第186話 ニュクスの娘

 朝倉がぐらりと傾き、痙攣しながら床に倒れ伏したのを確認した鶫は、ベッと口に咥えていたものを吐き出した。

 ゴトリと音を立てて転がったのは、血と胃液でドロドロになった枝――ベルから借りたカドゥケウスの杖(偽)だった。


 所持品を全て剥ぎ取られたはずの鶫が何故この杖を持っていたのかというと、吾妻に襲撃を受け気絶する直前に、ポケットから零れ落ちた杖をとっさに呑みこんだ・・・・・のだ。

 そのせいか、起きてからはずっと胃がゴロゴロして気持ちが悪かった。


――だが鶫が隠し持っていたこの杖は、唯一の切り札であり、諸刃の剣でもあった。

 この杖は強力な攻撃手段だが、人間に使用すると最悪死ぬ可能性があるとベルから言われていた。


 はたして逃げる際、自分はこの杖を他人に向けることが出来るだろうか?

 そう鶫は何度も自問自答した。

 もちろん杖を相手に向ければそれだけでブラフとして使えるが、いざという時に攻撃手段として使えなければ、この杖はただの棒きれに成り果てる。故に使いどころが制限されていたのだ。


――その杖を鶫が躊躇いなく朝倉に向けて使用したのは、覚悟・・を決めたからだ。

 千鳥と二人で生きて家に帰るために、鶫は杖を使うという選択をした。此処から出るためには、手段を選んではいられなかったから。


 そうと決めた鶫は千鳥に頼み込み、自分を詰って腹を攻撃するように指示したのだ。

 それは杖を吐き出すためと、朝倉をこちらにおびき寄せて確実に攻撃を当てるためである。

 この杖は鶫しか扱えないように設定してある上に、手足を封じられているので杖を口に咥えて狙いを定めなくてはいけないので、朝倉には出来るだけ鶫の近くに来てもらう必要があったのだ。


……その際に臨場感と信憑性を出すために口の内側を噛み切って血反吐を出したが、思っていたよりも酷い見た目になってしまった。だが、演出としては良く出来たほうだろう。


――朝倉はまだ鶫に死なれる訳にはいかないので、千鳥が鶫のことを殺そうとすれば絶対に止めに来るはずだ。

 千鳥が暴れて朝倉の足止めをしている間に鶫が杖を吐き出し、近づいた朝倉を襲撃する。完璧とは言えないが、十分に勝率が高い作戦だった。


……ただ、千鳥にはこの作戦を酷く嫌がられた。

 杖のことはスタンガンのような物としか説明をしなかったが、問題はそこではなく千鳥としては鶫を蹴ること自体が受け入れがたかったらしい。

 まあ鶫としても、逆の立場だったら同じことは死んでもやりたくはないが、朝倉を油断させるためにはこの方法が一番効果的だったので何とか千鳥には納得してもらった。


 そうして作戦は実行され、朝倉を行動不能にすることに成功したのだ。


――そして不幸中の幸いなのか、杖の攻撃が当たったはずの朝倉は気絶しているだけでちゃんと心臓は動いていた。その事実に、少しだけ心が軽くなる。

 もしかしたら攻撃する際に杖に余計なモノがべたべたと付いていたせいで、出力が弱まったのかもしれない。


 そうして少しだけ肩の力を抜いた鶫は、妙な気配がしている場所――朝倉のポケットの中を検めるように千鳥にお願いをし、無事に拘束具の鍵を手に入れることに成功した。これで芋虫状態とはおさらばである。


「ふう。手足の枷は外れたけど、まだ転移は使えそうにないな。なんていうか、体の中の磁場が狂ってるような感覚がある」


 鶫が赤くなった手首を擦りながらそう言うと、千鳥が複雑そうな顔をして言った。


「私も同じような感じかな。……ねえ、鶫。たくさん血が出ていたけど本当に大丈夫なの?」


「ああ、問題ないよ。口の中を自分で切っただけだし、胃液と混ざって血の量が多く見えてるだけだから」


 口からの出血はもう止まっているし、吐くだけ吐いたら気分もスッキリした。蹴られた腹は正直まだ痛いが、流石にそれを口にするつもりはない。


「でも、可能なら服は着替えたいな……。濡れてて寒いし、動きにくいし、何より色々心許なくてヒヤヒヤする」


 そう言って鶫は自分の体を見下ろした。薄い手術着は元々吾妻に掛けられた水で湿っており、更には鶫が吐いた血で赤色が滲んで酷い有様になっている。しかも立ち上がると丈が短いので、見えてはいけない場所が見えてしまいそうだ。これは男の姿でも女の姿でも精神衛生によくない。


 着替えたいのは山々であるが、元々着ていた服は何処に持って行かれたのか分からない。それに服が見つかったとしても、恐らく着られるような状態ではないだろう。

――そうなると、此処で服を手に入れる方法は一つしかない。


鶫は小さく肩を落とすと、そっと気絶する朝倉へと歩み寄った。



◆閑話休題◆



 意識の無い朝倉からスラックスとベルト、そしてワイシャツを剥ぎ取った鶫は、躊躇いもなくそれに袖を通した。全体的にダボついているのと人肌で生暖かいことを除けば、まあ動けないこともない。

 下着を付けていないので多少擦れて痛いが、この際我儘は言っていられない。


 なお、服を剥いでいる間に千鳥からは「本当にそれ着るの? えっ、冗談じゃなくて?私のコートだったら膝までなら隠れるよ?」というありがたい意見もあったが、流石に女性の服を素肌のまま着るのは倫理的に良くないと思ったので固辞させてもらった。


「この人も携帯は持っていないみたいだし、外と連絡は取れないか……。なら、外に居る吾妻に見つからないように、この街から出る必要があるな」


「そうだね。私もあの人と鉢合わせる前にここから出た方がいいと思う。……今度は何をされるか分からないし」


 そう思案気に告げた千鳥に、鶫は同意するように頷いた。

 能力が使えない以上、吾妻が戻ってきたらこちらの分が悪い。現在誰が吾妻と対峙しているのかは分からないが、その人が足止めをしてくれている内に逃げ出すのが正解だろう。


 そうして鶫たちは足早に大広間から脱出しようとした。

 まずは千鳥が扉から出て、その後に鶫が続こうとしたのだが、突如手足を地面に縫い付けられるかのような重圧プレッシャーを感じ、その場に蹲った。


「鶫? どうしたの?」


 扉の先から、千鳥がそう声を掛けてくる。

 鶫は手を床に付けながら、静かに答えた。


「ごめん、何か・・に行動を制限されているみたいだ。俺は、……この部屋から出られないと思う」


 そうしている間にも、じわじわと手足を締め付ける圧が増えていく。まるで、鶫を台座の方まで引き戻そうとしているかのように。――枷は、もう外れているはずなのに。


 鶫が床に付いた手足をみると、枷で擦れて赤くなった手足に、赤黒い縄が巻き付いていた。

その縄は、まるで小さな子供の手が幾重にも重なったような形をしており、淡く光る台座から真っすぐに鶫へと延びている。その異常な光景に、鶫はゾッとした。


――どうやらこの部屋は、鶫を逃がすつもりがないらしい。


「何を言ってるの? だってもう手足に枷は――ひッ、そ、それは」


 鶫の視線に釣られて手足の状態を見た千鳥は、怯えたように小さく悲鳴をあげた。

 そして千鳥は戸惑いながらも縄に手を伸ばそうとしたが、鶫はそっとそれを制した。


「触らない方がいい。今は俺だけだけど、これが千鳥に移ったら困る」


「でも……!!」


「ここで共倒れになる訳にはいかない。――頼む、千鳥。ここから出て助けを呼んできてくれないか。千鳥も聞いていた通り、アイツらがしようとしている儀式はかなり危険だ。まだ儀式は実行していないとはいえ、早く専門家に対処してもらわないと酷いことになる。……下手をすれば、あの日の大火災程度じゃ済まないかもしれない」


 そう言って鶫は唇を噛んだ。

 本当であればこのまま二人で逃げ出し、政府へと儀式の危険を伝えるはずだった。だが鶫がここから出られない以上、千鳥に報告に行ってもらうしか方法がない。


 鶫がそう告げると、千鳥は泣きそうな顔になりながら言った。


「……私が鶫のこと置いていけるはずないじゃない。一緒に逃げようって約束したのに、鶫はすぐにそうやって自分のことを蔑ろにする。ずるいよ。逆の立場なら、絶対に私のことを置いていかない癖に」


「……耳が痛いな。さすが千鳥は俺のことを良く分かっていらっしゃる」


「――こんな時にふざけないで!! 私は真剣に言ってるのに!!」


 そう怒ったように言う千鳥に、鶫は肩をすくめて言った。


「なら、俺が意見を曲げないことくらい分かるだろう? 千鳥だって、この場での最善が何なのかは分かるはずだ」


 鶫がそう告げると、千鳥は悲しそうに押し黙り、グッと両手を握った。

……無理を言っていることは分かっている。別に鶫とて、好き好んで千鳥にそんな顔をさせたいわけではない。

 千鳥には何時だって笑っていてほしいし、悲しんでは欲しくない。

――ただそれは、生きていてこそ出来ることだ。


「俺のことはそこまで心配しなくても大丈夫だよ。今は一応武器もあるし、アイツらも器である俺のことを手酷く扱うことは出来ない。儀式を実行させなければ、何も問題は無いよ。――それに俺にはまだ奥の手が残っているからさ。一人で逃げ出すだけなら、ギリギリでも何とかなるから」


「奥の手って、なに?」


「ごめん。契約神に秘密にするように言われてるから何も言えないんだ。――でも、約束するよ。俺は絶対に、千鳥の元へ帰るから」


 鶫はそう告げると、静かにほほ笑んだ。

 すると千鳥はグッと何かを言いたげな顔をして、やがて小さく肩を落として言った。


「信じていいんだよね? ……ちゃんと、戻ってきてくれるよね?」


「もちろん。俺が一度だって千鳥に嘘をついたことがあるか?」


 そう鶫が言うと、千鳥は呆れたように笑った。


「沢山あるじゃない、ばか」


「……それもそうか。でも、今度は嘘じゃない。――だから、どうか俺を信じて逃げて欲しい。頼むよ」


 鶫はそう言い切ると、ジッと千鳥を見つめた。千鳥は困ったような顔をしてため息を吐くと、扉のギリギリまで近づき、鶫の目を見て言った。


「約束を破ったら、今度は絶対に許さない。……――信じてるから」


 千鳥はそう言い残すと、下に降りる階段へ向かって弾かれたように走り出した。


……あれはめちゃくちゃ怒っているなぁ、と思いながら鶫は苦笑した。あの様子だと、やはり後が怖い。――まあそれは、全部ちゃんと生きて帰れたらの話なのだが。


 手足の違和感に眉をしかめながら、ふらりと立ち上がる。どうやら部屋から出ようとしない限りは、自由に動けるらしい。


 さて、どうしたものかなと鶫が考え込んでいると、パチパチと手を叩く音が後ろから聞こえてきた。


「大した役者だ。そういう所は沙昏君とそっくりだね。――で、奥の手は本当にあるのかい?」


「――無いよ・・・そんなの。服をひん剥いて確認したんだから、アンタだってそんなの分かってるだろ。半裸の死にぞこないのジジイは黙ってジッとしてろ」


 鶫は吐き捨てるようにそう答えると、声の主――朝倉を睨みつけた。


 普通に起き上がっている所を見ると、やはり付着物がいけなかったのだろうか、杖の威力が大分弱まっていたらしい。


「……前言は撤回する。沙昏君と同じ顔でそんな事を言うのは止めてくれないか? はあ、そういう品が無い所は沙昏君とは似ても似つかないね」


 上体のみを起こした朝倉はそう不貞腐れたように言うと、やれやれと言いたげに肩をすくめた。


 鶫は冷めた目で朝倉を見ると、ゆるりとした動作で杖を向けた。


「動くなよ。下手な動きをすれば次は殺す」


「やれやれ、最近の若い子は短気で困る」


 朝倉はそう言うと、ゆっくりと両手をあげた。どうやら抵抗するつもりはないらしい。


「言っておくけど、俺はこんな儀式に賛同するつもりはない。いくら建前は立派だったとしても、こんな風に多くの人を犠牲にするやり方が正しいとは俺は思えない」


「まあそうだろうね。私もそう思うよ。――でも、それが何だっていうんだい? 蘇芳君が望み、ネメシスが肯定した。何の問題もあるまい」


 悪びれずに朝倉はそう言った。

 そんな朝倉に、鶫はずっと思っていた疑問をぶつけた。


「吾妻に話を聞いた時から不思議だったんだが、本当にネメシスがアンタ達の行いを肯定したのか?」


「そうだとも。この儀式の知識を補完してくれたのもネメシス様だ。かの女神は、我々に進んで協力してくれた。政府から情報を得ることが出来たのも、全部かの女神のおかげさ」


 堂々とそう言い放った朝倉に、鶫は内心首を傾げた。

彼らの話を聞く度に、かの女神とやらが鶫の中のネメシスのイメージから乖離していくからだ。


「儀式の時間が夜からなのも、半分は天照への対策だが、もう半分はネメシス様からの提言でね。この儀式自体がかの女神の影響下であるという事もあり、母である夜の女神ニュクスの管轄である夜になってから儀式をした方がいいと言われたんだ。理に適っているだろう?」


「……ふうん、ニュクスね。で、あんたはそのネメシスの姿を見たことはあるのか?」


 鶫がそう問いかけると、朝倉はさも当然のように頷いて言った。


「ああ。逸話に残っている通り、美しい翼・・・・を持つ女神だったよ」


 その朝倉の言葉を聞いた瞬間、鶫は吾妻の背後に見えた影を思い出した。今にして思えば、あれからも鳥の翼のような造形が見えた気がする。


――翼を持つギリシャの女神か。

 朝倉の言う通り、ネメシスは有翼の女性神だ。その形を取るのは別におかしくない。

……だが、そうなってくるとどうしても無視できない要素が存在してくる。そんな事、普通の大人・・であれば分かるはずなのに。


 そうして、鶫はふと思い出したように告げた。


「――ああそうか。朝倉先生は、義務教育・・・・を受けていないのか」


 鶫はそう合点がいったように頷いた。


「どういう意味だい? 煽りにしては些かお粗末に聞こえるが……」


 朝倉が怪訝そうにそう問いかけた。それに鶫は小さく首を横に振ると、静かな声で答えた。


「そうじゃないよ、朝倉先生。アンタの子供の頃と、俺たちの時代では習っている内容・・が違うんだ。――だからこれは、アンタが気付けなくても仕方がないと思う」


 鶫はそう答えると、やや顔を青くしながら口を開いた。


「俺たちの時代――魔法少女が現れてからは、義務教育で各国の神話を詳しく習うようになった。だからこれは、四十歳以下の人間なら誰でも知っている常識なんだよ。……なあ、先生。俺の教わった限りでは、ネメシスはこんな計画に加担するようなタイプの神様じゃない。だからずっと不思議だったんだ。でも、アンタの説明でようやく分かったよ」


「……待ってくれ。君は何が言いたいんだい?」


夜の女神ニュクスの系譜。有翼の女神。血を好む残虐さ。そしてあえて義憤の女神を騙る悪辣さ。普通なら、これだけの情報があれば別の答えが出てくる」


――ニュクスの娘にはもう一柱、有翼の女神として逸話が残っている神がいる。

 黄金の林檎を投げ込み、女神たちを競わせてトロイア戦争を引き起こした元凶であり、決して人類の味方にはならざる権能を司る女神。


「――吾妻の契約している神は、ネメシスなんかじゃない。恐らくは不和と争い・・・・・の神、エリスだ」

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