四 見覚えのあるはずの場所
「――ここが、君の言っていた場所なのか?」
連れてこられたのは、オフィスビルと思しき高層建築物の前だった。まだ新しい、どこにでもあるような変哲もないビルだ。
「ええ。でも、用があるのはこの上よ」
そびえ立つ高層ビルを見上げて訝しがる俺に、彼女はそう言って人差し指を天に向けてみせる。
そして、裏口へ回ると壁面に設けられた避難階段を登り、真っ直ぐそのビルの屋上へと向かった。
エレベーターが使えないのが少々不便だが、忍び込んでいる身なので贅沢も言ってられない。
「…ふぅ……ここは……?」
さすがにわずかながら息を乱し、その屋上へと到着すると、眼前にはおもしろい景色が広がっていた。
なんの変哲もないコンクリ吹きっぱなしの屋上ではあるが、柵も何もないその縁の一部分は赤いコーンと「KEEP OUT」と書かれた黄色いテープで囲われ、その向こう側には窓から淡い光の溢れる明るい建物が威風堂々とそびえ建っている……その感じからして、どうやら高級ホテルのようだ。
「……なんだ? この景色は見覚えがあるぞ? ……しかも、俺はごく最近ここへ来ている……」
しかし、屋上からのその眺めを目にした瞬間、俺はまたしても
「いったい、なんなんだここは…うぅっ…!」
その上、突如、激しい頭の痛みに襲われ、その場にしゃがみ込んだ俺の脳裏には、次々とドラマチックな映像が再生されては消えてゆく……。
……狙撃用ライフルを構える黒づくめの男……その男と格闘し、あの縁から二人して落ちてゆく際のぐるぐる回る世界……それに、あの展望台で夜景を眺め、楽しそうに微笑んでいる今井信乃……。
「……そうか。そういうことだったのか……俺は〝ヒトキラー〟じゃない……俺は佐々木正。公安一課の刑事だ」
俺は、すべてを思い出した……心に刻まれたこの場所での衝撃的な体験が、呼び水となって俺の失われた記憶を蘇らせたのだろう。
「〝ヒトキラー〟の本名は河上
そう……記憶を失い、すっかり自分のことだと思い込んでいた殺し屋〝ヒトキラー〟は、俺ではなく、俺が捕まえようとしていたその犯人の方だったのだ。
そして、俺の記憶喪失をいいことに、そんな嘘を吹き込んだ彼女も……。
「岡田伊代……その名も捜査上に上がっていた。おまえ、河上玄師の女だな? だがわからない。どうして俺にそんな嘘を教えて病院から連れ出した?」
完全に記憶を取り戻した俺は、本来の自分――公安警察の佐々木正として殺し屋の恋人を問い質す。
「もちろん復讐のためよ。あなたは運良く木に引っかかって怪我ですんだけど、河上玄師はあなたと一緒に落ちて死んだわ。でも、記憶喪失になってたなんて、なんともふざけた話よね……自分が誰だかもわからないあなたを殺したところでなんの意味もないもの」
俺の質問に答えた彼女の手には、いつの間にか拳銃が握られ、その銃口はしっかりと俺に定められている。
なるほど……それでいつでも俺を殺せたのに今までそうはせず、記憶を取り戻すその時を待っていたというわけか。
それが、恋人の死んだまさにその場所でというのはなんとも運命的だ。彼女としても確信まではなかったのだろうが、ここへ連れて来たのは大正解だったようである。
「というわけで条件は整ったわ。ようやくあなたを殺せる。さ、とっとと死になさい」
ひどく冷酷な顔をした彼女は、恐ろしく冷たい声でそう告げると拳銃の引き金に指をかける。
躊躇なく人を撃つことは、先程の展望台でもよくわかっている。殺し屋の相棒でもある彼女だ。この至近距離で的を外すことはないだろう。
万事休すだ。さあ、どうする……。
「……!」
と、その時、俺の目はあるものを捉えた。
「ま、待ってくれ! あれは事故だ。悪気はなかったんだ。君の恋人を殺す気なんてさらさらなかったんだよ! だから、この通りだ。どうか俺を許してくれ!」
俺はジリジリと後退りをしつつ、情けなくも
「今さら命乞い? あの〝ヒトキラー〟の人生を終わらせた人間が情けないわね。潔く諦めて死になさいよ」
対して彼女は嫌悪するように眉間を歪めると、銃口を突きつけたまま俺の方へと歩み寄ってくる。
「た、頼む! 頼むからもう少しだけ待ってくれ! も、もう少しだけ……よし、もう待たなくてもいいぞっ!」
俺はなおも命乞いをしながら後退りを続けると、不意に思いっきり右脇へと横っ飛びした。
「なっ…!?」
と同時にパァァァーン…! と銃声が静かな屋上に響き渡る。
「うく……」
だが、その銃弾は的を外し、床に転がった俺の体を貫くことはない。
反対に俺を撃ったはずの岡田伊代の方が、白目を剥いてその場へ崩れ落ちるようにして倒れ伏した。
その背後に目を向ければ、そこにはあの今井信乃が立っており、その手にはバチバチと蒼白い電流が先端で閃くスタンガンが握られている。
そう……先刻、俺は岡田伊代の背後に彼女の姿を発見すると、敵の気を惹くとともに密かに忍び寄る時間を得るため、あんな恥も外聞もない命乞いをして見せたのである。
「さすがだな。よく俺のタイミングに合わせてくれた」
俺は床に座り込んだまま、気絶した岡田伊代も放置して、こちらへ歩み寄ってくる彼女にそんな賛辞の言葉を送る。
「それは長い付き合いですもの。なのに、わたしのことまで忘れちゃって……どうやら記憶は戻ったようですけど、わたしのこと、ちゃんと覚えてますか?」
対して彼女は俺に手を差し伸べながら、口を尖らせると冗談めかした口調でそう尋ねてくる。
「ああ。公安警察の優秀な女性刑事さんだ。それに、俺とは何度となくあの展望台へデートに行った、同僚達も知らない秘密のパートナーでもある」
俺は微笑みを湛えて彼女の手を取ると、そう答えながら勢いよく起き上がった。
(見覚えのない彼女 了)
見覚えのない彼女 平中なごん @HiranakaNagon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます