第41話 そして現れる者

 吸い込まれる意識は麻酔を用いた時の感覚に似ているかも知れないし、あるいは夢の中で舟を漕ぐような気持ちよさを伴っていて、ともかく、意識や知識に縛られない真の集中ともいうべきものが僕の心の中を占めていた。 ぐるぐるぐるぐる。既にこの意識は肉体を離れていて、いわば幽霊のようなもので、脳とこの剣は繋がってはいないはずなのだが、しかし脳内を光り輝く七色の液体が洗い流すごとき蠕動感が心地よい。

 いまや世界のすべては記号の連なりと化して、糸と意図とが連なりあった光の束である。この光景は何度見ても感動するもので、どこまで行っても肉体に縛られている限りは手に入らない感覚だった。

 それに今回は具合が良いと言ってもいいだろう、と思うのである。この剣に意識を流し込むことに慣れてきているのが分かる。自分の意識と覚醒した感覚がお互いに見つめ合っているような感覚がある。これまでは胡蝶の夢を微睡むが如く、自分と覚醒感覚に交互に落ちていくような感覚があった。いまはそうでは無い。このままなら帰りたい時に沙也加の下へと帰れるだろう。もっとも今この身は彼女の掌の内にあるのだけれども。しかし上昇し覚醒したこの感覚では彼女と繋がることはあり得ない。それを哀しいとも思わないが。 閑話休題、問題の銀色の円盤を見据えることにする。

 円盤は光を反射しながら四方八方に光をまき散らしている。魂が持つ七つの階梯、チャクラが持つ七つの色、それらは本来であればひとつの物体にひとつであるのに、あれはあらゆる色を発していて、それはあれ自体がチャクラエネルギーを吸い取り、混淆させていることを意味しているのだろうか。

 繋がる糸は無数。

 この場にいる人間たちの思考と思想と願いとかが絡まり合って、マハトマへ至る方舟を作り上げている。

 その願いのままに、あの糸は簡単に彼らを連れ去ることが出来るだろう。


「糸はどこに?」


 沙也加の声。

 あたまの、うえ。

 しょくばいのようなものはない。

 みなもとはーーー全員。

 うまく伝わったか分からない僕の声が応える。

 そのまま、剣を手に駆けだした。

 波の音を掻き分けるように、砂を踏む小気味の良い音が響き渡る。向かう先は劇場のごときテトラポット。その上に寄り集まった人々の影とーーーそこから伸びるあの細い糸たち。

 予想に反して糸の大きさ・太さはすべて同質であり、誰か一人が何かをしている、と言うわけでは無く、いわば全員の幻想がこの世界に流出しているかのごとき有様だった。あの一瞬、眞野ミコの言葉がその場を支配したようにあの時は見えたが、様々なモノが視えるこの視界においてその残滓は見当たらなかった。

 駆け寄る沙也加の姿を、彼らは見つめていない。彼らの視線は全く、あの銀色の円盤へと向かっている。アレが彼らを連れ去ろうとする瞬間を心待ちにしていて、そこにすべてが専心されている。沙也加など見ている筈もない。好都合だ。

 黒ずくめの内のひとりに、刃が振るわれる。当然身体にではなく、頭上へと。

 沙也加は見えていない糸を、当てずっぽうに切りつける。僕には視えている。ぷつん、とひとり目の糸が切り取られた。

 ひとりでは足りない。

 あれは無数の糸で寄り集まった集積体。

 もうひとりの頭上にも振るわれる。やはり抵抗はない。

 二人、三人、四人……まだ足りない。

 そこにいたほぼすべての人間の頭上へと刃が振るわれていく。

 切り取られた人間は皆、呆けたような表情で沙也加を見た。何をされたのか分からない。分からないが、何か大切なものを切り取られた様な気がする。そういう反応。

 

 沙也加は無言で、すべてを刈り取っていく。いまさら何かを否定する必要などなかった。あんな如何にも出来過ぎなUFOが本物である筈はない、と『僕』の意識は理解している。救いと称して死をもたらす、その背後には現世のしがらみが蟠っている。こんな分かりやすい詐欺に恐れをなすはずもなし、一部の理すら在るはずも無い。


 そうしてすべてを切り裂いていった。

 残る糸はあとひとつ。眞野ミコだけ。

 円藤沙也加にとっては眞野ミコは誰とも知らぬ人間である。切り取る相手であることに例外はなく、躊躇も存在しない。

 そのまま、これまでと同じように刃を振るう。これまでと同じように、糸は切り取られる……筈だった。

 だが。


「……む」


 沙也加の口から声が漏れる。困惑……ではなかった。大方理由の検討がついて居るような、そんな声。彼女の視線は手元にある剣へと向けられる。この剣。この刃。そこにやどる干乃赤冶が、眞野ミコの糸を切ることを拒否している。

 その瞬間、僕は……切りたくない、と思ってしまった。切るべきでは無い、と思ってしまった。

 眞野ミコは、僕なのだ。あるいは沙也加でもある。現実がうまく行かないで、幻想に逃げ込もうとした。ここではない何処かへ、自分ではない誰かとなって羽ばたきたいと思った。

 僕の理性はそれを否定する。現実逃避に意味はない。僕たちは現実の世界に生きるもの。向こう側へと向かうことは、現実に生きるものと二度と会えないことを意味する。

 沙也加もまた、それを否定している。彼女も現実の中でしか生きられない存在であるが故に。仮に行きたいと思ったとしても、向こう側にはたどり着けない。

 だけれども、今、この『僕』の考えは違った。

 ここは現実とは異なる位相、現実と幻想の渚。どちらに行くにしろ、それは等価値であるべきで、それは第三者が決めて良いことではない。


「……まったく。仕方のない人たちです」

 

 沙也加の声は冷ややかだった。


「ですが、このままではこの人は死にますよ。ただ死ぬだけなら良いかも知れませんが、その死は現世の利益に変換されます。この人の死と引き換えに誰とも知らぬ人間の懐が潤うだけです」


 その言葉は確かにその通りなのだ。だが……その事実が、果たして眞野ミコにとっての事実となるかまでは分からないのではないか?


「糸はまだ繋がっているのでしょう?つまり、眞野さんひとりだけでもその円盤とやらは顕現してしまう。まだこの人は生きている。いま切り取れば間に合う筈です」


 不意に。

 眞野ミコの首が動いた。

 先ほどまで円盤を凝視していたその目が、そのまま沙也加へと向かった。そのままの体勢で二人は睨み合う。沙也加は真剣な表情で。眞野はまるで何も写していないような虚ろな表情で。


「ヴェントラ、ヴェントラ」


 眞野の唇が動いた。

 魂を運び去る方舟を呼ぶ呪文。それが鳴り響くと、彼女から伸びる糸が一気に大きくなる。いや、増えた。何本もの糸が寄り集まって、綱の様に太くなっている。それは瞬く間に、彼女の頭上に止まる刃を包み込んだ。


「……なんと」


 沙也加の声は今度こそ困惑に染まっていた。動かない。文字通り、刃を握る腕がどこにっも行こうとしない。

 眞野ミコから伸びる無数の糸はよりあつまり、僕を絡め取り、消えかかった円盤を補強するように伸びている。円盤は依然として海の向こう。だけれども、刻一刻と僕たちのいる渚へと向かって来ている。

 沙也加には伸びていない。彼女は決して僕の視界から視える糸に干渉されない。他人の意図に惑わされない。そもそも、視ることすら出来ない。

 おそらくだが、彼女が僕を手放せば彼女は自由に動くことが出来るだろう。あくまで動かないのは剣の方だ。

 だが、沙也加は手放そうとはしない。毅然として、眞野ミコの瞳を覗き込んでいる。

 迫るタイムリミットの中、まんじりともせず続く睨み合い。沙也加の手に汗が滲みはじめるのが分かった。より一層、強く握りしめる。今の彼女の手の温もりなど分かるはずもないけれど。

 場は膠着している。タイムリミットは迫っている。誰も口を開かず、次に取るべき行動に迷っている。

 波の音が響く。カモメの鳴き声が遠くに聞こえる。まるでその場に人などいないかのよう。

 だが。

 ざ、ざ、ざ、と。

 音が鳴る。

 砂を踏む音。沙也加の時と同じ。だけどこちらは、もう少しゆっくりとした足音。まったく急いでいない。悠然と、ちょっとした見物に向かうような足取りでそれは近づいてくる。


「凄いなぁ……教祖は簡単に墜ちたってのに、こっちの小粒な方がきちんと顕現させるとは」


 たはは、と独特の笑い声が空虚に響いた。男は続けて「これは見誤ってしまいましたなぁ」などと呟く。

 黒いカソックの上に茶色い僧衣、頭にはターバンのようなものを巻いている。無国籍、いや無節操な格好をした男……芦屋美智蜜がそこに立っていた。


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