第169話 青い宝石
「ただの散歩にそう目くじらを立てるでない。妾は悲しいぞ」
よよよ、とわざとらしく泣き真似をするフレイヤに、鶫は困惑した顔で言った。
「幼い子供をこんな時間まで連れまわすなんて駄目ですよ。夢路さんは成長期なんだから、夜はしっかり眠らせてあげないと」
こんな時間に子供が出歩いていたら、夢路の親御さんだって心配するだろう。
それに加え、あまりこの光景を他の人間に見られたくはない。深夜の路地に、男子高校生とパジャマ姿の女の子が一人。……その構図だけで事案の匂いがする。
「此奴の言うとおりだ。さっさと消え去れこの淫婦が」
続いてベルがそう嫌そうに告げると、フレイヤはさも不満ですと言いたげに口を尖らせた。
「ふん、この妾がわざわざ会いに来てやったというのに、貴様らなんだその態度は。無礼にも程があるぞ」
「……もしかして、何かあったんですか?」
鶫は、もしかして何か大変なことが起こったのかと思いそう問いかけると、フレイヤは近くにあったベンチにゆったりと腰かけながら口を開いた。
「昔なじみの友から、お主にと預かっている物があってな。それをわざわざ妾が渡しに来てやったのだ。感謝するがいい」
「――預かっている物だと?」
煽るようにそう言ったフレイヤに、ピクリと不機嫌そうにベルの眉が動く。
ベルは基本的に他の神のことが嫌いなので、契約者――鶫にちょっかいを出されるといつも烈火のごとく怒りだすのだ。
鶫としては、ベルのその対応は大切にされているみたいでちょっとした嬉しさもあるのだが、フレイヤとは浅からぬ繋がりがあるので、下手な対応をするわけにもいかない。
「まあまあ、落ち着いてよベル様。せっかく用があって来てくれたんだからさ、とりあえず話くらいはちゃんと聞こうよ」
そう言って鶫はベルを宥めようとするが、クスクスと笑いながらこの状況を楽しんでいるフレイヤにそれを邪魔される。
「おやおや、この有様ではどちらが飼い主なのか分からぬなぁ? 妾が黒い毛皮に似合いの可愛いピンクの首輪でも用意してやろうかえ?」
「……ほう。貴様、どうやら余程死にたいようだな」
辺りにピリピリと肌を刺す殺気が走り、一発触発の空気になりかけた瞬間、二柱の間に入るように体を滑り込ませて鶫が叫ぶように言った。
「こんな往来で喧嘩しないでくださいよ!! フレイヤ様も、ベル様をからかって遊ぶのはやめて下さい。ベル様だって、今度暴れたら謹慎だけじゃ済まないかもしれないんだから気を付けないと……」
全て紛うことなき鶫の本心である。それにこんな場所で大怪獣対戦神様Verを始めようとするのは本当に勘弁してほしい。
……ちなみにこれは鶫の経験則なのだが、神様というのは基本的に煽り耐性が低い。しかも、力が強い神様ほどその傾向が強いのだ。プライドが高すぎるのも考え物である。
その後鶫はなんとか二柱を宥めつつ、フレイヤに続きを話すよう促した。……なんだか、もうすでにドッと疲れたような気がする。
「ふむ、致し方あるまい。――して、預り物の話だったな」
フレイヤはそう言って勿体付けるように鶫を見ると、目を細めて笑いながらこう告げた。
「七瀬鶫――お主、厄介な奴に好かれておるな」
「……はい?」
急な台詞にぽかんとする鶫を尻目に、フレイヤはどこからか小さな黒い箱を取り出してこう言った。
「妾の友は恥ずかしがり屋でな。人に姿を見せることを良しとせんのだ。――あやつが言うには『君の為に用意した。是非とも有効的に使ってほしい』とのことだ。まあ好きに使うといい」
そしてフレイヤはその黒い箱を鶫に手渡すと、一仕事を終えたかのように伸びをした。どうやら本当にこの為だけに家を抜け出してきたらしい。
鶫は困惑しながらその箱を開けると、そこには赤い模様が炎のように揺らめいている青い石が入っていた。
全体の色味としては、淡いサファイアのようにも見える。大きさは、五百円玉より一回り大きいくらいだろうか。……もしこれが本物の宝石だとしたら、とんでもない価値があるんじゃないだろうか。
「その、有効的に使えって言われても、こんな高そうな物を俺にどうしろと……?」
鶫は怯えるようにそう言って、青い宝石を見つめた。根が小市民なためか、急に高価なものを持つと手が震えてしまう。
鶫が身動きを取れずに硬直していると、横からベルが黒い箱の中を覗き込んできた。
「なんだ、ただの貢ぎ物か。ふむ、自らの名を出さぬあたり殊勝な心掛けだな」
「いや、むしろ匿名が一番困るんだけど……」
鶫がそう言って慎重な手つきで箱を抱えなおすと、フレイヤはクスクスと楽しげに笑いながら言った。
「喜んでくれたようで何より。あやつには、お主がきちんと受け取ったと報告しておこう」
そうしてフレイヤは踵を返しそのまま鶫たちの前から去ろうとしたが、ふと振り返り、囁く様に口を開いた。
「――何やら星の巡りが
そして鶫がその言葉の意味を問う前に、フレイヤは揺らぐ炎のようにその場から消え去った。
その背を見送った鶫は行く当てのない伸ばした手を引っ込めると、ため息を吐いて黒い箱を見つめた。
今まで葉隠桜宛に様々な贈り物が届いてきたが、ここまで扱いに困るものは無かった気がする。
……いや、よくよく考えてみれば車や家の権利書など対応に困るものも多々あったが、そちらは正規の手続きを取って丁重に贈り主に返品したので、特に問題は無かったのだ。
だがこの宝石は匿名かつ、持ってきたのがあのフレイヤということもあり、簡単には返却できそうもない。つまり、この宝石はこのまま鶫が保管するしか道がないということになる。
「別に贈り物が嫌って訳じゃないんだけど、何だって俺なんかにこんな物を……」
まさに猫に小判状態である。
鶫は諦めたようにそっと青い宝石を手に取ると、それを頭上に見える星にそっと重ねた。星の淡い光が石の中でキラキラと輝き、動かすたびに赤い模様が揺らめく。まるで素晴らしい絵画を見ているがごとく、目を離せなくなる魅力がある。
「おい、どうかしたのか? 少し貸してみろ」
無言のまま惚けている鶫を不審に思ったのか、そう言ってベルは鶫から宝石を奪い、ひょいっと宝石を浮かせて目の前でくるくると回した。
「ふん、どうやら呪いなどは掛かっていないようだな。まあ、お前が気に入ったなら適当に部屋にでも飾っておけばいいだろう」
「それはそれで勿体ない気もするけど、使い道も無いしね……」
「役に立たん物を寄越す方が悪い。ほら、受け取れ」
そうして一通りの見極めを終えたベルが、ぽいっと宝石を鶫に向かって放り投げた。地面に落とさないように、慌てながらそれを必死で掴む。
「わっ、急に危ないって! 割れたりなんかしたら大変なことに――」
鶫がそう抗議の声を上げた瞬間、手のひらの中に黒い影が現れた。
その影――黒い獣の口はグワッと大きく口を開くと、そのまま鶫の手の中にある宝石を飲み込んだ。そう、
急に軽くなった手のひらを呆然と見つめながら、鶫はドッと全身から冷や汗が出てくるのを感じた。無言で手を逆さにして振ってみるものの、何も出てくる気配がない。
鶫が顔を青くしながら縋るようにベルを見上げると、ベルは気まずそうにそっと目を逸らして言った。
「……良かったではないか、保管する手間が省けて」
「ま、まって、見捨てないで。いま、なにがどうなったんだ……!?」
石が消えたこともそうだが、魔獣と戦ったわけでもないのにいきなり
「チッ、
不機嫌そうなベル曰く、狩りの女神の矢除けの加護や、海の神の水中呼吸能力など、そのスキルが契約している神様の権能に深く結びついている場合などは、結界の外でもスキルが発動することがたまにあるらしい。もしかしたら、宝石が飴みたいで美味しそうに見えたのかもしれない。
本来であれば契約神との結びつきが強くなったと喜ぶべきところなのだが、なんでよりによってこのタイミングなのだろうか。
「……これって、もう一回外に出すことってできないのかな」
鶫がそう問いかけると、ベルは首を横に振って言った。
「無理だな。――それに一度口にしたものを吐き出すなど、あまりにも品がないだろう」
それを聞いた瞬間、鶫はがっくりと肩を落とした。暴食のスキルはベルと深く結びついている。それはつまり、ベルの考え方に大きく左右されるということだ。
宝石のことは置いておいて、ベルがそういった考え方をしている以上、あの宝石が鶫の手元に戻ることはまずないだろう。
「今のところ体に変化はないけど、あんなの食べて大丈夫なのかな……」
「問題はあるまい。何かしらの微弱な力は感じたが、基本的にはただの石ころだ。ただ、」
そう言ってベルは考え込むように首を傾げ、ぽつりと呟くように言った。
「あの石……どこかで見たような波長をしていた気もするが。気のせいか?」
「すぐそうやって不安になることを言う……。本当に大丈夫なんだよな?」
鶫がそう渋い顔をして問いかけると、ベルは拗ねたように鼻を鳴らして答えた。
「あの不快なスキルが我の影響を受けている以上、喰って腹を壊すようなものは口にしないはずだ。それともお前は、我が毒も薬も理解できぬ節操のない悪食だとでも言うつもりか?」
……ベルにそんな風に言われてしまうと、こちらとしてはこれ以上何も言えない。
少し不安なことには変わりないが、ベルのことを信じるしかないだろう。
――その後数日間、暫く様子を見たが、幸いなことに鶫の体調に変化はなかった。
こうしてフレイヤから受け取った綺麗な青い宝石のことは、徐々に鶫の記憶から消えていったのだ。
――その宝石の贈り主が
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