戦国伏龍伝 漂流編

ヨーイチロー

第1話 踊らない心


 昼食をとった後の五時間目の授業、血液が消化のために急速に胃と腸に向かい、脳はしばしの休憩を要求してくる。ここで楽しい歴史の授業ならば、もうひと踏ん張り脳も働いてくれるところだが、生憎退屈な数学の授業だ。


 真野勝悟まのしょうごは、数学の授業に飽きていた。決して教師が嫌いなわけでも、数学が苦手なわけでもない。むしろどちらかと言えば好きな科目に入るだろう。


 勝悟にとって、高校で学ぶ数学はパズルに過ぎず、しかも公式や出題傾向が決まってる分、ヒントが多くて物足りない難易度でもあった。

 入学して三カ月間で、高校三年分の問題を解いてしまった今となっては、授業に参加しているだけで苦痛とも言えた。

 そもそもパズルはあくまでも自分一人で楽しむもので、解き方を教わってしまう発想は、勝悟にはなかった。


(いつもながら、気の抜けた顔をしてるなぁ)

 数学教師の櫻井さくらいはそんな勝悟の様子を片目で捉えながら、特に注意することもなく無視して授業を進める。

 櫻井には勝悟の気持ちがよく分かる。

 大学数学で扱う半場哲学じみた難問を前に、嬉々として思考する勝悟を櫻井は知っている。櫻井自身、学費の関係でやむなく教職の道を選んだ日から、生活のために受験数学を必死で教える自分は鎖に縛られている気がする。

 山梨県トップ校である南高なんこうの教師である以上、しかたがないことだとあきらめてはいるが、勝悟の姿を見ていると羨ましくもある。



 六時間目も終わって、クラスメートが帰宅や部活で慌ただしく教室を出て行く中で、勝悟はボーっと窓の外を見ていた。やることがないわけではなく、満を持したような梅雨明けの太陽の下に出ることが億劫なのだ。


「ねぇ、早く行こうよ」

 同じクラスの真田恵里菜さなだえりなが勝悟に声をかけてきた。

 恵里菜とは幼稚園から続く幼馴染だ。

 高校受験のときも絶対に勝悟と同じ高校に行くと、生涯二度とないぐらい猛勉強して、見事に合格を勝ち取った気合の入った女だ。


 恵里菜が目力の強い大きな瞳で、勝悟の顔を覗き込む。

 この目で見つめられたとき、勝悟は今でも恵里菜に対して引け目のような感情を感じる。


 中三のとき、恵里菜の受験勉強につき合って、勝悟の部屋で二人きりで勉強を教えていたとき、男性ホルモンの勢いに負けて、無防備な恵里菜の唇を触ってしまった。


 恵里菜は一瞬身体をびくっとさせたが、勝悟の指が触れたのだと分かって、何もかも受け入れる菩薩のような顔で、その行為を受容した。

 本能に突き動かされた自分と比べて、理性で受容する恵里菜の態度に、勝悟の理性が強力なブレーキをかけた。


 思わず勝悟が手を引っ込めると、恵里菜は何も言わず勉強を続けた。

 その日以来、恵里菜は自分に対して遠慮が無くなった。逆に勝悟は恵里菜の踏み込みの深さに後ずさりしてばかりだ。


「じゃあ、行こうか」

 のろのろと立ち上がると、教室の戸口で黙って立っている長身の同級生が目に入った。


「あっ、光一こういち。待っててくれたんだ」

 勝悟は恵里菜と二人の気まずさを、いつも救ってくれる同級生の姿に救いを感じた。

「早くしろ、置いて行くぞ」

 光一はそれだけ言うと、くるりと背を向けて部活に向かった。この機を逃さずと勝悟も慌てて後を追う。


 二人の背の後を、恵里菜が嬉しそうな顔でついていく。

 よくある日常の光景だ。




「キェー」

 裂ぱくの気合と共に、豪剣が空気を裂く。

 勝悟は竹刀とは思えぬ迫力ある一撃を、きわどく交わして小手を決める。現代剣道のルールであればこれで一本だ。


「好調だな。インターハイは期待してるぞ」

 一本取られながらも、主将の神谷かみやが満足そうに激励する。

「はい」

 答えながらも勝悟は虚しさを感じていた。


 持ち前の運動神経で神谷が相手でも、十戦すれば七本は勝悟がとる。だが後三本の神谷の剣は一刀両断の勢いがあった。もし実戦ならば細かく傷をつけても、一撃で致命傷を負わされる。そういう差が両者の剣にはあった。


 勝悟は小学生のときに、恵里菜の父が教えている剣道クラブに入り、天分もあったようで剣道に関しては全国クラスの実力となった。中学生のときは全中のベストフォーまで進んでいる。


 それなのに高校に入って神谷に出会い、急速に剣道への情熱が冷めてしまった。神谷の剣は武道であり、自分のそれはゲームにしか過ぎない。毎日の練習でその差を実感するだけに辛かった。それどころか、器用に一本を取る自分と比べ、光一や恵里菜の一振りの方が神谷の剣に近いようにも感じる。


 ならば勝悟も今までのスタイルを捨てて、神谷の剣に近づく練習をすればいいのだが、なまじ実績があるだけに周りがそれを許さない。

 現に本来自分が目指したい神谷が、自分に対して大きな期待を寄せているのだから、方向転換も容易ではない。

 心に葛藤を抱えながらも部活を続けているのは、ただ神谷の剣と触れるのが心地良いからだ。

 自分にないものを肌で感じるために来ているのだ。





「勝悟って最近さえない顔してるときが多いよな」

 部活の終わった帰り道、ようやく沈みかけた夕陽が照らす道を、三人で帰る途中で光一が何気なく呟いた。


「ホントだよ。なんか心ここにあらずって感じがしてヤダ」

 恵里菜が我が意を得たりという顔で責めてくる。


「何となくなぁ、このまま未来に向かって進むのに力が入らないって感じなんだ」

 勝悟は気の乗らないような感じで、とりあえず答える。

 その言葉に二人が反応して、勝悟の顔をまじまじと覗き見た。

 気まずい空気が勝悟の周りを覆う。


「何?」

 耐え切れずに勝悟が訊くと、二人は無意識の内に声を合わせた。

「こっちが訊きたい。どうしてそんなことを思う、の?」

 答えないと収まらなそうな二人の様子に、勝悟は億劫に感じながらも自身の気持ちを語り始めた。


「これは俺の気持ちだから分かってもらうのは難しいと思うけど、このまま既定のレールの上を走って行っても先は見えているような気がするんだよな。社会に出ても制約だけが多くなって、エキサイティングとは無縁な人生の予感がする。最初はいいんだ。克服しようと考えることはとても楽しい。でもすぐにワクワクしなくなる。それが繰り返されると、だんだん憂鬱になってしまうんだ」


 二人は呆れたような顔をして、改めて勝悟の顔をまじまじと見た。

 続けて溜息をつく。

 なぜかこういうときの光一と恵里菜の息はぴったり合う。


「やれやれ、俺たちが大学受験すらどうなるか分からなくて悩んでいるときに、なんて呑気な悩みなんだ。天才に生まれるのも考えものだよな」

 光一が再び溜息をつく。


「そうよ、東大合格が確実だからと言って、世の中なめすぎじゃない」

 恵里菜はだんだん舌鋒が鋭くなる。


 二人の強い批判に、やれやれといった顔をして勝悟はぽつんと呟いた。

「気を悪くしたならごめん」


 所詮他人にはこの思いは分かりはしない。

 自分でも恵まれていると、頭では分かっているつもりだが、気持ちが上がらないことは自分でもどうしようもない。

 勝悟の情けない顔を見て言い過ぎたと気づき、ばつの悪い顔で謝罪を口にする二人に対し、いいよいいよと、いいかげんに頷きながら、勝悟はこの話をクローズする。




 帰宅して夕食をとり、風呂に入ろうとすると、恵里菜からラインが来た。帰り道で責めたことを気にして、再度謝ってきた。悩んでいるならまた相談して欲しいとも書いてあった。


 単なる幼馴染だった恵里菜と付き合い始めたのは、中学を卒業してすぐだった。

 二人揃って南高に合格した日から、恵里菜は告白の機会を図っていたようだ。

 勝悟も男性ホルモンの影響とは言え、唇に触れてしまうほど、恵里菜は魅力的な異性だったから何の抵抗もなく承知した。


 南高入学後は、勝悟がモラトリアムに陥ってしまったため、二人の仲も停滞気味だ。決して恵里菜のことが嫌いになったわけではないが、二人でいても前のように無邪気に楽しみを共有できない。


 それが伝わるのか、恵里菜も二人になることを避け始めた。

 決定的な破局が怖いからだ。

 そういうわけで、最近は光一と三人になる機会が多い。


 光一は中学のときに同じ剣道部で、成績トップを争ったライバルだったが、お互いに理解し合ったのは中三で同じクラスに成ってからだ。二人の間を取り持ったのは、なんと恵里菜だった。


 光一は隙のない俊才で、滅法試験に強く、ケアレスミスは皆無だった。一方勝悟は気が抜けると何でもないミスをして、光一の後塵を拝することも多々あった。


 ところが、いったん難問に取り組むと状況は一変する。勝悟は中学生にして東大数学の入試問題を制覇し、英語ではニューヨークタイムスを難なく読みこなす。中学という枠を外して無差別級で学力を競ったら、光一が勝悟に及ばないのは明らかだった。


 そうした二人の違いに気づいたのが恵里菜だった

 恵里菜の指摘で、光一は勝悟の天賦の才を認め、勝悟は光一の現実的な対応能力に敬意を払った。加えてその頃の勝悟は、遠慮せずに知識全開で話せる相手がいなくて、光一はその意味でも得難い存在だった。二人は急速に接近した。


 光一は勝悟も驚くほど歴史マニアだ。特に戦史に強く、その見識は古代から近代までの世界中の戦争に及んだ。火器が未発達の古代戦は特に興味がそそられるようで、カンナエの戦いにおける光一の見解を、勝悟はもう何度となく聞かされている。


 勝悟は光一との会話の中で、別の面で過去の世界に興味を抱いた。産業革命以前の戦争には、人間臭いロマンがある。もちろんいつ命を無くすか分からないリスクは変わらないが、豊臣秀吉のように己の才覚がダイレクトに時勢に反映しやすいように感じる。戦争も近代戦に近づくにつれ、組織的で味気ないものに変ってゆく。


 もし自分が戦乱の世に生まれる権利があるならば、産業革命以前の時代を望むだろう。

 勝悟は湯船の中に頭を沈めた。時間が経つにつれてだんだん息が苦しくなる。酸素が不足して思考ができなくなってきた。この世界と切り離されるように感じた。

 生存本能が働いて湯から飛び出た。

 大きく息をする。

 この世界は何も変わってなかった。





 翌朝も太陽はじりじりと大地を焦がした。梅雨明けから夏休みまでのこの一カ月が、勝悟にとって一番学校への足取りが重くなる季節だ。

 教室に入ると光一と恵里菜は既に来ていた。この二人はなぜか一年を通じて朝が早い。勝悟も朝が弱いわけでもないが、この二人は特別だ。


「おはよう」

 教室に入って来た勝悟の姿を見つけて、絵里奈がまぶしい笑顔で声をかけてくる。

「おはよう、朝から元気だね」

「何、呑気なこと言ってるのよ。昨日のニュース見たでしょう。富士山が噴火しそうだって大騒ぎだったじゃない」

 絵里奈の興奮に思わず苦笑した。光一を見るとやはり黙って笑ってる。


「そんな騒いでも治まるわけではないし、自然現象なんだから落ち着いて対処するしかないだろう」

「でも富士山だよ。まさか富士山が噴火するなんて知らなかった」

 富士山は意外と知られてないが、直近では一七〇七年に噴火が記録されている活火山だ。

 火山の専門家によればいつ噴火してもおかしくないし、政府は富士山噴火時のシュミレーションを、現状に合わせて改訂しながら何度も発表している。


「噴火したとしても甲府の受ける被害は少ないし、そうやって騒いでパニックなんか起きたら、そっちの方が怖いよ」

「ふーん」

 恵里菜はつまらなさそうに富士山の話をやめた。


 本当に自分はおかしくなっている。こんな突き放すような言い方じゃなく、普段ならもう少しやさしく話を聞いたはずだ。きっと自分が来るまでは、光一が適当に相手をしていたに違いない。

 勝悟は自分の対応のまずさに気づきながらも、修正できないもどかしさに一層苛ついていた。




 今日はなぜか時間が経っても、勝悟の苛つきは一向に治まらない。

 朝の反省で悶々としながら、身の入らない授業を受けていた。

 強い後悔が胸に燻り続ける。

(こんな気持ちで一日を過ごすのは嫌だ)

 四時間目の授業になって、昼休みになったら恵里菜に謝ろうと決めたところで、それは起きた。


 ドーン。

 凄まじい衝撃を感じた。勝悟の目には教室の窓枠が一瞬ぐにゃりとよじれたように見えた。次に校舎が大きな力で揺さぶられた。教室内で悲鳴が上がる。

 恵里菜はと、目を向けようとしたとき、勝悟の視界は鮮やかな光に包まれ、何も見えなくなって、意識がふっと遠のき始め、やがて完全に失われた。

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