第96話 英雄の裏側

『朔良紅音』とは、魔法少女の先駆けとなった偉大なる英雄の名前である。だが彼女が魔法少女になる以前の生い立ちは、彼女が死んで二十年以上経った今でも謎のままだった。――それは、当時の行政機関が麻痺していたことに起因する。


 ちょうど朔良紅音が魔法少女として活動を開始した頃、魔獣の襲撃によって行政システムの一部が破壊され、数百万人の戸籍が消失する事件があった。

 彼女はその混乱に乗じて、元の名前を捨て、『朔良紅音』という名前で新しい人生を送りはじめたのだ。


 政府の機能が回復し、朔良紅音が英雄となってからも、彼女は頑なに自分の過去を語ろうとはしなかった。家族も、親戚も、幼い頃に住んでいた場所も、通っていた学校についても、彼女はその質問の全てに口を噤んだ。


 その頃には政府も朔良紅音の出自に関して疑いを持ち始めていたが、彼女が比類なき英雄だったこともあり、その件について触れられることはなかった。


――だが、何故朔良紅音は自らの出自を隠すような真似をしたのだろうか。……それはきっと、いざという時の逃げ場所を作る為だったのだろう。


 朝倉は静かな声で、電話口の七瀬に語り掛けた。


『きっと最初は、純粋な正義感からくる行動だったんだろう。手の届く範囲の人々を救いたいと願い、あの子は神の手を取った。家族に迷惑を掛けないよう、わざわざ幻覚で顔まで変えてね。……あの時すぐに気づいてさえいれば、いや、そんなことは言っても仕方がないか』


 黙り込む七瀬に、朝倉は続ける。


『あの子――七瀬あかねは、母親の旧姓である朔良を名乗り、魔獣との戦いに身を投じた。父親である君にさえ、自分の生存を伝えずに。……君にとっては、地獄の日々だったろうがね』


 朝倉の言葉を聞き、七瀬は三十年前の出来事を思い出していた。




◆ ◆ ◆




――ある日突然、世界に魔獣が現れるようになり、日常を蹂躙し始めた。最初は楽観視している者も多かったが、それが絶望に変わるのはあっという間だった。


 人々は逃げ惑い、だんだんと心が荒んでいき、あの頃の日本はまるで終末の様な空気が漂っていた。そんな中一部の資産家達は、伝手を使って泥船の様な日本から脱出する計画を立てていた。七瀬もその内の一人だ。


 七瀬は実業家として持っていた人脈と資金をフルに使い、何とかアメリカへの渡航権を手にいれた。その朗報を家族に伝えようと意気揚々と帰路に就いた七瀬は、本当の絶望・・を知ることになった。


 家に帰った七瀬が最初に見たものは、血まみれで倒れ伏す妻の姿と、破壊の限りを尽くされた娘の部屋だった。部屋のいたる所には大量の血が付着しており、娘――七瀬紅音はどう考えても魔獣に喰われて死んだとしか思えない状況だった。


 最愛の妻と娘を一度に失った七瀬は、海外への渡航を諦めた。海外に逃げてまで守りたかったものは、もう何も残っていない。だから国外へ逃げる必要もない――そう思ってしまったのだ。


 それから八年間。七瀬は人との関わり合いを避けるように、山の麓にある村でひっそりと暮らしていた。

 ちょうど世間は英雄――朔良紅音の殉職で大騒ぎになっており、七瀬が住んでいる閑静な村ですら、動揺や悲しみの気配が強く漂っていた。


 そんな中、煩わしさから逃げるように家に引き籠った七瀬の元に、朝倉と一人の女性が訪ねてきた。


 その年若い女性を見た瞬間、褪せていた視界が極彩に色づいた感覚をきっと七瀬は一生忘れることができない。


――朝倉に連れられてきた女性――今は亡き妻によく似た女性は、震える声で「お父さん」と口にした。その言葉を聞いた瞬間、七瀬はふらふらと立ち上がり、女性に向かって歩き出していた。そしてゆっくりと女性の前に立ち、震える手で女性を抱きしめた。


――いくら時が経とうとも、見間違えるわけがない。娘は――七瀬あかねは死んでいなかったのだ。


「ああ、よく帰ってきて・・・・・くれたっ……!!」


 七瀬は側にいた朝倉の存在も忘れて、女性――八年ぶりに再会した娘に縋りついて泣き始めた。今までの空白を、涙で埋めるかのように。


 つられる様に泣き出した娘が、泣き疲れて眠りについた後、朝倉は神妙な面持ちで経緯を話し始めた。


 今から十日前。朝倉は、かつての七瀬の家の前――今は近くに住んでいる朝倉が管理している場所で、茫然としながら立ちすくんでいた彼女のことを見つけたらしい。

 その容貌があまりにも七瀬の妻に似ていたので、まさかと思い話を聞くと、彼女は不安そうな声で、自分は昔ここに住んでいた娘だと言い、その名前を告げた。七瀬あかね――友人の子供の名前を。


 朝倉は行く当てがないと言う彼女を保護し、色々な話をした結果、七瀬の住む家へと彼女を連れて来ることにしたそうだ。


「……最初見つけた時は、本当に酷い状態だったんだよ。目の下には慢性的な隈が浮いていて、生気が感じられなかった。この八年間の彼女の孤独を思うと、心が痛むね」


「孤独? あの子が今まで何をしていたのか、お前は知っているのか?」


「少しだけね。あかね君が話してくれたよ。……あまり驚かないで聞いて欲しい。あの子はこの八年間、魔法少女として第一線で活動していた。自らの名を、朔良紅音・・・・と偽ってね」


「朔良、紅音? 何を言っているんだ、朝倉。そいつとあかねでは全く顔が違うだろうが。それに、朔良紅音はつい最近死んだはずだ。ふざけた戯言を抜かすな!!」


 七瀬が怒った様子でそう叫ぶと、朝倉は小さく首を横に振った。


「顔は神の力を借りて別の人間に変身していたらしい。朔良紅音の殉職は、契約神に協力してもらって偽装したそうだ。――そもそも前提が間違っているんだよ、七瀬。朔良紅音が死んだ・・・から、あの子はここに来ることが出来たんだ」


「……どういうことだ」


 七瀬の問いに、朝倉は皮肉気な笑みを浮かべながら、やるせなさを隠すように告げた。


「朔良紅音は正しく『英雄』だった。朔良紅音ならば、英雄である彼女が動けば、きっとどんなに大変なことが起こったとしてもどうにか・・・・してくれる。我々は無意識にそう思ってしまっていた。あの子の周りにいた大人たち――政府の人間も、同じ考えだったんだろうね。どこに居ても、何をしていても、常にその看板が付きまとう。……それが、どんなに残酷な事かも知らないで。――反吐が出るよ。その期待があの子を追い詰めたんだ」


 朝倉にして珍しく嫌悪を前面に押し出しながら、顔を歪めてそう吐き捨てた。


 英雄なんて名称モノは、所詮体のいいまやかしに過ぎない。人々の純粋な期待は重責に変わり、逃れられない鎖となって朔良紅音に巻き付いていった。故に、朔良紅音を殺す以外に、あかねには他に逃げ道がなかったのだ。


 何も気づけなかった自身への不甲斐無さに震える七瀬に、朝倉は諭すように言った。


「今のあの子に必要なのは、家族からの愛情と十分な休息だ。労わってやるといい。やっと、再会できたのだから。……さて、私はそろそろ帰らないとね。こう見えても忙しいんだよ」


 そうして朝倉は近いうちにまた来ると言い残し、去っていった。


――そして再会から数日。娘――あかねはポツポツと今までのことを七瀬に話し始めた。

 死にかけた時、神様と契約して魔法少女になったこと。朔良紅音は、自分が変身した姿であること。母親を救えなかった後悔と魔獣への憎しみで家を飛び出してしまったこと。父親――七瀬に嫌われるのが怖くて、今までずっと名乗り出ることが出来なかったと、あかねは泣きながら言った。


 そんな娘の細い手を握りながら、七瀬は強く決意したのだ。――今度こそ、この子を守り抜くと。


 親子の再開から数年の時が経ち、心穏やかに日々を過ごしていたあかねは、山の麓に療養に来ていた青年と出会った。身体は弱いが、穏やかで優しさがあった青年は、心に傷を負った紅音のかけがえのない支えになっていた。

 そして二人は何かに導かれるように結ばれ、二人の間には一人の女の子――七瀬にとっては唯一の孫娘となる存在が生まれた。


――ずっとこの幸せが続くとばかり思っていた。……思っていたのに。


 崩壊は、病弱だった青年が長年患っていた病の悪化で亡くなったことから始まった。その妻であったあかねと、当時六歳だった孫娘――千鳥の憔悴ぶりは、あまりにも悲痛なものだった。

 だが、幾ら泣いても死んだ人間が帰ってくるわけではない。それは、きっと本人達が一番よく知っていたはずだ。


 青年の死から数か月後。未だ心の傷が癒えぬ母娘に、七瀬は気晴らしになればと一つの提案をした。


「儂の知人から連絡が来たんだが、そいつの会社が新しく子供向けの遊戯施設を建てたらしい。此処からは少し遠いみたいだが、良かったら行ってみないか?」


 そんな七瀬の誘いに、母娘は迷いながらも頷いた。気を使われていることを、何となく察したのかもしれない。


――七瀬は、この選択を今でも深く後悔している。


 手を繋いで微笑みながら出かけた母娘――二人が揃っている姿を見たのは、それが最後・・になってしまったのだから。




◆ ◆ ◆




『あの後、千鳥君は一時的に行方不明になり、あかね君は死体こそ見つからなかったが、大火災で亡くなったことは確実だ。――君の所に、わざわざ八咫烏が現れてそう言ったんだろう?』


「……ああ。八咫烏は、最後に言伝を残していった」


 そう言って七瀬は、十年前に目の前に降臨した神が放った言葉を思い返した。


【あかねは誘拐・・された娘を取り戻しに火災の発生源へ出向き、首謀者と相打って死んだ。お前の孫娘は避難所に居る。迎えに行ってやるといい。――それと、孫娘と一緒にいる子供のことだが、可能ならば一緒に面倒を見てやれ。――だが、】


 三本足の黒いカラスは、首をカクンと曲げながら冷たい声で宣告した。


「【詮索はするな。下手をすれば命を落とすぞ】……八咫烏は、そう儂に告げた。言いつけに逆らい探偵を雇って鶫の素性を調べてみたが、あまり詳しい情報は出てこなかった。本当に何者なのだろうな、あいつは」


 七瀬は不満そうに顔を歪めながら、苦々しくそう言った。


――八咫烏から連絡を受け、避難所で再会した最愛の孫娘は、祖父である七瀬のことも、母親のこともすべて忘れてしまっていた。唯一覚えていたのは自分自身の名前と、偽りの弟のことだけ。


 偽りの弟――鶫と名乗ったその得体の知れない子供は、最初から千鳥の姉弟だったかのように振る舞い、当然のように千鳥の隣に佇んでいた。


 ……八咫烏にはああ言われたが、当初七瀬自身は鶫のことを引き取るつもりはさらさらなかったのだ。だが、そうはいかない理由があった。二人を引き離そうとすると片方が泣き出し、手の付けられない状態になってしまうのだ。

 そんな理由もあり、七瀬は嫌々ながらも鶫のことを一緒に引き取ることにした。……千鳥が嬉しそうだったのが唯一の救いだろう。


 後日、鶫のことを調べた結果分かったのは、奴が大火災の中心にいた宗教団体――黎明の星と少なからず関りがあったことくらいだ。その年齢から考えると、巻き込まれた被害者という立場に近いのかもしれないが、それでも娘が死ぬ原因となった組織の人間というだけで嫌悪感が消えない。故に、対応が冷たくなってしまうのは仕方ないと言えるだろう。


 それから七瀬は、千鳥と鶫のことを麓の家ではなく、都会にある別邸へと引き取った。その際に方々に手を回して千鳥の戸籍に手を加え、あえて血の繋がらない他人として登録し直した。一見無意味にもみえるその行為には、ちゃんと意味があった。


――もし、万が一朔良紅音の正体が世間にばれてしまったら、あの子の一生は台無しになってしまう。七瀬はそう考えたのだ。


 七瀬は、今回千鳥が誘拐されたのは、どこかで朔良紅音と七瀬あかねの情報が漏れてしまったからだと推測していた。幸いにも誘拐犯は大火災で死んだ様だが、念には念を重ねた方がいいと朝倉にも注意を受けた。


 そして七瀬は周りから疑われない様に、最低限の関りしか持たない様に務め、二人のことを遠ざけた。基本的な世話は家政婦に任せつつも、二人が幼い頃は定期的に様子を見に行っていたのだが、最近はすっかり足が遠のいてしまっていた。


……それは千鳥が、あまりにも娘――あかねとよく似てきたからだ。あかねによく似た顔で微笑まれるたびに、後悔と嘆きが胸の奥を抉る。大切なはずなのに、会いたくない。その矛盾した気持ちが、七瀬を苦しめた。


 だが、七瀬の悩みはそれだけでは終わらなかった。いくら彼らが姉弟と誤認しているとはいえ、年頃の異性が二人で暮らす――その内の片方が大切な実の孫ということもあり、何時までも同じ家で暮らすのはどうなのかと考えたのだ。


 本来の予定であれば、二人が中学に上がった段階で全寮制の学校に入れ、二人を引き離すつもりでいたのだが、予想外なことに千鳥が難色を示したのだ。

 七瀬は千鳥からの懇願に負け、渋々二人暮らしの継続を許可したのだが、やはりそれも今となっては間違いだったのだろう。


 ある程度放任した結果、千鳥は転移能力者として政府に囲われ、鶫は何がどうとち狂ったのかは分からないが、葉隠桜という偽名を名乗って魔法少女活動をしていた。


 遊園地の事件後に、朝倉に言われてようやくこの事態を知った七瀬は頭を抱えたが、なってしまったものはもうどうしようもない。


『千鳥君は、幸いにも戦いの才能は無かった。得た能力も後方支援に向いているものだしね。だが、鶫君――葉隠桜は違う。あの子は間違いなく英雄の器だ。下手をすれば朔良紅音の二の舞になりかねない。……君は鶫君のことはそこまで気にかけていないかもしれないが、葉隠桜の正体がバレれば千鳥君の周りも騒がしくなるからね。それだけは覚えていて欲しい』


「……そんなことは分かっている」


――千鳥の平穏な生活の為には、このまま口を噤み続けるのは得策ではない。


「まずは八咫烏に連絡を取るべきだろうな。――『朔良紅音』の死を偽装したのはあの神だ。何故奴が沈黙を保っているのかは分からないが、政府に話す前に一言伝えておくのが筋だろう」


 娘――あかねを修羅の道に引きずり込み、彼女が壊れる前に親元へ送り返した不器用な神様。

 あかねは、事あるごとに八咫烏に感謝の言葉を告げていた。ならば、恨む道理は何もない。


『……そうか。なら、私が一肌脱ごうか。なに、これでもそれなりに政府関係の伝手は持っているからね。神祇省の人間に話を持ち掛けてみるさ』


「ああ、助かる。――本当に、いつも済まないな」


――三十年前から、朝倉には迷惑ばかりかけてきた。朝倉もまた七瀬と同様に魔獣に妻を殺されていたが、ふさぎ込む七瀬に対し、叱責するように慰めの言葉を投げかけ、立ち直れるようにいつも気遣ってくれていた。娘が見つかってからは、定期的に診断に訪れ、わざわざ何度も山の麓にまで足を運んでくれた。


 そして今も、悩む七瀬の相談に乗り、自ら進んで手助けをしてくれている。そんな優しい友人に、七瀬は何時も救われていた。


 七瀬が朝倉にそう告げた瞬間、電話口の向こうで息をのむ気配を感じた。だが、そんな事などなかったように、朝倉は明るい声で言った。


『別に気にしないでいいさ。――私も千鳥君たちのことが心配だから、ね』




◆ ◆ ◆




「――そう、何も気にする必要はない。私には私の目的があるからね」


 電話を切った朝倉は、暗い部屋の中で革張りの椅子に深く腰掛けながら、呟くように言った。


「英雄はもう必要ない。――これからは、人が神を統べる時代・・・・・・・・・が来るのだから」


 そう言って、朝倉は机の引き出しの中から一枚の写真を取り出した。その写真には、朗らかに笑う少女の隣に、今よりも少しだけ若い朝倉が映っていた。

 朝倉はそっと写真の少女を撫で、穏やかに微笑みながら口を開いた。


「……もう少しだよ沙昏・・君。また会える日が楽しみだねぇ」

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