第167話 虹の色彩

 涼音の病室の前にたどり着いた鶫は、廊下の長椅子に誰かが座っていることに気付いた。そこに居る男の憔悴した顔を見て、思わずびくりと肩を揺らす。


「——祈更先生」


 鶫の控えめなその声に、床を見つめていた祈更がゆっくりと顔を上げた。

 そして鶫を複雑そうな顔で見た後、静かに口を開いた。


「そう構えるな。警察の聴取が始まる前に、緋衣のやつから大体の話は聞いた。……確かに腹は立っているが、それはお前に対してじゃない」


 祈更は苛立ちを抑えるかのように長く息を吐くと、手を祈る様に組んで言った。


「俺はあいつが何か悩んでいることに気付いていたのに、それを相談すらしてもらえない自分の愚かさ加減に腹が立っているだけだ。……相談相手に俺じゃなくお前を選んだのは正直かなりムカつくが、それとこれはまた別だろう」


 そう内心を吐露するように言われ、鶫は何を言えばいいのか分からなくなった。

 鶫からしてみれば、祈更が涼音のことを大切に扱っているのは傍からも見て分かる。だが残念なことに普段の言動が少しキツいせいか、相談相手としてはあまり向いていないと涼音に判断されたのだろう。

 もしくは普段から迷惑をかけているので、些細なことで心配をかけたくないという気持ちがあったのかもしれないが、それも悲しいすれ違いである。


 鶫は重苦しくなった空気を感じながら、疑問に思っていたことを問いかけた。


「涼音先生がいなくなった時、俺に連絡をしなかったのは何故ですか? 祈更先生は、涼音先生と会っていたのが俺だと知っていたのに」


「なんだ、疑ってほしかったのか?」


「いえ、純粋な疑問です。俺が先生の立場だったら、何か知らないかって電話で聞くと思ったので」


 鶫がそう言うと、祈更はつまらなそうな顔をして口を開いた。


「――絶対にお前が関わっていないという確信があったからだ」


「え?」


「もぬけの殻になった指導室に入った時、果実がドロドロに腐ったような醜悪な臭いがした。上手く説明できないが、俺はそれを認識した瞬間、これは人間の仕業ではないと確信した。それに昨日の放課後にお前に会った時にはそんな臭いはしなかったからな。だから涼音の失踪とは無関係だと判断した。これで理解できたか?」


「……はい、何となく分りました」


 そんな祈更の説明に、なるほどと思いながら鶫は頷いた。

 前にも言ったと思うが、祈更は直感が異常に鋭い。それは恐らく、五感――主に嗅覚で得た情報を精査する精度が異常に高いのだと思われる。ある意味、これも異能と呼んでもいいのかもしれない。


 けれど、祈更に疑われていなかった事については少しだけホッとした。状況証拠だけで考えると、一番怪しいのは自分だと良く分かっていたから。


 鶫は病室の扉をちらりと見て、躊躇いながらも祈更に問いかけた。


「涼音先生は、まだ目覚めてないんですよね。……怪我は軽いと聞いていたんですけど、本当に大丈夫なんでしょうか」


 鶫は心配するようにそう言った。

 怪我自体は酷くはないと緋衣が言っていた。だが本当の問題は、猟奇犯罪に巻き込まれたことによる心の傷だ。

 他の被害者は犯行時の出来事を覚えていないらしいが、たとえ涼音に記憶がなかったとしても、目を一つ失ったというショックは計り知れない。涼音の不安定さを知っている鶫は、それだけが心配だった。


 すると祈更は、ジッと鶫を見据えていった。


「――あまり涼音渚を嘗めるな・・・・よ。あいつはこの程度のことで折れるような女じゃない」


 それは、あまりにも確信に満ちた声だった。十数年来の幼馴染がそう言うのだから、鶫としてはそれを信じるしかない。きっと祈更は、鶫の知らない涼音の強さを沢山知っているのだろう。


……だがそれとは別に祈更には聞きたいことがあった。むしろ、鶫としてはずっと疑問だったのだ。


 鶫は心底不思議です、という表情をしながら祈更に問いかけた。


「祈更先生って、なんでそれで涼音先生と付き合ってないんですか?」


「……うるさい。大人には色々あるんだよ」


 そう言ってかなり強めに脛を蹴られた。思わず悲鳴が出そうなくらいには痛い。

 痛みでその場にしゃがみ込んだ鶫が抗議の目で祈更を見ると、祈更は憮然とした顔をして立ち上がり口を開いた。


「俺はこれから医者の所に話を聞きに行ってくるから、病室には好きに入ればいい。ただ、無理に起こそうとはするなよ。相手は怪我人なんだからな」


「はいはい、分かりましたよ……」


 逃げたな、と鶫は思ったが口には出さないでおく。今度は照れ隠しでは済まないと思ったからだ。


 それだけ告げて去っていく祈更を見つつ、鶫は痛みを逃がすように小さく息を吐いた。

 多少やぶ蛇だった部分はあるが、思っていたよりも祈更が冷静で安心した。


……だが上手く隠してはいたが、祈更の目の奥には深い怒りが滲んでいたようにも思える。それはやり場のない怒りのようにも見えた。


――きっと、何もかもが許せないのだろう。

 涼音が傷を負ったことも、犯人が捕まらないことも、肝心な時に側にいてやれなかった自分のことも、全て。


 せめて犯人が人間だったならまだ怒りのやり場もあったのに、災害カミ相手ではまともな刑罰を要求することすらできない。被害者側からすれば、たまったものではないだろう。


 そこまで考えて、鶫はかぶりを振った。今は、涼音を見舞うためにここに居るのだ。暗いことばかりを考えていても仕方がない。


「……よし、行くか」


 両手で軽く頬を叩き、気持ちを切り替える。

 そして少しばかり緊張しながら、病室の扉を開けた。


「失礼します。――ん?」


――扉を開けた瞬間、ふわりと花の香りがした。

 芳醇な薔薇のような、もしくは凛と咲く百合のような濃密な香り。鶫は最初、見舞客が花でも置いていったのかと思ったが、よく考えてみれば面会が許可されていない状況で見舞いの花が病室に置いてあるはずもない。


 鶫が不思議に思いながらも病室に足を踏み入れると、そこで見た光景に思わず息をのんだ。


――開け放たれた窓と、風と共に舞い込む薄い藤色の花びら。そして白い入院着を身に纏った涼音が、上体を起こしながら覚束ない手で頭に巻かれた包帯を外そうとしていたのだ。


「せ、先生!? 目が覚めたんですか!?」


 そう声を上げながらベッドに駆け寄り、包帯を外そうとする涼音の手を掴む。


「駄目ですよ、包帯を外しちゃ。怪我をしてるんですから……」


 震える声でそう言った鶫を、涼音はだらりと垂れた包帯の隙間から、残った左目で見つめた。

 焦点の合わない瞳が、じわじわと光を取り戻していく。


「……ななせくん?」


「はい、貴女の教え子の七瀬です。――すぐにお医者さんを呼ぶので、ちょっと待って下さいね」


 鶫は言い聞かせるように優しくそう言いつつ、近くにあるはずの呼び出しボタンを探した。涼音の目が覚めた以上、きちんと医者の説明と診断を受けた方がいいと思ったからだ。


 もしかしたら包帯だって邪魔だから外そうと思っただけで、涼音は右目が無いことに気が付いていないのかもしれない。今は取り乱しもせずぼんやりしているようだが、そうなるとむやみに刺激するわけにもいかない。

 どうしてこんな大事な時に祈更は席を外しているのだろうか。······まあ、それは半分くらい鶫のせいなのだが。


 そしてようやく見つけた呼び出しボタンに手を伸ばしたその時、それを遮るように涼音に顔を両手で挟まれた。そしてそのままグイッと顔を引っ張られ、強制的に目が合わせられる。


「す、涼音先生?」


「――やっぱり見えない・・・・


 涼音はそうぽつりと呟き、そろりと右手で鶫の頬を撫でた。

 涼音の急な行動に鶫が固まっていると、涼音は何度も確かめるように鶫に触れ、泣きそうな顔で笑った。


「これからは、七瀬君の顔もちゃんと普通に見える・・・のね」


「それは、まさか……」


 鶫は別に察しが悪いわけじゃない。だから、涼音が何を言わんとしているのかちゃんと理解できた。


――見えないけど、見える。

 それは失った右目のことではなく、涼音の視界のことだ。

 今の涼音は、恐らく赤い糸・・・が見えていない。


 涼音が毎日のように見えると言っていた、鶫に絡みつく赤い糸。この一年、ずっと消えることなく纏わりついていたその糸が見えないという事は、恐らく涼音の異能が使えなくなったことを示している。


 それに気づいた時、鶫は思わず涼音の手を握りしめていた。


 涼音の魔眼の力は、魂に深く結びついている。それ故にたとえ両目を潰したとしても、やがて糸だけが見えるようになるという、涼音にとっては地獄みたいな仕様をしていた。

 そして涼音は元々両目で糸を認識していたので、右目が無くなったとしても左目ではそのまま糸が見えるはずなのだ。――本来であれば。


 何故とか、どうしてだとか、そんなことはどうでもいい。たとえそれが一時的なものだったとしても構わない。

 短い間ながらも涼音の苦悩に付き合ってきた鶫は、その奇跡をただ受け入れた。


「……赤い糸が無い方が、ずっと格好よく見えるでしょう?」


 そんな鶫のおどけた言葉に笑って頷いた涼音が、堰を切ったかのようにボロボロと涙を流し始めた。

 傷に響くから、なんて言うに言えず鶫が右往左往していると、バラバラだった包帯がついに涼音の頭から滑り落ちていった。


 するりと右目が露になり、瞼は緋衣が言っていた通り傷一つ見受けられない。だが、開かれた瞼の先にある光景は、鶫が予想していたものとは大きく異なって・・・・いた。


 本来であれば空洞になっているはずのそこには――金の虹彩を放つ義眼が嵌っていたのだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る