第182話 夢の終わり
――ネメシスとは、ギリシャ神話における神罰の執行者である。
一般的な感覚で言えば、正義側の立ち位置に居る存在だ。故に、そのネメシスが吾妻の計画に賛同しているというのは、あまりにも違和感があった。
ネメシスの断罪は、主に神を軽んじる傲慢な人間に下される。つまりネメシスの在り方は、神を降ろし、操ろうとする吾妻の行いそのものと真逆のものになるはずだ。
……この矛盾は、一体どういうことなのだろうか。
「さて、そろそろ日が落ちるかな? そうしたら儀式を始めるから。――本当はさっさと始めたかったけど、天照の力が強いうちは失敗しやすいからね。ま、残り少ない人生がちょっと延びて良かったんじゃないの」
吾妻はそんな風に皮肉を言うと、鶫が置かれている台座からひらりと降り、台座の端を軽く指でなぞった。
するとバッと広がるように黒い影が走り、台座に刻まれた文様の詳細がはっきりと見えるようになった。……吾妻の持つ影のスキルを使ったのだろうか?
そうして台座の中心――鶫の置かれている場所を囲むようにして現れたのは、梵字とルーンをごちゃ混ぜにしたような文様が描かれた魔法陣だった。
それは見ているだけで禍々しく、ぞわぞわとした不思議な感覚が浮かび上がってくる。
――けれど、何故だろうか。奇妙な親近感と、郷愁にも似た懐かしさを同時に感じるような
気がする。まあ、恐らくはすべて勘違いなのだろうけど。
「この台座はね、朝倉先生が言うには、元々降ろす予定だった神様に所縁が深い岩を砕いて混ぜ込んでるらしいよ。そしてこの文様には、神を器に封じ込め、制御する術式が刻まれているんだって。アンタの実のお姉ちゃんが残した遺産みたいなものかな? あの大火災でも焦げ跡一つ付いてないし、霊験だけは確かなんじゃない?」
吾妻は世間話をするようにそう告げると、自身の影から赤い色の砂が入った瓶を取り出し、その砂をサラサラと文様の溝に注いでいった。
砂はまるで流れる水のように流れていき、やがて魔法陣の全てに行き渡っていく。
傍から見ると美しい光景だが、鶫はそれに何故か嫌な気配を感じ取った。
その瞬間、鶫は砂から香るツンとした鉄錆の匂いに気付いてしまった。
――ああ、命が流れていく。
決して元に戻ることのない、不可逆の流れ。文様に吸い込まれるようにして光るその赤色一一被害者たちの無念は、狂おしい程にキラキラと綺麗に輝いていた。
……吾妻は自身の行いを正しいことだと言ったが、そんなのは絶対に間違っている。誰かを傷つけて得る結果など、所詮はまがい物に過ぎないというのに。
「これでよし、と。本来だったら狙った神様を呼び込むために、儀式として祝詞とか色々と面倒な手順を踏まなきゃいけないらしいけど、今回は省略できるから楽でいいよねぇ。まあ、それも十一年前の祝福みたいなものだけど」
「……祝福?」
「そ。アンタらにとっては、祝福と言うよりも呪いに近いだろうけどね」
吾妻はそう言うと、鶫の方を見て笑った。
「疑問に思ったことはない? 私とアンタと、そしてアンタの姉。あの日、大火災から逃げのびた子供たちは、みんな【転移】に関係する能力を得ている。転移のスキルは魔法少女全体からみてもかなりレアなのに、不思議だよね。ま、普通は考えないか。自分たちに
そうして吾妻は、暇つぶしのついでとばかりに言葉を続けた。
「あの日、呼び出されたけど器に入ることが出来ずに零れた岐ノ神の欠片は、無辜の民を焼き、神の力に触れた器――魔法少女の適性のある者に
……確かに言われてみればそうである。
千鳥が転移のスキルを手に入れた時は、まだ血が繋がっていると思っていたので、姉弟はそんな所も似るのだなと考えていた。
――境界とはすなわち、別の次元を遮る/繋ぐものを意味する。その恩恵があるとすれば、転移のスキルを授かりやすかったという説明も納得がいく。
……そして神の力の影響を受けていたとすると、あの大火災の中で火傷一つ負わなかったこともそれに関係しているのかもしれない。
「もしかして、あの日千鳥と俺が炎に焼かれずに逃げることが出来たのは……」
「毒蛇が自分の毒で死なないように、神の欠片を取り込んだ人間は神の力に耐性ができてたってこと。……まあ、普通はそれでも多少は怪我を負う筈なんだけどね。アンタの姉の場合は、欠片を誰よりも多く取り込んだアンタが側にいたから無傷だったんだろうけど。……私はそこそこ火傷したっていうのに、ホント人生って不公平だよねぇ」
そう吾妻は嘯く様に言ったが、鶫としては急に聞かされたことばかりで混乱する気持ちの方が強かった。
――神の欠片が自分の中にある。そんな自覚は一切無かったが、そう言われると今までの疑問の答えも少しだけ見えてくる。
――なるほど。彼らは俺を器としてだけではなく、以前と同じ神を呼び込むための目印として扱うつもりなのか。
それなら確かに儀式の省略にもなるだろうし、理に適っている。まあ、それに粛々と従うかどうかはまた別の話だが。
どんなに鶫が神の器に相応しかったとしても、その本人が儀式を否定しているのだから何の意味もない。失敗が目に見えているのに、むざむざ殺されに行くつもりは鶫にはさらさらなかった。
――日が完全に落ちるまで、あと一時間程度。それまでに何とか儀式を止めなければ、この街を中心に大きな被害がでる。
どうにか縄から抜け出せないかと軽く身じろぎをすると、それを咎めるように吾妻は鶫の頬を足元から出した影で叩いた。
「ジッとしてろって言ったよね? この際だからはっきり言うけど、七瀬千鳥はアンタの予備として連れてきてるの。――つまりアンタが大人しく器になれば、大好きなお姉ちゃんは五体満足で解放されるってわけ。その辺のことをよく考えた方がいいよ」
吾妻にそういって釘を刺すように告げられ、鶫は唇を噛んだ。
……一応、この状況を打開する奥の手が無いことはないのだが、中々使いどころが難しいのだ。少なくとも、吾妻の目がある内は厳しいだろう。
それにしても、と鶫は思う。
自分の中に神の欠片があるなんて考えたことも無かった。……いや、よくよく考えれば箱根でのラドン戦後に入院した際、魂が何かに覆われているとベルに言われたことがあったが、もしかしたらそのせいで欠片が見えなかったのだろうか。
何にせよ、自分の体がどうなっているのか鶫自身にもさっぱり分からない。
それなのに、
吾妻はその神を岐ノ神と言っていた。
峠や分かれ道を司る神――安直に考えれば猿田彦神が当てはまるが、何となく違う気もする。
あと境界を司る神としては、ローマ神話のテルヌミスや日本の道祖神全般が挙げられるが、それだと吾妻たちの目的を考えると、少し権能の方向性が違うようにも思える。
上手くは言えないが、あの天の裂け目を制御下に置くのであれば、降りてくる前の魔獣のように明確なカタチや意思を持たぬモノ――ミ■ャグ■様などが干渉するのが相応しいのではないだろうか。
「――~~ッ、ぐッ!?」
鶫がそう考えた瞬間、バットで殴られたかのようにガンガンと頭が痛み出した。それに呼応するように、ぐるぐると内腑がかき混ぜられるような吐き気が増してくる。
悲鳴を押し殺しながらジッとしている内に痛みは引いてきたが、急な激痛に混乱する。
……もしかして、吾妻に殴らせた際に脳にダメージでも負ってしまったのだろうか。
そうなってくると、なんとか拘束から抜け出したとしても普段の様なパフォーマンスを発揮できるかどうか分からない。そんな状態で万全の吾妻から逃げきることが出来るだろうか。
どうしたものかと鶫が考え込んでいると、ギィと大広間の扉が開く音が聞こえた。
軽く体をひねりながら、扉の方を覗き込む。
すると、神主の様な服を身に纏った朝倉と、朝に見たままの姿をした千鳥が中に入ってきた。
千鳥は両手を手錠のような物で拘束されており、首には何か武骨なベルトの様なものが付けられている。その表情は困惑と恐怖の色が浮かんでおり、体は小さく震えていた。
……鶫のように丸裸にされなかっただけ少しマシなのかもしれないが、顔色の悪さと相まって酷い有様だった。
「あれ? その子もこっちに連れてきたの? 念のため予備は最後まで取っておきたいし、逃げられたら困るんだけど」
「
「ふうん。流石の先生も、友人のお孫さんには優しいんだね。あ、ごめん。もう友人じゃないか!」
そう言ってあはは、と軽やかに笑った吾妻に対し、朝倉は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
――バクバクと、心臓が大きく音を立てる。
千鳥の様子もそうだが、今の状況が最悪だった。……先ほどの挑発は、あくまでも千鳥が此処に来ないことが前提の話だったのに。
吾妻は千鳥のことを予備だと言っていたので、千鳥は儀式の影響が及ばない場所に隠されているのだとばかり思っていたのだ。
……万一の予備を必要としないほどに、彼らは儀式の成功を確信しているのだろうか。
だが千鳥がここに居る限り、鶫は一人だけでは逃げ出すことが出来ない。下手をすれば、鶫が逃げればそのままスライドで千鳥を生贄にする可能性があるからだ。
そうなってしまうと、交渉や救助を待つ時間すらなくなってしまう。
はっきり言って、鶫はこの場所に千鳥を置いたまま逃げるつもりはさらさらない。
たとえ単独での脱出が最善だったとしても、鶫には到底それを選ぶことが出来なかった。
……鶫としては、たとえどんな手段をとろうと千鳥だけはこの場から逃がす覚悟があるのだが、問題は
――はたして千鳥は、どんな説明を受けてここに来たのだろうか。
それによっては話すら聞いてくれない可能性がある。
たとえ千鳥がどんな話を聞かされていようと、それによって鶫/葉隠桜に対し何を思おうと、それは千鳥の自由だ。
今更言い訳をするつもりはないし、許してほしいと言うつもりもない。
記憶を取り戻した時から、千鳥が真実を知った際には、どんな咎めも受け入れるつもりで過ごしてきた。
――だが、それは
今の最優先事項は、儀式の中止及び千鳥の安全確保だ。どんなに千鳥に詰られたとしても、それを譲るつもりはなかった。
そんな鶫の葛藤が透けて見えたのか、吾妻はニヤリと笑って朝倉に問いかけた。
「その子になんて説明してこの場に連れてきたの? 可愛い弟ちゃんが魔法少女(笑)やってるって話してあげた? あっ、そういえばお母さんのこともあったね!」
すると朝倉は千鳥の方をちらりと見た後、苦笑して言った。
「――話したよ、
その朝倉の言葉に、鶫はスッと頭が冷えていくのを感じていた。
どうしても千鳥の方を見ることが出来ず、俯きながら小さく息を吐き出す。
――鶫の心臓は早鐘のように脈打っていたが、心は不思議と凪いでいた。
やっぱり話してたんだ、という諦めの気持ちと、あーあこれで終わりなんだな、という物悲しさ。
――過去のことを思い出してから、ずっと覚悟はしていた。
……真実を明かすことを先延ばしにしてしまっていたのは、全部鶫のエゴだ。ただ側に居たかったから、ずっと何も言えなかった。言ってしまえば終わりだと分かっていたから。
もし自分が千鳥の立場だったなら、十年以上にも渡って自分を騙し続けていた、しかも母親の仇だなんて許せるはずもない。むしろ酷い裏切りだと怒り狂っていたかもしれない。
「ねえ、知られたくなかったこと全部知られちゃったみたいだけど、今どんな気持ち?」
俯く鶫を覗き込むように、吾妻がそう問いかけた。……本当に、性格の悪い女だ。
鶫はハッと自嘲するように笑い、吐き出すように言った。
「――……この世の終わりみたいな気分だよ」
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