第5話 金春色、ダブグレー
「でも、もう半年が経ちました。そのうち段々悲しいのが和らいでいって、そろそろ戻ろうって思うのに、動けないんです。荷物をまとめて家を出ようとすると手が震えて、何も考えられなくなって、座り込んだ床が冷たいなぁとか、そういうことしかわからなくなって、」
タクシーのシートにもたれて、母との電話を思い出していた。ご飯は食べているのか、仕事は忙しいのか。スマホの電源を落としたくなるような鬱陶しい台詞たち。素直になれない自分が大人になりきれていないみたいで腹立たしかった。仕事相手や恋人とはうまくやれるのに、母を前にするとみっともない自分が顔を出すのが嫌だった。こんなわたしはいなくなればいい、そう思っていた。
相変わらず最後の会話を思い出せないまま、なぞるよう冷たい窓に手をかざす。
「わたしは、どうして動けなくなってしまったんでしょうか。寂しいのと引き換えに、自由が手に入るんじゃなかったんでしょうか」
一本道のずっと向こう側、数ミリのカーブを描く地平線にちぎれた雲が重なる。その先にかつて暮らした街があるなんて信じられなかった。
おばあさんの隣は、まるで誰もいないみたいな気配がした。見ず知らずの人なのに、わたしは彼女の言葉がほしかった。それをわかっているみたいに、おばあさんは奥行きのある声で言った。
「怖い夢を見ているのね」
肩に乗っていたシミのある手が滑り、わたしの手にそっと重なる。
「『愛しているものがあったら自由にしてあげなさい』って言葉、今の若い人は知っているかしら。わたしがまだ学生だった頃、うんと昔に流行ったのよ」
「聞いたこと、あります」
「わたし、あの言葉が大嫌いなのよねぇ」
薄く紅が引かれた唇から漏れた「大嫌い」に目を瞬せると、おばあさんは目尻を細めて続ける。
「だって自由にされたほうはどうなるの。放り出される悲しみを知らない者の戯言だわ。そんなものは独りよがりよ。
でも、わたしだっていつか死ぬわ。誰だっていずれは何もかも手放さなくちゃいけないのよ。持っていけるのは思い出だけ。残していけるのもね」
「残していけるのも?」
「残していけるのも、よ」
口の端を頬に寄せて微笑んだ顔に、丸い木洩れ陽が踊っている。大小様々な光の粒が付いては離れてを繰り返す。
埋め尽くされた日常の中でわたしたちを捉えているものは、本当は、メレンゲ菓子のように軽くて脆い。別れたあとになって「来てくれて嬉しかった」と、最愛の人に伝えなかったことを後悔する。離れることは手放すことでも、手放されることでもある。
光の粒は風見鶏のように東へ西へ不規則に遊ぶ。ひとつでいいから拾いたくて手のひらを上に向けると、突然四方八方から薄黄色のひだまりが集まってくる。重なり合ってオレンジ色になり、濃い朱色になり、やがて暖かさを詰め込んだ色になった。じんわりと指先まで温まってくる。
「でも大丈夫よ。あなたにはちゃんと手を握っていてくれる人がいるわ」
おばあさんのいた気配が溶け、代わりに懐かしい甘い香りがして、世界は丸く閉じていく。
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