きく開いて言った。

「私そういうの好きです」








43

 この一日を秘密基地に捧げよう、そう決めると、すぐさま二人はホームセンターに向かって必要な道具を集め始めた。

「ホームセンターに来たのはいいものの、何を買えばいいんでしょう」

「秘密基地に必要なものだろうな」

「秘密基地には一体何が必要なんでしょう」

「ホームセンターにおいてあるものだな」

そんな会話を何周かして、少女は観念したように笑った。

「これじゃあ進みませんよ」

「だな、そろそろ本気で考えなくちゃならないみたいだ」

「最初からそうしてください」

結局、ほうきとちりとりだけ買って「あとは必要な時に買い足そう」と決めた。








44

 それから直行で家の近くにあった山に入り、二人は秘密基地になりえそうな場所を探した。木々が生い茂り、様々な虫がそこに住んでいた。

「今から虫取り大会でもしますか?」少女は言った。

「ほうきとちりとりでどうやって捕まえようというんだ」

「分からないです」

「なんだそれ」

そうやって軽口を叩きながら進んで行くと、運よく使われなくなったバスが捨てられていたところを見つけた。

「こことかちょうどいいんじゃないか」男は言った。

「そうですね。長いこと使われてないみたいですし、これにしましょうか」

恐る恐る男はバスの中に入った。使われてないとはいえ、人の鞄を漁るようで胸が痛んだ。少女も男の後に続いた。

 中は埃がかぶり、枯葉が侵入している程度でムカデなどの危険な虫はいなかった。男はそれに安心した。ここが幻想の世界とはいえ、少女が怪我をすることを考えると男には到底耐えられなかった。

「危ない虫はいないみたい」男はバスの前側にいる少女に言った。

「ありがとうございます。……ところで、これ何か描いてありますよ」

少女は料金受けの運転座席側を見て言った。

「何が描いてあるんだ」

男は滑らないよう足元に気を付けながら少女のもとへ近づいた。

「これです」少女は埃を手で払ってそこを指さした。

そこには、ドクロに二本の骨が突き刺さっている、よく見るような図があった。別に珍しさはないが、男はとあることを感じ取っていた。

「これはきっと」男は少女の顔を見て言った。

「ええ、そうでしょうね」

恐らく、俺たちよりずっと前にここを秘密基地として使っていた人がいるのだろう。男は思う。

 一回外に出て確認してみると、ドアの付近にやはり同じようなマークが描かれていた。

 この秘密基地はきっと、彼らが成長するとともにそのまま忘れ去ってしまったものだろう。

 そして、今日からここは自分たちの秘密基地となり、いずれ使わなくなり、またきっと名前も知らない人に秘密基地として使われていくのだろう。そんな時を超えた子供たちのロマンや夢のリレーに参加しているようで、男は誇らしかった。

「じゃあ、私たちはどんなマークにしましょうか?」

少女は男の方を向いた。

 そして二人で考えたマークを、ドアの付近に描き込んだ。








45

 それからは、秘密基地を過ごしやすく快適なものとするため掃除を始めた。虫がいないとはいえバスを掃除するのはなかなかに過酷だった。だが、二人は冗談を口にしたり、掃除した後何をするか夢を膨らませることでその苦痛を楽しんでいた。

 時折、男は少女を盗み見た。そんな顔をして掃除しているか、楽しんでくれているかどうか、気になったからだ。

 少女は男がいつ見ても幸せそうだった。そのことに男は喜びを感じた。昔のあの感情は自分だけのものだったのではない、と思えるような気がしたからだ。時々、男が盗み見た瞬間少女と目が合うことがある。その時はお互いどことなく目をそらし、「そろそろこっちは掃除が終わりそうですよ」と関係ない会話を始めるのだった。

「やっと終わりましたね」少女はゴミ一つ落ちていないバスを見て言った。

「とても長かった」

「まるで今も使われているみたいですね」

バスの外見は色褪せているものの、中は現役のバスと遜色ないくらいには綺麗に見えた。

「これでこのバスは俺たちの秘密基地になったな」

「お互いここの存在は決して友達とかに言わないでくださいよ?」

「ああ、そうしよう。ここの存在は、二人だけの秘密だ」








46

 それから、秘密基地に行ったり、川遊びだったりと男が体験した楽しかったことをする日々を送った。

 男はもう、前のような違和感を感じることはなくなった。その代わり、充実感を得られるようになった。

 残り少ない日数を、過去の経験を使って二人は余すことなく楽しんでいた。幻想の世界とはいえ、二人はあの間世界で一番人生そのものを実感し楽しんでいた。

 しかし、男たちの感情とは裏腹に時間は着々と減っていった。一日一日は必ず終わりを迎え、残り日数は着々と減っていった。




 そして、最後の一日を迎える。








47

 朝の陽ざしで同時に起きると、二人はどこからともなく目が合って、お互い寂しそうに笑った。

 一瞬静寂が流れると、少女は元気を振り絞るように笑った。

「いや、最後の一日だからこそ、ちゃんと楽しく、後腐れしないようにがんばらないといけませんね」

男はそれにつられて笑った。



 それから二人で作った朝食を食べて、捕まえた虫の世話をしたり散歩をしたりして朝を過ごした。

 昼は遊具がかなりある公園に行って、少女を遊ばせ、飽きてきたら秘密基地に行ってそこで時間を潰した。



 帰り道は、スーパーに立ち寄って少し奮発して高めの鶏肉を買い、夜は唐揚げを作ることにした。

 家に着くまで、二人は軽い会話を交わし続けた。できることならこの道が永遠に続いてほしい、と男は思った。








48

 夕食を取った後、男は星空を見ていた。すると、ふとあることを思い出した。

「なあ、今からついてきてほしいところがあるんだよ」

「それってどこですか?」流れていたテレビをぼうっとみていた少女は男の発言に食いつくように男の方に体を捻った。

「星がきれいな場所だ」

少女はそう聞くと「星空を見に行くんですか、楽しそう」と威勢よく着替える準備を始めた。男もその様子を見て感傷的になりながら着替えの準備に取り掛かった。








49

 それは家から遠すぎず、歩いていける距離にあった。

「ああ、すっごく綺麗ですね」少女は感動の息を漏らしながらそう囁いた。

「だろう、昔からこの風景は気に入ってるんだ。最後にぴったりかな、と思って」

そこは鈴虫が思い思いに歌い、蛙が合いの手を入れて、近くの川のせせらぎが聞こえ、空いっぱいに星空が広がって輝く、まるで夏をそこに凝縮したかのような場所だった。

「困ったりしたことがあったら、よくここに行ったんだ。そしてこの星空を見ているうちに、悩み事なんて消え失せた。この場所があまりにも美しすぎて」

「そんな気持ち、わかる気がします。この場所にいると彦星と織姫が実際にいるような気がしますから」

そして二人はその場に座り込んで、もう見ることのない星空にしばらく見惚れていた。




「もうあと少しで俺は帰らないといけないな」

しばらく経って、男は少女の方に向きを変えて言った。

「もっと長くいたかったですけど、残念です」

少女も男の方を向いた。鈴虫たちは見届けるかのように声を潜めた。

「俺も残念だ、この場所から離れるのは」

満天の星空が、彼らを見守っていた。

「でもしかたないことですよね、あなたを必要として待っている人がいるんですからね」

「俺にはそんなものないんだ、住んでいるところには」

「きっと、あなたが気づいてないだけでたくさん周りにいますよ。もしいなかったとしても、そのうち現れます。がむしゃらに頑張っていれば、いつか大切で素敵な人に出会えるんですよ」

「なんだそれ」

「勘です」少女は言った。

「まあ、大切な人って他人から与えられるわけではありませんしね」

俺にとっての大切な人、それは少女、つまり幼馴染に当たるのだろう、男は思った。そんな人を超えるような人は現れるのだろうか、あの記憶を超えるような人は果たして実際にいるのだろうか。

「きっと、いますし現れますよ。私なんかよりすごくて、ずっと横顔を見たくなるような人は、きっと現れます。だから、そんな人と出会うためにお仕事頑張ってください」

思考回路を見透かされた気がして、男は驚いた。少女はほんのり笑った。

「ずっと一緒にいるんですから、それくらいわかります」

そして、付け足した。「もし大切な人がまだ現れず、仕事もつらくなったら、その時は私との生活を思い返してください。その時にはあなたの中の私があなたを慰めてあげますから。そして、いつか、私のことは忘れて、新しい大切な人と生きてください」

男は、心の底にあった黒く錆び付いた重りが壊れていくのを感じた。

いつの間にか、男の頬には涙が流れ落ちていた。




 「ああ、そういえば」少女は言った。

「私、好きな人いるって言ったじゃないですか」

「確かにそんなこと言ってたな」

「それ、実はあなたのことです」

少女は少し恥ずかしそうに言った。

「奇遇だな、俺も君が好きなんだ」

男は星空をまっすぐ見ながらそう言った。

「それはうれしいことですね」

「ああ、うれしいことだ」

男はもう悔いはなかった。隣にいる彼女と手を繋ぎ、共に星空を眺めていた。








50

 眩しすぎる日光によって、男は目を覚ました。

 目を開けると、そこはどこか屋根の下だった。日陰で寝れるよう優しい誰かさんが入れてくれたのだろう、と男は考えることにした。

 体を起こし、男は周りを見た。するとそこは、いままでの雰囲気とは異なり、廃村に近かった。

 人影は一切なく、蜘蛛の巣が張り巡らされ、建物も壊れかかっているものばかりだった。

 ふと、蜘蛛の糸が一本男の膝元に落ちる。

 男はふっと笑い、自分のポケットに入れようとする。すると、何かにひっかった。それを取り出して正体を見てみると、そこには立派に咲いた一輪のあじさいがあった。懐かしいな、初めて商店街に行った時か、男は懐かしむ。

 その栞をもってひらひらさせながら、男は今までに起きたことを思い出し、感傷に浸った。

 そろそろでなくちゃいけないか、男は思う。

 体を起こし、一歩を踏み出した。

 風が吹いて、男は頭を押さえた。それと同時に、後ろから風鈴の音がした。

 男はその音を背に歩いている。二度とそこを振り返ることはなかった。

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