第25話 揺れ動く天秤

 僕は彼女の言葉の意味をしばし図りかねて、やがてああ、と合点がいく。

 そうか。大学を辞めたのか。だから答えられなかった。いや、答えたくなかった。

 ……だから、僕ともう一度会おうと思った。


 言ってから眞野ミコはグラスをいっぺんに口に押し込んだ。ごく、ごく、と。喉が鳴っていく。液体が口から注がれ、喉頭を通り、胃袋まで入ってく様が見えるかのようだった。

 良い飲みっぷり……と、脳天気に言うことは出来ない。それは自棄になって煽る酒杯である。普段の彼女であれば嫌悪するであろう飲み方だった。


「……そうか」

「そう。辞めたのよ。切り捨ててきたものとか、掛けられた時間とか期待をすべてふいにしてね」


 彼女は店員を呼ぶと、流れるようにもう一杯注文した。

 やがて赤い液体が再び運ばれてくる。

 彼女は興奮したように鼻で息を鳴らし、ふたたびぐいと煽った。今度はすべてを飲み干すほどでは無かったが、しかし液体は三分の一ほど減った。


「あなたも……そう。あなたと一緒にいる時間とか、楽しかった時間とか。そういうものよりも別のものを選択したの。家族や世間はそうやって、良い大学の高尚な学問をするところに行くのが良いことと思っていたから。医学部には入れれば、それだけで人生は良いものになる。そう思っていたのね」


 くだらないわ、と彼女は吐き捨てる。

 それは空に向かって血反吐を吐くようなもの哀しさがあった。


「何よりくだらないのは、それに流されてしまった私自身。自分のやりたいこととか、大事なこととか。そういうものよりも、人の言う『良い人生』とやらに流されてしまった。そんな人生は」


 息が詰まったかのように、彼女はしばし舌を転がせる。

 その詰まりを吐き出すために、もう一度グラスを煽る。

 ―――吐いた血が顔に掛かっているのに、彼女はなおも言葉を止めない。止められないのかも知れない。


「後悔しかないわ。私は自分の意思で、自分の大切なものを台無しにした」


 痛々しい自己否定の言葉だった。とても聞いていられない。しかし、その凄絶さが僕の心を捉えて放さない。


「……ねぇ、私ね」

「うん」

「―――付き合ってた人がいたの」


 いた、ということは、もういないのだろう。

 彼女が振ったのか、あるいは振られたのか。それとも別の理由で離別したのか。


「この人となら一緒に生きていけるかもって。つまらない人生でも、我慢してもいいかなって。そう思ってた」

「うん」

「でも、裏切られちゃった」


 弱々しい声だった。取り繕った自分を見せる余裕も無い。感情的に、自分の弱々しい心をさらけ出していた。

 ……彼女の言葉は痛々しい。この問題にどこまで突っ込んで聞くべきかのか。突っ込んでいいのかを図りかねた。


「そりゃ、酷いな」


 結局僕は当たり障りの無い感想を述べることしかできない。

 だが彼女はそれを気にした様子は無かった。彼女は自分の言葉を吐き出したいように吐き出していった。


「そう、とても酷い。なんで私だけこんな目にあってるんだろうって思う。なんで合わないものを、これが幸せだって、無理矢理おしきせられてるんだろうって。いつもよ。小学生の時も中学生の時も、高校の時も……ずっとそうだった。でも無理矢理与えられたものでも、いいのかなって思った。私にとって本当の幸せじゃなくても、それを幸せにしていくことも出来るんじゃ無いかって、一度は思った。でも、それも結局嘘でしかなくて―――なんで、惨めな思いになってるんだろうって。なんで―――」


 なんで。なんで。なんで。

 繰り返す問いに、僕はうん、と相槌を打つことしか出来ない。彼女は自分の苦しみを言語化出来ていないようだった。分裂した苦しみを消化できていない。


 自分の大切なものと、世間一般の常識と。それを天秤に掛けた時、どちらに傾くのかを図りかねている。どちらにも未練があって、どちらとも切り捨てられない。


 ……少なくとも、他人がその天秤を決めるべきでは無い。僕がそれを決める訳には行かない。


「ごめんなさい。嫌よね、こんな話」

「……大丈夫だよ。君が苦しんでるって、よく分かったから。話してくれてありがとう」


 それからしばらくワインを飲んで、そのまま押し黙った。

 話したくなくなったら、一時間でも二時間でも黙っていてもいいと思う。騒々しく言葉を連ねるだけが人間関係では無いのだから。


 しかし、彼女は沈黙を恐れるように、会話を再開した。


「私ね、最近幸せなの」

「そう。どうして?」

「―――現世での成功が、まやかしに過ぎないって分かったから」


 ……さて。この言葉はどう捉えるべきなのだろうか。

 雲行きが怪しくなってきた。心がにわかに騒ぎ出す。


「肉体なんてものは枷に過ぎない。魂は器に過ぎない。西洋哲学ではずっと言われてきたことだわ。プラヴァツキー夫人も、人は輪廻を繰り返して魂をよりよきものへと進化させてきた、と言っていた。全部仮のものなのよ。死は終わりでは無い。死んでしまっても、二度と会えない訳じゃ無いし、高次の世界において再会することも出来るかも知れない」


 言葉が溢れ出す。自分で発した言葉に自分で絡め取られるように、次の言葉を紡いでいく。急かされるような、あるいは自分を正当化するような強迫的なものが感じ取れた。


「―――いえ、いえ。そうじゃないの。例え生まれることが出来なかったものでも、もしかしたら次の世界なら笑い合えるかも。それは、素晴らしいことだとは思わない?思って欲しいわ、分かってくれると思う。肉体から離れた善い魂は選別される。でも肉体から離れられない魂は次の世界に行くことは出来ないのよ。どんなに良性を身に宿していても。だから―――」

「……つまり、これはどういう話をしようとしてるんだ?」

「―――話を聞いて欲しい人がいるの。とてもタメになる話よ。聞いて損することは無いと思う。私はあなたを救いたい。この世界はやがて終わる。その時、しかるべき行動を取れない人間は救われない」


 要領を得ない。

 だが、ひとついえるのは彼女は何かに僕を誘おうとしている。体育館の裏で一人、本を読んでいた人間に語りかけるように、自分の言うことを理解してくれるだろう人間に対して何かを誘おうとしている。

 沙也加の言うとおりになってしまったな、と。他人事のようにそう思った。


「ねぇ、あなた、この舎利浜に行かなかった?」

「……なんで」

「見たから。私も同じところにいたのよ。気づいてもらえなかったけど―――あなたはきっと、私があそこに居るとは思わなかったのよね。私も思わなかった。ずっと心残りだった。あなたはとてもいい人だったのに、このままじゃ救われないって。ずっと、ずっと……でも、あなたはあそこに来た。救われるべき運命と同胞が語りかけたからこうなったのよ、きっと。そういえばあの時の彼女は?あなたが行動を共にしているのだから、いい人なのでしょうね。そうだ、彼女も一緒に話を聞いてみない?そうしましょう」


 言葉が響いていく。

 彼女の溢れ出す言葉を捉えるので一杯一杯で、どう答えるべきか定まらない。

 ―――いや。答えるべきことは一つなのだ。彼女の怪しげな誘いを断って、そのまま家に帰る。連絡も断つ。それ以外にするべきことなど無い。


 無いのに。

 その行動を思い描いた瞬間、腹部が痛みだした。きゅう、と締め付けられるように。するべきこと、したいことが分裂したかのような切なさが身体を脱力させていく。


 今度は僕の天秤が揺れ動いている。

 彼女が現世での幸せと精神的な救いを天秤に掛けて、結局掛けきれなかったのと同じことだ。僕は、自分の大切な思い出を天秤に掛けて、切り捨てることが出来なかった。

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