第7章
第165話 黄金の杯
「――最近、奇妙な夢を見るの」
そう言って鶫の担任、涼音渚はため息を吐いた。
――時は九月の下旬。
夏の暑さがようやく収まってきたとある日、涼音から呼び出された鶫は、例によって生徒指導室にやってきていた。まあ、この部屋の主である祈更がいつもいないのはご愛嬌だろう。
月に一、二回行われているこの面談は、言ってしまえばただお茶を飲みながら世間話をするだけの緩いお茶会である。
主に互いの異能――魔眼の経過報告するための集まりなので、特に変わった事がなければ話すことがなくなってしまう。だからここ数ヶ月は、もっぱら二人で菓子を食べるだけの緩い集まりになっていた。
そんな中、涼音が珍しく深刻そうな顔をして告げた言葉に、鶫は不思議そうに首を傾げた。
「奇妙な夢? へえ、どんな夢だったんですか?」
鶫がそう軽く問いかけると、涼音は少し躊躇うようにしながら口を開いた。
「ええと、上手く言えないんだけど――」
そうして涼音が語ったのは、ひどく印象的な内容の夢だった。
眠るたびに現れる猫の様な動物。その動物に導かれ、煌びやかな祭壇の様な場所へとたどり着き、そしてその先に居るモノ――靄の様な人型に、そっと金の杯に入った液体を飲むように勧められる。――そんな夢を、ほぼ毎日のように繰り返し見ているらしい。
「それは……確かに奇妙な夢ですね。ちなみにその金の杯って、何が入ってたんですか?」
「葡萄酒みたいな香りがしたから、たぶんお酒が入ってるんだと思う。なんだか怖かったから、一口も飲まなかったけど。でも……」
「でも?」
「頭では駄目だとは分かってるんだけど、あの香りを嗅いでいると、いつかその杯を飲み干してしまいそうな気がするの。それが、どうしても恐ろしくて。……ごめんなさい、こんなことを言われても困るわよね」
そう言って恥ずかしそうに俯く涼音に対し、鶫は考え込むように手を顎に当てた。
涼音の言うように夢自体はそこまで変な内容ではないが、少し不穏なものを感じる。『夢』は本来、記憶の整理をするための脳の働きだとされているが、穿った見方をすれば何らかの予知や警告といった風にも取れる。昔ならともかく、多種多様な神が蔓延るこの国でそういったオカルトを否定するのはあまりにもナンセンスだ。
……ベルがこの場に居たならば、ざっくりと涼音の様子を確認することが出来たかもしれないが、今日ベルは知人……知神?の集まりに呼ばれたとかで丸一日不在である。つくづく涼音とは縁がない。
何はともあれ、専門家による確認は必要だろう。この場合は神社仏閣、もしくはその分野に精通した契約神持ちの魔法少女に見てもらった方が確実だと思われる。
そう考えた鶫は、小さく頷いてから口を開いた。
「確かに先生の考えすぎかもしれないですけど、念のため詳しく調べた方がいいと思います。そうだ、前に涼音先生が言っていた神社関係の親戚の所に行ってみるのはどうですか? もしくは夢は体の不調の暗示という可能性もあるので、一度病院で検査してもらうのもアリですけど」
鶫が真剣に告げると、涼音は少し驚いたような顔をして鶫を見つめた。
「……でも、大げさだって言われないかしら」
「その時はその時ですよ。専門家がそう言うからには、何も問題ないってことでしょう? もしそれでも気になるようなら、見てもらう時に『面倒な教え子が専門家に確認してもらえと煩いから仕方なく来た』って言えばいいんですよ。そうすれば揶揄されることもないでしょうし」
鶫がそう言い切ると、涼音は俯く様に視線を落とし、緊張が解けたかのようにホッとしたような笑みを浮かべた。
「……そうよね、やっぱり確認してもらった方がいいわよね。近いうちに親戚の所へ行ってみるわ。ふふ、それにしても教師に嘘をつく様に助言するなんて、七瀬君も悪い子ね」
「別に全部が嘘って訳じゃないですよ。見てもらった方がいいと思ってるのは本当ですし」
そう言って鶫は肩をすくめた。これくらいで涼音の不安が解消されるなら安いものだ。
「結果が出たら俺にも教えて下さいね。それでもし何かあった時には、俺もできる限り協力しますから」
この問題に対し鶫が出来ることは少ないかもしれないが、涼音が困っているならば手助けを惜しむつもりはなかった。それは純粋に、常日頃から鶫の事を気遣ってくれる涼音への恩返しでもあったからだ。
「――ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくわ。これ以上七瀬君に頼りすぎると、先生としての威厳が無くなっちゃいそうだから」
「そんなことはないと思いますけど……」
「あら、もうこんな時間。今日はそろそろお開きにしておく?」
涼音にそう問いかけられ、鶫はちらりと腕時計を見た。
……もう少し夢の話を詰めて聞いておきたい気持ちはあるが、あまりしつこく聞いても涼音の迷惑になるだろう。
「そうですね、詳しい話はまた今度にしましょうか。今日はこれで失礼しますね。また何か進展があったら教えてください」
「ええ。こちらこそ急に呼び出してしまってごめんなさいね」
申し訳なさそうにそう告げた涼音に、鶫は宥めるように笑って言った。
「別に気にしないでください。俺と先生の仲じゃないですか。――それじゃあ先生、また明日」
鶫はそう言って軽く頭を下げると、残っていたお茶を飲み干して席を立った。
――明日になったら、また少し話を聞きに行こうかな。そんなことを思いながら、鶫は部屋を後にした。この時の判断を、深く後悔することになるとも知らずに。
◆ ◆ ◆
涼音はぼんやりと虚空を眺めながら、ぽつりと呟くような声で言った。
「――どうして七瀬君は、いつも私の欲しい言葉をくれるのかしら」
――本当はずっと不安だった。
繰り返し見る不可思議な夢。黄金の杯。なみなみと注がれた赤黒い酒。そして何よりも、それを飲み干してしまいそうになる
……先ほどは敢えて話に出さなかったが、夢の中で金の杯を勧める誰かは、それを涼音に差し出しながらいつも決まってこう口にするのだ。――お前の願いを叶えてやろう、と。
なんて都合のいい夢だ、と涼音は自嘲する。
涼音の願い。それはたった一つだけ。
この忌まわしき赤い視界からの解放――ただそれだけだった。
けれど、誰に相談してもどうにもならなかったこの目が、そんな簡単にどうにかなる筈もない。あの不思議な夢の中で金の杯を飲み干したところで、目が良くなる保証もないし、悪化する恐れだってある。
――それでも、
ああ、認めよう。涼音は確かにあの金の杯に心惹かれていた。どうしても恐ろしくなって飲めなかったけれど、このままではそれも時間の問題だろう。
「……本当は私だって分かっているの。アレがあまりいい夢じゃないって。でも、どうしても希望が捨てられなかった」
あの夢を見始めた頃から、涼音は夢のことを誰に相談するべきかずっと悩んでいた。
先に祈更と緋衣に相談しなかったのは、いい大人が夢ごときで悩むなんて、と言われそうで恥ずかしかったからだ。かといって病院に行くのは心を病んでいるようで嫌だったし、神職に就いている親戚に頼るのは大げさだと気が引けてしまっていた。
そんな中、鶫にだけ夢の話をしたのは、彼ならば笑わずに聞いてくれる気がしたからだ。
あの真面目な子は、何を言っても真剣に考えてくれる――そんな確信が何故かあった。
そんな涼音の願い通り、鶫は真摯に相談に乗ってくれた。そして、どうするべきか迷っていた涼音の背中を優しく押してくれたのだ。そのおかげで、ようやく決心がついた。
……あれがただの夢ならそれでいい。きっと自分の心の弱さが見せた願望の表れだったのだろう。だが専門家に確認してもらった結果、何らかの存在から干渉を受けているならば――自分はそれを断ち切らなくてはいけない。たとえそれが、何者かの善意だったとしてもだ。
――涼音渚は、神の奇跡を信じない。
いや、まったく神に期待してないと言い換えてもいい。むしろ憎んでいると言ってもいいだろう。
「どんなに祈っても、神様は私のことを救ってくれなかった。それなのに今更手を差し伸べようとするなんて、きっと何か裏にあるに決まってる。……いっそのこと最初から悪魔だと言ってくれたなら、まだマシだったのかもね」
そう言って涼音は苦笑した。無償の善意よりも、まだ契約ありきの利害関係の方が安心できる。だって自分は、この目をどうにかしようと足掻いた結果、今まで何度も騙され続けてきたのだから。
そんなことを考えつつ机の上を片付けていると、コンコン、と部屋のドアを叩く音が聞こえた。
「すみません、涼音先生。少し相談したいことがあるんですけど、入っても大丈夫ですか?」
「相談? もちろん大丈夫よ。カギは掛かってないから入ってきて」
涼音が反射的にそう答えると、その中性的な声の生徒は扉の向こうでホッとしたように息を吐き、扉に手を掛けようとした。
――そこで、ふと涼音は気が付いた。
自分が此処にいることは、祈更と鶫以外は誰も知らないはずだ。しかも此処は生徒指導室という名目上、指導役の教師に呼ばれない限り生徒が自発的に訪れることはまずない。
だというのに、なぜこの生徒はわざわざ涼音を名指しで訪ねることが出来たのだろうか。
ぞっと背筋に悪寒が走る。
今にして思えば、扉の前の生徒の声は、一度も聞いた記憶がない。ふだん授業を受け持っている生徒の声くらい、いくらなんでも覚えているはずなのに。
――私は、一体
「ちょっと待って! 貴方の――」
名前は?と涼音が問いかける前に、無情にも扉は開いていく。
――そうして、深く暗い闇だけが涼音を見つめていた。
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