第2話 漂流


 気が付くと板の間で寝ていた。灯のない暗い部屋だった。

「気が付いた?」

 見覚えのある力のある瞳だ。


 恵里菜が勝悟の横に座り、顔を覗き込んで見ていた。

「ああ、何が起きたんだ?」

 勝悟は勝手が分からず、事態を把握しようと尋ねたが、恵里菜はその問いには答えず大声をあげた。

「お母さん、目が覚めたよ」


(お母さん? ここは恵里菜の家か……)

 以前に来た恵里菜の家とは様子が違った。どことなく土臭い匂いがする。

 よく見ると恵里菜だと思った子は、自分より少し若いようだ。中学生ぐらいか。それに制服ではなく、シンプルな浴衣のような着物を着ている。顔も日に焼けて黒かった。


 恵里菜に似た子は私の問いには答えず、代わりにこの子の母親がやって来た。

「ようやく気が付かれたか。お前さん、道で行き倒れるなんてどうなさったのかい?」


 この子の母親にしては老けて見える女性が、逆に私に事情を訊いてきた。

 勝悟は慌てて意識を失う前のことを思い出そうとした。


「何が起きたのかよく分からないのですが、突然目の前が光に包まれて……」

 意識を失ったと言う前に、母親が怪訝そうな顔で勝悟を見ているのに気づき、言葉を飲み込んだ。もう一度落ち着いて、先ほどの母親の言葉を思い出した。


(道で行き倒れた? 俺は教室にいたはずだ)

 勝悟の頭の中に大きな疑問が渦巻いてきた。


「ここはどこですか?」

 パニックに陥ることなく、自分でも驚くほど冷静に事態の把握を始めた。

「古府中のはずれの村だよ」

(古府中……甲府の旧名か?)


「私は道に倒れていたんですか?」

「そうだよ。うちの人が気づいて運んで来たのさ。あんたの顔が栄太えいたそっくりだったんで、捨てておけないと思ったみたいだ」


「栄太さんというのは?」

「私のあにさまだ」

 母の代わりに娘の方が答えた。


「栄太さんは、今どこにいるんですか?」

「兄さまは、いくさで死んだ」

「戦?」

ととさまと一緒に、戦に出て死んでしまった」

(違う、ここは俺のいた世界じゃない)


 この善良そうな二人が嘘を言ってるとは思えない。

 戦のある世界、古府中、思わず叫び出しそうになったが、懸命に動揺を抑えながら、勝悟の頭が情報整理のために、目まぐるしく働き始めた。

 ようやく自分が制服を着ていないことに気づいた。


 再び叫び声を上げそうになるのを必死にこらえて、勝悟は母親に訊いた。

「私の服は?」

「ああ、泥だらけだったし、洗ったよ。今着ているのは栄太の着物だ」

「そうですか。どうもありがとうございます」


「変わった形の着物だったけど、生地は見たことない上等なものだった。あんたはどこかいい家の生まれなのかい」

「いえ、違います」

「ふーん」

 母親の方はそれ以上深くは訊いてこなかった。あまり興味がないのか? 勝悟も考える時間が欲しかったのでちょうど良かった。


「それにしても、見れば見るほど栄太にそっくりだわ。まるで生きて戻って来たみたいだ。もうすぐうちの人が返ってくるから、待ってな。帰ってきたらご飯にしよう」

 それだけ言って、母親は部屋を出て行く。

 後には娘だけが残った。

 勝悟は部屋を見渡してぎょっとした。


「あれは?」

 勝悟の指さした先には、日常ではまず目に触れることのない物が立てかけてあった。


 時代劇でよく見る大きな槍だ。

 全長で三メートルぐらいの柄は太く重そうで、その先には三十センチぐらいの穂がついている。

 包丁より大きな刃物を使ったことがない勝悟には、槍の穂の鋭くて冷たい感じが、まさに人の命を奪う道具であることを、声高に主張しているように思えた。


「父さまのだよ」

 勝悟よりも年下そうに見える娘は、何のためらいもなく、その殺人器具が父親の所有物であると教えてくれた。


 目が覚めてから動揺し続けていることに気づく。

 勝悟は落ち着こうと家の中を見渡した。不思議なことに天井にも壁にもライトがない。昼間だというのにどことなく薄暗いと感じたのは、壁の上部にある格子窓から差し込む自然光以外に、光がないからだった。


 さらにテレビなどの家電がないことに微かな違和感を感じた。それに気づいてよく見ると、肝心のコンセントもなかった。テレビで視たホームレスのダンボールハウスより質素で貧しい部屋だった。

 考えてみれば自分も板の間に直接寝かされていた。布団もないのかもしれない。

 頭の中に渦巻く否定の言葉を、強い確信が抑え込む。

(ここは、現代ではない!)


 それから勝悟は口を閉ざした。母親は勝悟が目覚めたことに安心して、畑に行くと言って出て行った。後には恵里菜に似た少女だけが残った。

 少女は時折好奇心に負けて勝悟の方を盗み見るが、躾がいいのか現代の娘のようにあれこれと話しかけてこない。

 我慢している様子が見て取れて、可愛らしかった。


(でも油断はできない。あんな物騒な物が家の中にあって平然としているんだ)

 勝悟はもう一度槍をまじまじと見た。

 あの冷たい光を放つ穂先は、簡単に人の身体に吸い込まれて行くのだろう。

 あまり見ていると魔性に心を奪われそうな気がして目を逸らした。



 日が暮れてきて外が暗くなると、部屋の中に明かりが灯された。植物油だろうか、クリスマスツリーに飾られる豆球数個分くらいの明るさしかない。

 そんな暗い部屋に、食事を携えた母親を従えて、一人の偉丈夫が入ってきた。

「気がつかれましたか」

 偉丈夫の声は腹から出しているのだろう。少ししゃがれ気味だが強い声だった。

「はい、お世話に成りました」


 不思議なことに勝悟は、この声を聞いたいだけで安心した気分になり、感謝の気持ちを素直に露わにした。その気持ちが伝わったのか、偉丈夫は微笑んだ。その笑顔がまた清々しい印象を醸し出す。


「なぜ、道で倒れていたかなど、訊かないでおきましょう。こんな世の中だ、何があっても不思議ではない。見知らぬ者に対して疑いを持つ者は多いが、わしはそういう気風が嫌いだ。閉ざした場所に豊かさはやってこない」


 意外な言葉だった。勝悟は薄々ながらこの時代には争いが生じていると感じていた。そうであれば不審者は敵のスパイと疑われる。厳しく詮索されることを覚悟していた。


「私は遠いところからやって来ました。だがはっきりとここでの記憶がない。ですから自分のことを詳しく語れないと、肩身の狭い思いでいました」

 勝悟は用意していたセリフを述べた。何が起こってるのか自分でも分からない。

 とりあえず、自分のことを語れない以上、これが適切な説明だと考えたのだ。

 偉丈夫はまたも男らしくて爽やかさが漂う笑顔を見せた。


「大丈夫です。あなたがもし敵国の間者であっても、わしのところには何も得るものはない。それに我が主君武田晴信様は、人材の登用に出自を気にされぬお方だ」

「武田晴信……もしかして、ここは甲斐の国で武田家が支配している時代ですか?」


 思わず不用意な言葉が口から出た。もし武田晴信が統治している時代なら、平安時代の末期からずっと武田家支配が続いているはずだ。

 しかし、偉丈夫はそういう細かいことは気にしてないように見えた。


「我が主君をご存じですか。申し遅れました。わしは武田家家臣の跡部勝資あとべかつすけの郎党で、山中小助こすけと申します」

「こちらも名乗りが遅れました。真野勝悟と申します」

「勝悟殿ですか。それにしても勝悟殿は我が子息栄太によく似ている。最初に顔を見たときには栄太が生き返ったのかと思いました」

「失礼ですが、栄太殿は戦で亡くなられたのですか?」


 自分に似ていると言われる栄太のことが知りたくて、勝悟はつい訊いてしまった。

 小助は一瞬深い悲しみの色を見せたが、すぐに表情から消し去り、徐に説明を始めた。


「昨年の長月ながつきに、越後の上杉と四回目の戦があり、我が武田は上杉勢を信濃から撤退させることができました。しかしお味方の犠牲は大きく、晴信様の弟君の信繁様を始め軍師の山本勘助殿など、多くの重臣が討ち死にされたのです。その激戦の中で栄太も跡部様のお側衆として、奮闘の末に討ち死にしました」


 川中島第四次会戦だ。あまりにも有名な戦いに思わず下腹に力が入った。

 勝悟は自分が戦国時代にいることを、はっきりと自覚した。

(タイムスリップか?)

 驚きはあるが動揺はなかった。先の見えた現代よりは面白いかもしれないとさえ思った。ただ、家族や友人と永久に合えないことは、寂しく感じた。恵里菜の顔が頭に浮かぶ。


「勝悟殿は行く当てはあるのかな?」

 深い思考に入っていた勝悟に、呼びかけるように小助が問いかけた。

「ございません」

 勝悟は正直に言って、次の小助の言葉を期待した。


「それでは栄太の代わりにうちに留まられるとよかろう。これも何かの縁だと思うでな」

 期待通り、小助は自分をここに置いてくれそうだ。小助の表情を見て、そうなるような予感がした。

 明らかに見も知らぬ自分に、息子に似ているというただ一つの理由だけで、小助は好意を感じてくれている。


 小助の側で女房殿がくすっと笑った。

「おお、紹介しよう。横にいるのが我が妻でこう、昼間会ったのは娘の恵奈えなです。今後はよろしくお願い申す。後、栄太が死んでちょうど男手が足りなくなっておる。明日から一緒に畑に出てくれぬか」


 まだ明確な返事をしてないにも関わらず、小助は話をどんどん進めてゆく。

「もちろんです。明日からは働き手としてお使いください。ところで私からお願いが一つあります」

「何なりと」

 それが小助の本質なのか、早速の勝悟の願いに鷹揚な態度を示す。


「次の戦があるときには、私も戦に出たいと思っています」

 この言葉には大胆な小助も目を見開いた。

「なんと、勝悟殿は進んで戦場いくさばに出たいと申されるか」

「はい、できることなら」

「もちろん、時が経てば戦に出なければならないときは来るやもしれん。だが次の戦とは性急な。勝悟殿は槍働きの心得はござるのか?」

「いえ、戦どころか、生まれてからこれまで人を殴ったこともございません」

 勝悟の正直な言葉に、小助はますます驚いて声が上ずる。

「それでは死にに行くようなものじゃ」

「ですから畑仕事の合間に、小助殿に槍について教わりたい」

 真剣な勝悟の眼差しを見て、これは本気と小助はどうすものかと考え込んだ。


「いいでしょう。男はいずれ戦に駆り出されるのは世の習い。そのときに慌てぬように、槍働きの心得を教えましょう。ただ、一つ守って欲しいことがあります。私がもう戦場に出ても大丈夫と判断するまでは、この家にて留守を守ってもらいます」


 小助の目はそれ以上は一歩も引かないことを主張していた。

 勝悟は小助は優しさからではなく、戦人いくさにんとして足手まといは連れて行かぬと、厳しさを見せたと思った。

「分かりました。これからよろしくお願いします」

 約束された未来が失われ、先の見えない場に立ったにも関わらず、勝悟の目には学校では見せたことがない躍動が現れていた。

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