生き残るあたしは罰を背負う。

洞木 蛹

 格子越しの朝焼けを眺め、ぼんやりとコーヒーを飲んでいた。

 暖かさと苦味が身を潤す。味はまずまず。香りも立っているので問題ない。しっかり淹れたら美味いだろうが、果たして自分に違いなど分かるだろうか。

 感覚は戻りつつある。指は動くし物を掴める。片耳と鼻もすっかり治ったから元の生活に……と言いたいところだが周りは止めてくる。

「……ぁ」

 心の傷だけが癒えてくれない。アーニャ自身大丈夫だと思っていた。

 大丈夫だと思っていただけだった。

 目頭の奥がツンと火照り脈打ちだす。次いで視界が潤む……涙が溢れて止まらない。こんなにも毎日のように泣けるだなんて、目の裏にそういう器官があるのではないか。

 マグカップを置いてから全身の力を抜く。このまま溶けてしまいたい。消えて無くなってしまいたい。

「…………っぐえ」

 胃の中がひっくり返らんばかりに暴れる。コーヒーが跳ねて飛び出そうだった。目を見開きならが口を押さえる。ふぅふぅと獣じみた息を繰り返すうちに、火照り冷えた体は落ち着きを取り戻す。

「かはっが、は……ぁー……」

 コーヒーは無駄にせず済んだ。笑みを浮かべながら身を起こし、与えられた個室と向き合った。ぐちゃぐちゃになったベッドに戻ろうと思えない。寝てしまったら悪夢を見るに違いないのだから。

 アーニャは目を細め、苦しげに口を真横へと引きしめる。



 支度をして食堂で軽食を済まし、カウンセリングの後。アーニャは今日一番の仕事を終えた。身も心も疲弊が激しく、泥にでもなって溶けたいとばかり唸っていた。

「葬儀は終わりました。ありがとうございます」

 他人事のように吐き出しても、目の前の人物は顔を顰めなかった。

「お疲れ様ですアーニャさん。じゃああとは……チカさんですね」

「チカ、まだ起きないなんて」

 あの寝坊助、と困ったように笑って見せた。彼女の心境を察してか、獣人ことアンネルジュの女性サンドラは身を縮こまらせる。斑模様の毛並みがくるりと歪む。

「アーニャさん、無理はしないで」

「……サンドラさんこそ」

 逆に気遣われたと肩を竦めてしまう。責めているつもりはなんてない。むしろ恩人だ。あまり無理も負担もかけたくないし、役立てたらとアーニャは考えてきた。しかし匿われている同然の身、手助けなど出来るのだろうか。奥歯を噛み締め、口角を落とさないよう気張ってしまう。

「あたし、日の出ぐらいに起きていたんです。ちょっとだけ。で、サンドラさんを見かけていたんですけど……ちゃんと眠っているんですか?」

「寝ていますよぅ!」

 ふすふすと黒い鼻が鳴っている。同じく黒い毛に覆われた口元は嬉しそうに上がっているが、瞳はどこか眠たげ。足元もおぼつかない。サンドラが善意で接してくれているのは伝わる。距離感とも表せない隔たりを撫でるよう、そっと手を伸ばす。

「帰りましょうか」

 優しく握ってくれた手は硬くて、ふんわりとくすぐったかった。



 中規模の診療所兼宿屋には何時だろうと人がいる。健康な人もそうでもない人も。

 二人は本棟から離れた建物にいた。日差しを受けて明るいのに生気を感じられなくて居心地は良くない。長い廊下と扉があるだけの簡素で物寂しく、息苦しく、アーニャは手を強く握りしめた。

 ある部屋の前で立ち止まるなり、サンドラはやけに優しい声を発する。

「チカさん、入りますよ」

 中にいる人間は返事をしない。そうっとサンドラが引き戸に手をかける。その手が小刻みに震えていたところをアーニャは見逃さなかった。怖いの? そっと視線で問いかけてしまう。

(あたしは……あたしも怖いよ)

 ガラガラと乾いた音と共に、柔らかな香りが二人を出迎えた。

 そこはアーニャの部屋よりもずっと広かった。窓がないものの、代わりに風景画や花がいくつも飾られ、明るい雰囲気を演出している。もしもこの部屋が狭くて無機質だったらなど空想してしまう。不安感に押しつぶされ叫んでいただろうか。アーニャは喉に力を込めて一歩、一歩踏み出す。

「やっほ、チカ」

 中央のベッドに居るソレに呼びかけた。出来るだけ普段通りに。

「みんなのお葬式終わったよ」

 ぎょろりと青い瞳だけが動く。頬から下はだらりと溶けているので表情は掴めないし、顎も形を崩しているのでチカは何も喋れない。針を刺したら破裂しそうな唇は全く動かなかった。

「生きてるのはあたしと…………チカだけになっちゃった、アッハハ、なんて……笑って、いられ、ない……よ、ね」

 チカはアーニャだけを見ている。彼女の薄い瞼が残されていたのは幸いだろうか。しっかり瞬きをしている。

 ……目を逸らしてはいけない気がした。でも体の震えが止まらない。顔は引き攣りすぎて裂かれてしまいそう。水分は全て汗と尿になってもおかしくないだろうし、ああダメだ、これが仲間だと、一番親しかった友人だなんて、

「二人だけに、なっちゃった、ね、チ……カ…………うっ、ぐぅ、ぁ、ぶぇえぇ!!」

 世界が大きく揺らぐ。

 腕で腹を押さえながら俯いてしまった。びくびくといが痙攣する。そのまま口から出てきそうな恐怖感に襲われ、脳内が真っ白になる。耐えきれず嘔吐してしまうと、慌ててサンドラが駆け寄った。吐瀉物が湯気を立たせ消滅してゆく。魔法だ。浄化の魔法。涙ぐみながら隣にいる彼女を見つめる。

「……な、さ……い、ご……め」

 歪んだ視界でサンドラは、微笑んでいた。

「大丈夫です、大丈夫ですアーニャさん。……チカさんは生きています。生きてるんです」

 抱きしめる力が強すぎて吐きかけると、サンドラはゆっくり離れてくれた。

本当なら突き飛ばしてやりたい。

 ……生きている。

 だから、なんだ。

「ぁあ、生きてる、生きてるんだ……チカ」

 全てを拒絶する身を叱咤し、変わり果てた少女と向き合った。

 体のほとんどが膨らんでしまい肉の塊に成り果てても、生きているなんて。

目を細めアーニャは笑った。

 あれから数日。嘔吐も悪夢も減りつつある中、あの日のことを打ち解けた。

「あたしも死ねたら良かったのに」

 サンドラに告げると一瞬だけ怒りを露わにされるも、悲しそうに頷かれた。

 偶然生き残れたのは幸運中の幸運だった。アーニャだけ何もされなかったし怪我は逃げた時に負ったもの。時間はかかったが神経も感覚も骨も元通り。二本の足で地を蹴っても支障がない。夢のようだった。

 助け出された時、死を覚悟していた。自分の太ももから覗く白い骨も覚えている。激痛に耐えられず叫びつづけ、ひしゃげた指で現実感を失い、片耳が聞こえない事と潰れかけの鼻は後から気がついた。

 それでも治ってしまった。生かされてしまった。

「……あたしだけ助かったも同然じゃないですか」

 しかし、生存したもう一人のチカだけは、手遅れだった。

 目を伏せながら、ゆっくりと語る。

 未来を生きる冒険者や旅人の為になるならと。こうして何が危ないか伝わればいい。サンドラはペンを片手に持ちしっかりと耳を向けている。その姿がどこか愛らしく、アーニャは肩の力を抜いた。

 記憶は断片的に残っている。全てのきっかけはチカの提案で、魔物の巣を壊滅させようというもの。思い返せば調子に乗っていた。

人やアンネルジュの生活圏があるように、魔物にも領域はある。

 立場と見方を変えて考えていたら。

 過信せず立ち止まっていたのなら。

 スライム状の魔物達がいなくなれば水害が無くなるなんてあり得ない。むしろ彼らがいるから保たれる環境や生態系もあるというのに。

 自分たちは冒してはならない域に踏み込んでしまった。

「……最初にいなくなったのはチカだった」

 悲鳴をあげる間もなく消えたので異変に気づけなかった。薄暗い洞窟の中だったし灯りは先頭の子が持っていた事もある。ケチらず一人一人が光源を手にしていたら別だったかもしれない。

 だってそこは魔物……スライムの巣。天井や壁にも奴らは居る。

 スライムというとゼリーのような質感をした魔力の塊で、一メートルにも満たない大きさが普通。脅威にならないと、みんな慢心していたのだろう。

「どこもかしこもスライムまみれで、カラフルで、すごかったよ……綺麗だなんて思う暇はないけど。そいつらはあたしたちより……何倍も大きかった」

「何倍も……!? 嘘、そんなの……聞いたことない」

「でしょう? 初めは何なのか分からなかった。……そんな連中が襲ってきたの」

 一人が潰され、捻られ、呑み込まれて、声をあげる前に光が途絶えた。後方にいたおかげでアーニャは抜け出せた。いや、見捨てた。力強く口にする。その後は潜んでいたスライムの体当たりで転び落ち、あとは救助に来たサンドラや他の人間達は知っていること。

「……なんであたし、誰にも、怒られないんだろう」

 ボロボロのアーニャの証言により仲間達は見つかった。体液を啜られ干からびたり、事切れたままスライムの体液を噴き続ける少女だったり、肉団子のように丸められた仲良しの三人組。チカは最奥にいたという。

 発見当初は死んでいると思われた。ほぼ全身からスライムを噴き出していたらしい。ブクブクに張った肉体はもちろんだが、スライム達の体液を無理矢理飲まされ注がれたのだろう、口と肛門だけでなく乳首までも裂けて膿んでいた。膨張の原因は体液や奴等の精子にある。

 精子が体内を泳ぎ、都合よく侵食を進めると共に卵子を食って生殖も果たした――なんて言われ誰が信じるのだろう。アーニャは嘘だと青ざめていた。変わり果てた彼女を見るまでは。

 連れてかれたあの部屋には、声すら発せられず、やたら膨れた乳房からは母乳ではなくスライムを、股からは幼体を垂れ流すチカがいた。

あのあとどうしたかも覚えていない。気がついたら格子のある部屋で寝かされていたのだから。

「あれじゃまるで生きてる感じしないですよ。自我があるかどうか……分かんないですし。でも出来るならあたしは…………」

 口端が痙攣する。胸に抱いた言葉を拒むかのように。

 今もまだあの部屋に彼女がいる。――あの場所で何を思うのだろう。


 その翌日、ようやく悪夢から解放された。



 今でもスライムは怖いが以前のように戦えなくない。暇を持て余しては手伝いをし、元冒険者のリハビリや訓練も行った。

 サンドラが書き留めた文章はアーニャの知らない組合に出されたが、今後の世のためになると聞かされた。

「本当に良かったんですか、アーニャさん」

「……うん。このままにしたって、ね」

 チカの容態は平行線ままであった。起きているし眠ってもいる。食事は摂れないので飲ませるしかなかった。

 そんな彼女は本当に生きているのだろうか。アーニャは決断を下し、別れを決めた。周囲の手を煩わせたくないので断ち切りもした。悔いはない。これでいいんだ。

「あたしはどうしたら良い? 家事とか下手だけど、生きる意思は……ここにあるよ」

 世界のためだなんて綺麗なことは言えやしない。死んだ仲間の為だとも冗談でも無理だ、笑えない。

 冒険者を支え助けるここで働けばきっと何かが掴めるはずだ。

純真な瞳でアーニャを迎えるサンドラは大きく腕を広げる。そこへと引き寄せられるよう歩んで行く。

「……アーニャ!」

「あはは、くる、くるし……ぐぇ」

「あぁっ! ごめんなさい、私ったら」

夕焼けが二人と墓地を照らす。それらを包み込まんばかりに、夜は迫っていた。


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