第188話 境界の門

 空の裂け目――遥か高くから見下ろすように、その目は鶫のことをジッと見ていた。


――恐らくこれ・・は魔獣ではない。

 あの目からは、魔獣特有の人を甚振ってやろうという悪意を感じないからだ。


 けれどその存在の異常なまでの圧に、鶫は目を離すことが出来なかった。

 だがそれは鶫のことを見ているというより、鶫の中の何か・・を見ているような気もした。

……確証はないが、アレが吾妻達の言っていた岐ノ神なのだろう。


 奇妙なのは空の裂け目・・・・・から現れたという点である。あの裂け目は、どう贔屓目に見ても魔獣が出てくる時のモノと同一のものだ。

 鶫には儀式の詳細は分からないが、もしかしたらあの神は、空の裂け目のエネルギーをそのまま利用して顕現しようとしているのかもしれない。


――だが、どうしてそんなことが出来るのだろう。ほかの神様ですら、漏れ出たエネルギーを利用することしか出来ないというのに。それだけあの神様が特別ということなのだろうか。


……岐ノ神。塞ノ神。すなわちアレは境界を司る神である。

 吾妻と話した時はそこまで気にしていなかったが、なぜ黎明の星はその神を選んだのだろうか。


 空の裂け目を支配するため、境界を司る神を呼ぶ。それ自体はおかしな考えではない。

 ただ、たかが権能一つで空の裂け目を支配できるのなら、なぜ他の神様は同じことをしなかったのだろうか?

 裂け目から漏れ出るエネルギーは、神代のそれに匹敵する。そのエネルギーを、分霊を作成するだけではなく独り占めして使用しようとする神は本当にいなかったのだろうか?


 強いて言うなら天照がその立ち位置に近いが、天照は空の裂け目を完全に掌握できているわけではない。

 それに名のある神であれば、人々に新しい通説を流布して境界を司る能力を得ることくらいできそうなのだが、なぜ彼らはそれをしなかったのだろうか。

 他の神様だって、やろうと思えば境界を操る力を逸話から無理やり引き出すことだってできたはずだ。


 でも誰もそれをやらなかった。――それは境界を操る力があったとしても、空の裂け目自体には干渉できなかったからではないだろうか。


 そうして鶫が考え込んでいたその時、先ほど頭に響いた声が後ろから聞こえてきた。


『勘が良いね』『星の子とそっくり』『そういう子供は嫌い』『やっぱり馬鹿な子の方が可愛いと思う』


 鶫がバッと後ろを振りむくと、そこには大きな黒い翼をマントのようにし、悠然と貼り付けた様な笑みを浮かべるナニカがいた。


……恐らくはこれが吾妻の契約神――エリスなのだろう。

 むしろ彼らはなんでこれがネメシスだと思ったのだろうか。こんなにもあからさまに怪しい気配をしているのに。


 鶫が警戒しつつそんなことを思っていると、エリス(暫定)は不満そうな顔をして言った。


『エリスで合ってるよ』『最近の子は察しが良いね』『腹が立つくらい』『今は取り繕う必要が無くなっただけ』『黒い羽の方が格好いいでしょ?』『さっきまではちゃんとネメシスに寄せてた』


 エリスはそう言いながら、翼をパタパタと動かした。

……たしかに白より黒の方がカラスっぽくて格好いい気もするが、ナチュラルに思考を読まれるのが気にかかる。

 頭の中に語り掛けてきた時点で何となく分かっていたが、精神感応が得意なタイプの神なのだろう。この感じなら契約者を掌でコロコロ転がすのはきっと容易だったはずだ。


……どうしたものかな。鶫はそう思いながら、小さく息を吐いた。

 正直なところ、神様相手に人間つぐみが出来ることは殆どない。こうやって相対して生きていられるのも、エリスに攻撃の意思がないからだ。

 向こうがそのつもりなら、鶫はもうとっくの昔に死んでいるだろう。


 ベルから借りた杖ならばダメージを与えることも出来るかもしれないが、思考が読まれているなら攻撃を当てる事すら難しい。言ってしまえば詰みの状況である。

 鶫に出来ることといえば、大人しく救助を待つか、エリスから情報を引き出すことを試みるくらいしかない。


 鶫はちらりと空の様子を窺い、ダメ元で話を聞いてみようかと口を開いた。


「……この儀式は、本当に空の裂け目を支配する為の神を降ろすための物なんですか?」


『分かってる癖に』『違うよ』『前はそうだったろうけど』『アレがそんな可愛いものに見える?』『アレに真っ当な意思などない』『ただの機構に過ぎない』『アレは空の力に一番近しいモノ』『アレは門であり鍵でもある』『かつては侵略者の影であり尖兵でもあった』『けれど人がアレに名前を付け存在を変質させた』『ミ■ャグ■と』『故に門は閉ざされた』『この儀式はその門を開けるためのもの』『結界なんて通用しなくなる』


『そうすれば――空が裂けた時と同じ美しい景色・・・・・が見れるはずだから』


 エリスの淡々とした説明に頭がくらくらする。

 岐ノ神――ミ■ャグ■?が元々は魔獣側だったというかなり重要な情報もあったが、今それを追求しても意味が無いだろう。


 一部聞き取れないこともあったが、要約するとエリスはかつての日本――魔獣が現れ始めた頃の地獄を再現したいらしい。

 エリスが言う【門】というのは良く分からなかったが、魔法少女の隔離結界が使えなくなるのはかなり拙い。結界が使えなくなれば、魔獣と戦う際の被害は尋常じゃないほど増える。

 そうなってしまえば、きっともうこの国は立ち直ることが出来ないだろう。


 鶫は険しい顔をしてエリスに問いかけた。


「――貴女は、この国を滅ぼすつもりなのか?」


『さあ?』『それは別にどうでもいい』『でもみんなで頑張らないと滅んじゃうね』『笑う暇すらないくらい』『足掻いてみせてよ』『心ゆくまで』『血反吐を吐くほどに』『だって――その方が面白いでしょ?』


 そう楽しそうに言ったエリスに、鶫は頭を抱えたくなった。

 エリスは不和と争いを司る女神であり、血と戦争を好む。きっとエリスからしてみれば、魔法少女が現れる前の混沌とした状態の方が好ましかったのだろう。


……恐らくエリスは、その為に黎明の星の関係者である吾妻を利用した。あまりにも人の心が無い行いだ。


『君はもう帰っていいよ』『拘束も外してあげる』『能力はまだ使えないだろうけど』『呼び水・・・の役割は終わった』『もう用済み』『ばいばい』


 そうどうでも良さそうに言って、エリスは鶫の拘束を外した。……どうやら本当に帰ってもいいらしい。


 痣があった部分を確かめるように触りながら、鶫はジッと考え込むように床を見つめた。エリスの言った呼び水という言葉が気に掛かったからだ。

――そしてすぐに、鶫はそれが岐ノ神の欠片のことだと思い当たった。

 エリスは鶫を器にするためではなく、神を呼び出すための目印として此処に留まるように拘束していたのだろう。


――帰ってもいい、か。随分と簡単に言ってくれる。

 鶫とて、それが出来れば一番楽だと思っている。正直な所、こうなってくるともう黎明の星の尻拭いどころの話ではなくなってしまっているのだ。

 魔獣はともかく、神様を相手取るだなんて人間の鶫には荷が勝ち過ぎすぎている。こうして自分が契約していない神と対面で話している事すら、はっきり言って荷が重いというのに。


……これは神の召還を防げなかった自分が心配するのもどうかとは思うが、政府はどんな対処を取るつもりなのだろうか。仮にこの場にベルや政府所属の神がいたとして、エリスやあの境界の神を止めることが出来るかどうかは未知数だ。

 エリスは人間が無謀にも足掻く分には何をしても黙認しそうだが、他の神々が邪魔をするならエリスは普通に邪魔しに来るタイプだろう。

 それに、この地に満ちる岐ノ神の力は、他の神にとっても悪い影響を及ぼすはずだ。万全の状態じゃないのに、争いの神――武闘派のエリスに敵うのだろうか。


 じわり、と嫌な汗が浮かんでくる。

 事態を重く見た神々が対応に来てくれれば解決するかと思っていたのだが、もしかしたらこれは鶫が思っていたよりも危機的な状況なのかもしれない。

 もしエリスの企みが成功すれば、被害の数は三十一年前の比ではなくなるだろう。

――そんな状況になるのを、力が無いからと言って自分は黙って見ていることしか出来ないのか?


「……止める方法は無いんですか?」


『無いよ』『あとは裂け目を広げるだけ』『あ、でも』『アレを力で押し戻すか、当初の予定通り器に収めれば可能かも?』『どうする?』『やっぱり器になる?』『それはそれで面白いし』


 そんなことを軽く問いかけるエリスに、鶫は首を横に振って答えた。


「ならないですよ。――アレをこの身に収めてしまったら、それはもう俺ではなくなってしまう気がするから」


 きっと少し前の自分なら、それで大切な人達が助かるならと自分を犠牲にしていただろう。未だに心の中からは器になった方が合理的じゃないか?という声も聞こえてくるが、鶫が鶫である以上、それを選ぶことは出来ない。たとえ政府に命令されたとしてもだ。


――だって、千鳥に生きて帰ると約束したのだから。中身が違う偽物を千鳥の元へ返すわけにはいかない。


――けれど、何もせずにここから逃げ出すかどうかはまた別の話だ。


「俺は、世界の為に死ぬつもりなんて更々ない。……でもさ、ここで尻尾を巻いて逃げ出すのは、あまりにも格好がつかない・・・・・・・


――どうせこの思考も読まれているのだろう。

 聞こえているか、エリス。

 これから矮小な人間は神の討伐に打って出るぞ。

 別にこれは自己犠牲の精神や、大火災の責任を取りたいからじゃない。

 ここで何もせず無様に逃げ出すような人間は、神様ベルの契約者に相応しくないからだ。


「邪魔をするなよ、女神サマ。ちっぽけな人間のすることくらい、笑って見逃すのが粋ってやつだろう?」


 そう言って、鶫は不敵に笑った。


 それにこのまま結界を壊す神が下りてくるのを放って逃げたとしても、待っているのは絶望だけだ。だからこそ、鶫は自分の意思でここに留まると決めた。

 死ぬつもりはないが、千鳥が呼んだ助けが来るまで足掻くのがせめてもの礼儀というものだろう。


――エリスが動き出す前に、あの目玉を可能な限り押し戻す。それが鶫に出来る精一杯だ。


 さあ自分の手札を確認しろ。この場で出来ることは本当に無いのか? 奥の手が無いなら作り出せ。無様に俯くな。冷静に相手を観察しろ。きっと何か突破口があるはずだ。


 そうして鶫は、すっとベルから借りた杖を取り出し、その杖をエリスには向けず、祈る様に両手で握り込んだ。

 この杖は、レプリカではあるが導き・・の力を有している。どうか力を貸して欲しいと願いながら目を瞑り祈ると、パチンと指を鳴らすような音が聞こえた気がした。


 その瞬間ずきりと両眼が痛み、じわりと生理的な涙が浮かんだ。そうして思わず目を開けると――鶫の視界は一変していた。


「……赤い、いと・・


 薄汚れた大広間に漂う、沢山の赤い糸。それは、鶫が決死の覚悟で挑んだ箱根での景色によく似ていた。


 鶫の目に見える糸は、死の因果を可視化する涼音の魔眼とは違い、そのモノの命運――つまり弱点を指し示す。かなり強力な能力だが、自由意志で使えないのが最大の難点だった。


 ちらりと手に持った杖を見る。もしかしたら、ベルはこんな状況を見越してこの杖を持たせてくれたのかもしれない。


 鶫は杖を大事そうにスラックスのベルトに差し込み、自身に絡んでいた嫌な気配がする糸――能力を封じるための術式を引きちぎった。それと同時に、ずっと感じていた体の重さが消え去る。


「……糸も出るようになったし、これなら転移も出来そうだ。うん、いける」


 そうして鶫は、何処か不満そうにこちらを見るエリスに軽く手を振ると、空へと跳んだ。


――さあ、時間稼ぎを始めよう。

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