第72話 春に濡れる女

 冬が明けて春が来た。


 まだ、肌寒さは残っているけど。


 心地良い陽気に、うっかり居眠りしてしまいたい。


 けど、今の僕はある目的のために、歩いていた。


「あっ」


 街中に佇む美女がいた。


 まるで絵画のように見惚れてしまうくらいの。


 あまりにもきれいだから、周りのナンパしたそうな男たちも、チラチラと見るばかりで、悔しそうに歯噛みをして去って行く。


 そんな彼女の下に、僕は遠慮がちに歩み寄った。


 すると、ふっと振り向く。


 サラッと、きれいな髪がなびいたと思ったら……


「もう、遅い」


 それまでの美貌が崩れた。


 とは言っても、決して不細工になった訳じゃない。


 入れ替わるようにして、彼女が持つチャーミングさが前面に押し出されたのだ。


「ご、ごめん」


「濡れちゃったじゃない」


「えっ? 雨なんて降ってないでしょ?」


「日差しに濡れたの。私、モデルだから、美白でないといけないのに」


「ご、ごめん……」


 僕は慌てて、持っていた日傘を差す。


 彼女は満足そうにうなずいた。


「ねえ、自分で持って来れば良いんじゃないの?」


「バカね。彼氏にやってもらうから、良いんじゃない」


「ていうか、付き人みたいなんだけど……」


 僕がボソッと言うと、彼女はくるっと顔を向けて、ニコッと微笑む。


「ただの付き人と、キスしたりハグしたりエッチしたり、するかしら?」


「……しないです」


「よろしい。ちなみに、今日の私はどう?」


「いや、何ていうか……いつもきれいだけど、今日はまた一段と……」


「んっ?」


「な、何でも……ないです」


「全く、どれだけ経験を重ねても、童貞臭いんだから」


「ご、ごめん」


「現場では、堂々としていなさい。あなた、私の彼氏なんだから」


「ていうか、やっぱり僕が同行する意味って……あるの?」


「見せびらかしたいから」


「僕を?」


「そう」


「自分で言うのもなんだけど、僕なんか自慢にならないと思うけど」


「良いのよ、そんなの。それに、真尋に私のモデルっぷりを見てもらいたいし」


「たまに雑誌で見せてもらうけど」


「そうね。真尋はいつも、生の私を見ているものね」


「うん、まあ」


「生の方が好き?」


「な、何か、聞き方が……」


「あら、どうしたの? 真尋、ムッツリスケベ?」


「ごめん、緊張しているから。あまりからかわないで」


「だからこそじゃない、彼氏くん」


 麗美ちゃんは、ニコッと微笑んだ。




      ◇




 春休み。


 3年生になると、受験勉強が本格化する。


 だから、最後の遊びタイム。


 僕は日頃、色々と酷使している体を、ゆっくり休めたいと思っていたのだけど……


『真尋♪』


『まーくん♪』


『真尋くん♪』


 あの3人に、捕まってしまった。


 バレンタインのお返し、つまりはホワイトデーのことなんだけど。


 僕はちゃんとお返しをしようと思っていたら……


 チョコはいらないから、代わりに春休み、1人ずつ1回、僕を自由に使える日が欲しいと言って来た。


 いくら彼女といえど、さして長くない春休みの貴重な1日を、好き勝手にされるのは正直に言って嫌だと思ったけど……


 断れば、もっと面倒なことになりそうだったし。


 僕は仕方なく、その条件を飲み込んだ。


 そして、今日は麗美ちゃんの番。


 僕は彼女のモデル現場に同行している。


「良いね~、麗美ちゃん。可愛いよ~!」


 カメラマンが、しきりにシャッターを押しながら、彼女を褒め倒す。


 まあ、それが仕事だろうし、事実、麗美ちゃんはきれいで可愛いから。


「ふぅ~ん、君が麗美の彼氏かぁ~」


「えっ?」


 ふと、となりで声がしたので、顔を向ける。


 キャスケットを被った美少女がいた。


 麗美ちゃんと比べると、可愛い系の部類である。


「いつもね~、麗美がノロけるから~、気になっていたんだ~」


「え、えっと……」


「あ、ごめんね、いきなり。私、ニコって言うの。よろしくね」


「わ、綿貫です」


「下の名前は、真尋くんだよね? てか、麗美と同じ歳でしょ? じゃあ、私ともタメだから、敬語は良いよ~」


「ど、どうも……」


 初対面の美女を前に、僕は戸惑うばかりだ。


「麗美って、ワガママだから、大変でしょ~?」


「いや、まあ……でも、悪い子じゃないから」


「うん、そうだね。ていうか、そんな麗美が、君にはメロメロなんでしょ?」


「メ、メロメロと言うか……」


「見た目からは想像できないくらい、たくましいって」


「そ、そんなことは……」


「え~、てかさ~……」


 その時、


「お話し中に失礼」


「あっ」


 麗美ちゃんがすぐ目の前にいた。


 怖いくらいの、笑顔を浮かべている……


「麗美ぃ、彼氏くんとお話してたよ~♪」


「ええ、見ていたわよ」


 お互いに笑っているけど、対照的だ……


「ほら、ニコ。次はあなたの番よ」


「はーい」


 ニコさんは返事をして、歩き出す。


「じゃあ、真尋くん、またね♪」


 ニコッと笑顔で手を振るので、僕も遠慮がちに応えた。


 彼女が去って行くと……


「……浮気者」


「えっ? いや、何で?」


「彼女が仕事中に、堂々と……真面目な見た目をして、嫌らしい男ね」


「そ、そんなことは……」


「ていうか、仕事する私を見て欲しかったんだから……目を逸らさないでよ」


 麗美ちゃんは、そっと僕の手の甲に触れる。


 いつもより、ほんのわずかに、火照っているような気がした。


「麗美ちゃん」


「何よ?」


「かっこよかったよ、仕事している姿」


 僕は自然と笑ってそう言えた。


 本心から出た言葉だから。


「……ありがと」


 麗美ちゃんは髪をいじりながら、そっぽを向いてしまう。


「もうすぐ、撮影が終わるから……デートしよ?」


「麗美ちゃん、疲れていないの?」


「これくらい、へっちゃらよ。それに、いつも真尋とする方が……クタクタなんだから」


 照れた表情から一変、またいつもみたいに、僕を挑発するような笑みを浮かべる。


「ご、ごめん……」


「どうして謝るの?」


「いや、何となく……」


「好きよ、真尋」


「えっ? あっ……ぼ、僕も」


 照れながらそう返すと、麗美ちゃんがきゅっと僕の手を握ってくれる。


 周りは多くのスタッフやモデルさんたちがいるのに、ふいに全く気にならなくなった。


 そこには僕と麗美ちゃんだけの、世界が生じていた。


「ねえ、みんなにバレないように、キスする?」


「そ、それは、さすがに……」


「逃げるの? ひどい男ね。私を濡れさせたくせに」


「えっと、日差しに? まだ怒っているの?」


「それだけじゃなくて……あなたを待っている間、ずっと濡れていたの……大事なところが」


「あっ……」


 僕は今度こそ、絶句してしまう。


 一方、麗美ちゃんは、より一層、蠱惑的に微笑む。


「罰として、今日はお預けだから。こんな良い女がそばにいながら、抱けないもどかしさを味わいなさい」


「わ、分かったよ」


「ふふ、素直ね。良い子だから、せめてお手伝いしてあげましょうか?」


「いや、その……じ、自己処理するから」


「ふぅん? 彼女が3人もいるのに、寂しい男ね。ああ、でもアレはエッチとはまた別腹って言うものね」


「…………」


「否定しないってことは、普段もしているの?」


「えっと……朝、起きた時とか、たまに……」


「じゃあ、春休みの間だけ、麗美さまの出張モーニングサービスをしましょうか?」


「いや、そんなの良いよ」


「そんなの?」


「え、えっと……れ、麗美ちゃんみたいなきれいな子と朝までずっと一緒だと、頭がおかしくなっちゃうから」


「……まあ、口下手なあなたにしては、上出来なセリフだから、許してあげる」


 僕はホッとした。


 瞬間、息が止まる。


「……へっ?」


 麗美ちゃんは、僕の目の前で、優美に微笑む。


「これが麗美さまのテクよ」


 そっと、囁くように言われる。


「麗美ちゃーん、今度はニコちゃんとツーショットで!」


 呼ばれると、彼女はくるっと髪をなびかせる。


「はーい!」


 元気よく、かつ優雅にカメラ前へと向かう。


 不覚にも、僕はそんな彼女に、見惚れてしまった。




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