三 見覚えのある女

 金は一銭もないのでずっと徒歩であるが、歩いて行けない距離でもない。


 それに、やはり俺の体は長距離歩行も軽くこなせるくらいに鍛えられているらしい……。


 ああ、ちなみに目立つので、もちろん頭の包帯は剥ぎ取ってだ。


 ともかくも、日が沈み、ちょうど夜景が美しく輝き出す頃合いには、その高台にある展望台に問題もなく辿り着いていた。


「……ここは……やっぱり見覚えがある……俺は、確かにここへ来たことがあるんだ……」


 デートスポットとしても人気があるのだろう。複数のカップルが淡い照明を受けながら宵闇の中に点在する、眼下の街のが一望できる露天の展望台の縁に立ち、俺はまたも強い既視感デジャヴュを感じる。


「……いつだ……いったいなんのためにここへ来た……?」


 だが、相変わらず「ここへ来た」こと以外はまったくもって思い出すことができない。


「……佐々木さん?」


と、ちょうどその時だった。


 誰か女性の声が俺の名前(らしい…)を呼んだ。


 その声のした方向を振り返ると、そこには一人の若い女性が立っていた。


 黒髪のセミロングでダークスーツを着た、地味な風貌をした女性であるが、岡田伊代とはまた違った美しさを持っている。


「佐々木さん、どうしてここに……もしかして、記憶が戻ったんですか!? わたしのこと覚えてます?」


 その女性は目をまん丸く見開くと、興奮気味にそう言って俺に詰め寄る。


「……君は……誰だ? 俺のことを知っているのか?」


 無論、彼女が誰なのか記憶はない……ただ、誰かはわからないが、彼女とはずっと以前から知り合いだったような、そんなぼんやりとした、だが、確かな感覚だけはある。


「今井信乃しのです! わたしのこともほんとに覚えてないんですか!?」


 今井信乃……彼女の口にしたその名前にもなんだか聞き覚えがあるような、とても懐かしいような気がする。


「病院からいなくなったって聞いて、ずっと探していたんですよ! それで、もしかしたらここにいるんじゃないかって……そうしたら、ほんとにここにいて……ここへ来たってことは、何か思い出したんじゃないんですか!?」


 彼女はその目に熱いものを宿して、さらに激しく俺を問い詰める。


「い、いや、確かにこの場所に見覚えはあるが、それ以外のことは何も…」


 そんな〝今井信乃〟と名乗る女性に少々たじろぎながら、言い訳でもするかのようにそう答えようとした瞬間。


 パァァァーン…!


 と乾いた爆発音が響き渡ると同時に、キン…! と耳触りな金属音がして、脇にある手摺から眩い火花が散った。


「きゃっ…!」


 咄嗟に身を背けて悲鳴をあげる彼女の傍ら、俺は本能的にそれが拳銃の発砲音と、弾丸が金属製の手摺りに衝突したことによる現象だと一瞬にして理解する。


「離れて! その女は公安よ!」


 続けざま、案の定、拳銃を手にした女性が叫びながら俺の前へ飛び出し、その〝今井信乃〟という女性に今しがた弾丸を放ったばかりの銃口を向ける。


 見れば、それは岡田伊代だった。


「くっ……」


 慌てて今井信乃が跳び退くのと同時に、岡田伊代は二発目を発射し、その銃声にあちこちからキャーキャーと悲鳴が沸き起こると、その場は一瞬にして恐慌状態へと陥ってしまう。


「早く! 今のうちに早く逃げるのよ! それともやつらにまた捕まりたいの?」


「あ、ああ……」


 弾は当たらなかったものの、その一発で今井信乃は物陰に隠れ、逃げ惑う人々がよい目眩しになってくれる。逃走の手助けとしてはそれだけでもう充分だ。


「ま、待って! 逃げないで!」


 人々の向こう側から響く今井信乃の叫び声を背に受けながら、俺は岡田伊代に手を引かれるまま、その場を急いで走り去った――。




「――どうして勝手に抜け出したの!? こういうことになるってわからなかったの!?」


 展望台の駐車場に停めてあった彼女の車に乗り込み、坂道を爆走しながら俺は岡田伊代に怒られる。


「あ、いや、すまない……あの景色には見覚えがあったんで、あそこへ行けば何か思い出せるような気がしたんだ。そう思ったら、もういてもたってもいられなくなって……」


 険しい顔で前方を見つめたままハンドルを握り、厳しく責めたてる怖い彼女に俺は焦って言い訳をする。


 勝手に黙って出てきたのは確かだし、不機嫌な恋人を前にしてはやはりかなり気まずい。


「……で、何か思い出したの?」


 しかし、記憶を失っている俺に同情してか? 不意に彼女は怒りの表情をその顔から消しさると、なおも前方を見据えたまま、静かな調子の声でそう尋ねる。


「いや。あの展望台に行ったことがあるって以外は何も……無駄足だったようだ」


 彼女の問いに、その横顔から視線を逸らして俺はそう答える。


 本当はあの今井信乃という女性との会話に大きな手がかりを感じたのであるが、なんだか、そのことは話さない方がいいような気がして咄嗟に嘘を吐いてしまった。


 彼女は公安の人間だと言っていたが、俺へのあの話ぶりは、逃走した殺し屋に対してのものとしてはどこか違和感があった。


 逃げた要人暗殺未遂犯とそれを追う公安警察……俺とあの女性は、本当にそれだけの間柄なのだろうか?


「そんなに記憶を取り戻したいんなら、いい所へ連れてってあげるわ。きっとそこなら何か思い出せるはずよ……」


 俺が心の内で密かに今井信乃のことを考えていると、彼女は意を決したかの如くおもむろにそう告げる。


 そして、それっきり次の目的地に着くまで、二人だけの車内は重苦しい沈黙に包まれていた――。

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