3.最愛の人

 大学ノートに一冊びっしりと文字が書き込まれておりました。


 全部私に関することでした。


 俺のことは忘れてくれだとか、

 笑いあったくだらないことまで書かれていました。

 

 彼は文字を書くことが大嫌いでした。


「自分は文字が下手だから。

 文字って性格とか隠せないじゃん。

 いろいろばれるんだよな。

 たとえば馬鹿さ加減とかさ」


 と笑っていたのでございます。


 彼のいうとおり、文字が大きくなったり、

 別の人が書いたんじゃないかと思うくらいに丁寧で小さかったり、

 文字がゆがんでいたりしました。


 雑な性格であることを気にしていた様子がわかります。



 やはり、死期が近いと察するようになってからのノートには

 ネガティブな内容が目立つようになりました。

「この先ってどうなっていくのかな。

 俺ってあと何年この世に存在出来るんだ?」


 こんなことが一週間ほど続いていた。


 私はその一週間を覚えています。

 お見舞いに毎日行っていましたもの。


 けれど明るい彼しか思い浮かばないのです。

 いつも笑っていて、

 暗い表情なんて見つけられなかった位。

 記念日だって騒いでたのに。


 そんな彼がこれほど悩んでいたのを察することができませんでした。

 悩んでくるしんでいた彼だけど、

 自分で気づいて強くなった。


「今日半日暇だった。

 だから今までの日記見返してみたんだな。


 すげぇ暗ぇこと書いてんの。

 嫌になるよな。


 やっぱこんな男ってカッコわりいよなシャンとせんとな」


 それだけしか書かれてなかったのです。

 

 けれどそれからは楽しい出来事しか記されていなかった。

 

 食事が美味しい。

 同室の誰それさんが面白いとかナースさん綺麗で理想とか。


 そうして最後のページには荒っぽい字で締めくくられていた。


「愛してる。永遠に。お前もそんな人見つけろよ」


 言いたい事は分かるのです。

 悲しみも背負って、前を向くこと。


 それは素晴らしいことであり、

 生死の問題はなおさら忘却しなければ神経が壊れてしまう。


 人の記憶なんてそんなもの。

 でも彼は私のことを買い被っている。

 私がその原理に耐えられると思ったのだろうか?


 彼がひとりですべてを背負う力がなかったように、

 私もそれほど強くはないのだ。


 彼との時間が再生される。


 一瞬の笑顔も。悲しみも。何度も何度も繰り返す。


 無限のループのようだ。

 沢山泣いた。


 昼も夜も人目を気にすることなく泣いたの。


 私には親戚がなくなった経験もあるのです。

 祖母を看取ったこともあるの。


 しかし、私は一滴の涙すら浮かんでは来なかった。


 だって思い出がないのだから。


 かわいくない子。

 もっと愛相があればいいのに。

 そう言って、ぶたれた。

 手を払いのけられた。


 私にとってどんなに甘えたくてもできなかった。

 人の死を悼めるかどうかとは


 その人とどれだけ深く付き合ってきたのかによるのだろう。


 家族と呼ぶ人々の死ならば私はこれからも悲しむことはないのだろう。

 

 だけど彼の死だけは違った。

 どれほど泣いても苦しんでもあいたくなっても彼はいない。

 

 息もできない位、激しく泣いた。

 それを一か月ほど続けた。


 やっと涙が治まった。


 納まったというよりも涙が枯れただけなのだろうとおもうのです。


 ふと気付く。日常の音が耳に入らなくなったことに。


 面白いと話題の映画を見ても、

 友達と談笑していても。


 むしろ誰が何を話しても聞き取ることが億劫で、いらいらしました。


 なぜ私のそばで笑っているのでしょうか。

 全ての事象が灰色にみえて仕方なかったのです。


 楽しいと、嬉しいという感情が死んでしまったよう。


 町を歩けば彼がいるのではないかと探してしまう。


 彼がのぞんだように一人では立てなくて。


 だからと言って、彼を追いかけることも出来なかった。

 自ら命を絶てるほど、痛みに耐性があるわけでもない。


 養ってくれている人に葬式を出させるほどの勇気もなかった。


 彼の後を追えないから、仕方なく生きるのです。


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