青い実はじけた

 それは、そんなに良いモノじゃなかった。

 多くの人が言うように胸をときめかせ心とろかす甘酸っぱい部分もあるにはある。でもそんなのはほんの一部。それが持つ甘さは、もっとどろどろ纏わりついてずぶずぶ沈んでしまうようなべたべたな濃度がほとんどだ。

小説や映画で描かれるような爽やかな恋愛なんて現実ではありえない。少なくとも僕は信じない。つまりけして長いとは言えない人生の中で僕が経験した恋なんてそんなもんだ。そう思っていた。



「羽雪さんの初恋っていつだった?」


「はぁ?」



コーヒーに入れた粉末コラーゲンのスティック状袋を結んでいた羽雪さんは手元から顔をあげる。スティックシュガーやお菓子の包み紙なんかを細長く折りたたんで結ぶのが、彼女のくせ。

遠くから見ていただけではわからなかった羽雪さんの生態。それを発見したとき未知の領域に足を踏み入れたことに歓喜しながら、同時に恐怖した。まだ知らない羽雪さんがいくつもいる。完璧主義者のきらいがある自分としては、それが許せなかった。

子どもの頃から何かが欠けている状態と言うのが不快だった。

だって、そうでしょう?トランプだって札が1枚なくなっただけでゲームが成立しないんだから。

予備札に手描きで柄を入れるなんていかにも野暮ったくて、僕は嫌いだ。そんなのを使うくらいなら古いモノは捨てて、新しいカードを買う。今までは不快感をそうやってやりすごしてきた。

ところがどうだろう。

この、どろどろでべたべたな甘さときたらちっとも不快じゃない。胸焼けしそうなくらいなのに、捨てるのは惜しい。中毒性のある芳しさは、まるで麻薬だ。

サラサラと麻薬にも似た白い粉をカップにおとしたときの指先の、その爪のカタチを思い起こし痺れる脳をおさえた。



「初恋、ねぇ……。そういうササメ君はどうなの」


「ただいま絶賛初恋中」


「あー、うん。訊いた私が馬鹿だった」



言いながらカップを口に運ぶ羽雪さん。

 湿ったくちびるに、何人の男が触れてきたんだろう。自分もその中のひとりになりたい。できれば最後のひとりに。

 こんなふうに思うのは初めてだった。今まで僕がしてきたのは、目の前の想いに精一杯で先のことなんて考えもしなかった。けれども現在抱えている恋心はちがう。

 先の先まで見つめて、見通して、逃げ道を塞いで、この人を自分の中に閉じ込めたい。知らないところになんて行かせない。未来永劫。ちょっと古風な言い方をするのなら、添い遂げたいとでも言うのか。そう願ったのは彼女が初めてだった。

 だから、これがきっと僕の初恋なのだろう。



「んー、今になって思い返せば私の初恋って幼なじみの子かなぁ。保育園からずっと一緒だったんだけど、高校で別々になっちゃって寂しかったもん。夢にもみたりしてさ。傍にいたときは気付かなかったけどね」


「ふぅん。ありきたりで、なんの面白みもないね」


「え、なに。恋バナに面白味とか求めてんの、君」


「そうじゃなくても面白くないなぁ。昔のオトコの話をする羽雪さんなんて」


「淡い初恋の思い出に昔のオトコなんて生々しい言い方しないでよ!ていうか、この話ササメ君から振ってきたんでしょ」


「そうだけど……」



そうだけど、面白くない。

 異性関係についての調査報告書を見るのと、羽雪さんの口から直接きくのとではやはり違う。胸にうずまくよどんだものを浄化する効果を願って、豆乳オレを飲み干した。



「もっとはやく生まれてくればよかった……」


「なに、それ。もしかして私の過去に嫉妬してるの?」


「うん。ものすごく」


「馬鹿みたい」



本当、馬鹿みたいだ。

 そんなこと思っても、どうしようもないのに。無いものねだりにも程がある。それでも考えずにはいられない。

 羽雪さんと同じ時間の中で育ってきたなら、自分の中にある気持ちはどういう育ち方をしたんだろう。歳の差の分だけ人生のスタート地点が違うから経験値もちがう。価値観も異なる。

 そのとき、自分はこのひとを好きになっただろうか?あるいは、このひとは僕を好きになってくれただろうか?



「ばかみたい」



ほとんどため息に近い音量で羽雪さんがつぶやいた。

 その言葉にこもっていた暗い響きを察知してアンテナを張る。どんなものも逃さないようにしなければ。それがどんなに暗くても、汚くても。彼女に関わることならひとかけらも漏らさず把握しておきたい。



「ばか、みたい」



再度、羽雪さんは言った。



「そうかな」


「そうだよ。ササメ君が私の過去に妬いてるのなんて、私がササメ君の未来に嫉妬するくらいどうしようもない事なのに」


「羽雪さんが、僕に嫉妬……?」


「考えてもみなよ。私の方が歳上なんだから、寿命でいったら私の方が先に死ぬんだよ。私がいなくなったあとの未来で、君はどんな人と会って何を考えて生きていくのか。そう思ったら、やっぱり嫉妬する。もしかして私が死んだすぐ後でアトムが一般家庭に普及するかもしれないし」



アトムは2003年に誕生してる筈なんだけどね、と肩をすくめてこぼした。

まさか本当にアトムが誕生したなんて思っている訳でもあるまいが、実に残念そうに眉尻を下げてカップを手に取る。アトムだなんて夢のあることを言ったわりには冷めた表情で喉を潤している。

この人は大人のくせにときどき少女のように夢見がちなことを口にする。ただ言ってみるだけで、実際に夢見ている訳ではない。冷めた声音で夢を語る羽雪さんは、すごくそそられる。

伏せたときにだけ艶っぽい二重になる死んだ魚みたいなクールな奥二重。それと、徹夜明けの隈にも似た涙ぶくろが彼女のチャームポイントだと思う。本人に告げたら



「それ、褒めてないよね」



と例のクールビューティーな伏目と共に返された。

 いいなぁ。その顔、だいすき。だいすきな彼女の言う『アトム』とはもしかして『ウラン』の方なんじゃないかと考える。心やさしい科学の子、その妹。

 羽雪さん以外の女性を好きになる可能性の暗喩……なんじゃないかなぁ、と。ひとり妄想するくらいの思想の自由はあっても良いじゃないか。

 嫉妬しているのは自分だけじゃない。そう言って僕を黙らせるくらいには大人な彼女の誕生日は、アトムと同じく4月7日。








【了】

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