第94話 蝶の羽ばたき

 鶫は不意に襲ってくる斬撃――恐らくは大きな空気の刃による攻撃を避けながら、瓦礫が転がる街中を隠れるように駆けていた。どうやら魔獣は、鶫の位置を何らかの能力で察知しているらしい。


 ちらりと遠目で見た魔獣は、どことなく女性の様な体つきをしていた。風を操る能力のことを考えると、誰かは分からないが、魔法少女を雛型としているのかもしれない。


 人物の判断が出来ないのは、魔獣の全身がひどい火傷で覆われていたからだ。目を背けたくなるほど生々しく残るその火傷は、今もなお赤黒い血と焦げた臭いをまき散らしている。はっきり言って、下手なゾンビ映画よりも恐ろしい姿だ。


――そもそもこの魔獣は、一体何を再現したのだろうか?

 魔獣がこれまで姿を変えてきたのは、鶫が遭遇したことのある相手だけだ。だが今の魔獣の姿は、その条件には当てはまらない。


 考えられるのは二つ。あの火傷姿が例外か、もしくは鶫があの女性の存在を忘れている・・・・・かのどちらかだ。もしそれが後者である場合、あの女性は大火災に関係している可能性が高い。

……情報が欲しかったのは確かだが、何もこのタイミングじゃなくてもよかったのに。どうやら、ほとほと運に見放されているらしい。

 背格好から判断すると、少なくとも『さくらお姉ちゃん』の可能性は無さそうだが、そんなのは何の救いにもならなかった。


――さて。現在の状況はあまり芳しくない。動く分には問題ないけれど、それなりに怪我も酷い状態だ。神力切れが近い以上、耐久戦を仕掛けるのは難しい。つまり、不利であろうと打って出るしかない。


 あの魔獣は攻撃こそ派手だが、その体自体はあまり頑丈そうには見えない。一本の糸が届きさえすれば、きっと勝機はある。


 そう心の中で自分を鼓舞し、鶫はしっかりと前を見据えた。

 探知用の糸から伝わる魔獣の足取りは、ゆっくりと着実に鶫の方へ近づいてきている。遠距離攻撃がメインの魔獣が何故こちらに近づいてくるのかは疑問だったが、行動の方向性が分かるのはありがたかった。


「どうやら、あの馬鹿みたいな威力の斬撃のほかにも、体の周りに目に見えない風が取り巻いているみたい。忍ばせた糸がブチブチ切られるし。……柩さんの箱よりはマシだろうけど、単純な攻撃は通じなさそうかな」


 柩のそれが箱の結界ならば、あれは正に風の結界である。手足を封じようとした糸は全て風によって撥ね退けられ、空しく宙を舞っていた。……目に見えない壁という付加価値を考えれば、質の悪さはそう変わらないかもしれない。


――けれど来る方向が分かっているなら、いくらでもやり様がある。いつも通りだ。何も変わらない。よく考えて、自分の出来ることの中から最善手を探すだけ。そう考えて、鶫は小さな笑みを浮かべた。


 こんな状況にも関わらず、鶫の頭の中はひどく冷静だった。


「よし、行こう。――絶対に生き残るんだ」





◆ ◆ ◆




 ベルは魔獣の攻撃が届かない上空から、厳しい顔で鶫の姿を見つめていた。助言をするわけでもなく、ただ静かに眼下に広がる惨状を見下ろしている。


「ふん、まさかB級程度に苦戦することになるとは。……手はあると言っていたが、どうだろうな」


 そう不遜に告げるベルだったが、その表情は硬い。相手がイレギュラーと知りながら、鶫に戦うことを強要したのはベル自身だ。その事に、ほんの少しだけバツの悪さを感じているのかもしれない。


 地上にいる鶫は魔獣を誘導するように走りながら、海岸――大鳥居がある方を目指している。恐らくは能力の関係上、広すぎる山よりは街の方が都合がいいのだろうが、正直あの付近は女神の喚き声がうるさくて、ベルは近づく気になれなかった。


 いくら後で直るとはいえ、自身の祀られている場所が完膚なきまでに破壊されるのは堪えたのだろう。女神たちの気持ちは分からなくもないが、キイキイと甲高い声は癇に障った。


――それにしてもあの魔獣、どこかで見たことがある・・・・・・・な。


 火傷で覆われた顔は醜く見るに堪えないが、神の目をもってすれば、元の顏もある程度は見えてくる。多少面変わりし、纏う空気は違っているようだが、どうにもその顔には既視感があった。

 特に思い出せないという事は大した人間ではないのだろうが、それでも何故か気にかかる。……この戦いが終わったら、鶫に話してみるのも手だろう。


 そう考え、ベルは小さく息を吐いた。ベルは相手がどんなに強敵であろうとも、鶫の勝利を疑っていない。――それは、紛れもない信頼だった。ベルは信じているのだ。鶫があの魔獣を打倒し、自分の元へ帰ってくることを。


 海岸付近までたどり着いた鶫は、斬撃を転移で避けながら忙しなく糸を張り巡らせていた。そんな鶫の下に、ようやく魔獣が姿を現す。


 魔獣と相対した鶫は辺りを見渡し、瓦礫や木の配置を確認しているようだった。その様子に、緊張や恐怖は見られない。

 だが、何故か魔獣の様子がおかしい。鶫の顏――葉隠桜を真正面から見つめた魔獣は、操り人形のように首を傾け、カタカタと全身を震わせている。ぴたりと震えが止まった瞬間、周りを取り巻く鬼火が、赤から黒に変わった。


『あ、』


――それは小さな声だった。焼け爛れた喉から出されたその声はしゃがれており、ざらざらとした不快感が耳をなぞる。


『ああ、あ』『か、えせ』『わたしの』『かえせ』『どうして』『ゆるさない』『ぜったいに』『にくい』『にくい』『にくい』『――ころす』


 この世の嘆きを煮詰めたような怨嗟の声が、海岸に鳴り響く。魔獣は焼け焦げた肌を掻きむしりながら、凄まじい形相で鶫のことを睨み付けている。そんな魔獣に対し、鶫は困惑した表情を浮かべながらも、警戒の構えを解かなかった。


 魔獣が右手を振り上げる。その刹那、腕の周りに膨大な量の力の波動が渦巻いた。意味を為さない咆哮と共に、風の刃が振り下ろされる。そう――山を裂くほどの強大な斬撃を。


――鶫は、それを見て小さく微笑んでいた。


「ああ、それを待ってた・・・・





◆ ◆ ◆




 迫りくる風の斬撃を肌で感じながら、鶫は右手の糸を大きく引いた。それと同時に、木々や瓦礫を経由した糸が鶫の体を横に大きく飛ばし、ギリギリのところで斬撃を回避する。服が少し破けたが、気にしている暇はない。


 斬撃によって砂浜ごと海が割れるのを視界の端に捕えつつも、空中に浮きながら、鶫は血が滲む左手をそっと横に薙いだ。


 それと同時に、魔獣を取り囲む様に砂の中に配置してあった糸が姿を現す。――あえて転移を使わなかったのは、糸を繋いだままにしておくため。そして、この攻撃をスムーズに行うためだった。


「ずっと見てたよ。お前は攻撃の時にだけ風の盾が消失する。――切り刻め、私の刃! 全てを喰らい尽くせ!」


 くるりと回転しながら、ついっと指を折り曲げる。魔獣は驚いたように目を見開いたが、もう遅い。


 張り巡らされた糸がなけなしの力によって強化され、魔獣に襲いかかる。ここまできたら、もう策は必要ない。脳が処理堕ちする限界まで糸を操り、魔獣を追い込んでいく。


――だが、それでも最後の一手に届かない。


「くっ……!! 力が足りない、あと少しなのに……!」


 既に糸は魔獣を捕えている。密着している以上、もう風の結界は意味をなさない。だが、想像以上に魔獣の体は固かった。ギリギリと肌に糸は食い込むものの、その肉を断ち切るには至らない。


――【暴食】を使うべきか。そんな考えが頭に浮かんだが、唇を噛んで否定する。暴食は切り札であり、自身を蝕む呪いでもある。これ以上の使用は、魂をも喰われかねない。


 手足はもう既にボロボロで、全身の筋肉が悲鳴を上げている。恐らくは骨も数本折れているだろう。それでも、鶫は手を止めなかった。

 滝の様な汗が流れる。あと少し、あともう少しだけ糸を強化できれば、それで終わる。けれどその一歩が酷く遠かった。


 歯を食いしばり必死で糸を操っている鶫の足元に、波の雫が掛かった。恐らく、魔獣の繰り出した斬撃によって大波が起こったのだろう。濡れた足に意識を向けた時、鶫はあることに気づいた。


「……神力が、少し回復してる?」


 ほんの微々たる量ではあるが、鶫の中の神力が回復していた。ただ海水に触れただけだというのに。そうして鶫は、あることを思い出した。


 戦いが始まる前、ベルはその強大な力を海の上・・・で解放していた。ならば、ベルの力が多少海に溶けていたとしても不思議はない。


――一か八か、賭けるしかない。


 鶫はキッと顔を上げ、海へと駆けだした。その背中を追う様に、魔獣が封じられた手を動かして中規模の攻撃を仕掛けてきたが、それを感覚のみで避け続ける。そうして鶫は、波打ち際――水がすっかり引いた大鳥居の前にたどり着いた。


……運が良ければ、糸の強化程度の神力は回復できるかもしれない。だがこれが駄目なら、いくらリスクが高くても暴食に頼るしかなくなる。今は、祈るしかない。


 縋るような気持ちで、足を海水に浸す。――水が触れた場所から、じわりと体中にしみ込んでいくように神力が満ちていく。その温かさに、思わず目に涙が滲んだ。


――凄いなぁ。やっぱり神様のやることには、ちゃんと意味があるんだ。


 もしあの時ベルが海の上で力を解放していなければ、鶫が打つ手はもうなかった。単なる偶然なことは分かっているが、そんなことは構わない。

 何度も、何回もベルは鶫のことを助けてくれた。たとえそれが意図したことでなかったとしても、ベルはいつだって鶫を絶望から救いあげてくれる。今だってそうだ。そんなベルが、鶫は大好きだった。


「ベル様、ありがとう。――おかげで私はまだ戦える」


 ふわりと鶫に繋がっている糸が揺れ動き、キラキラと金色の光を放ち始める。海面に光が乱反射し、鶫を中心に幻想的な光景が広がっていく。


 急激な神力酔いで飛びそうになる思考を何とか保ちながらも、鶫は無意識に口を開いた。


「ごめんね。――今回、私の勝ちみたい」


 大鳥居を背に振り返った鶫は、右手を真っすぐ魔獣に伸ばし、その輪郭を指でなぞった。


――いっ、と指揮者のように指を振り下ろす。光のラインが縦横無尽に走り、ネジの発条ぜんまいを巻くように金色の糸が魔獣の体を締め付けていく。恨めし気な魔獣の表情が、何故か頭に残った。


 おぼろげな視界の中で、崩れ去る魔獣の姿を確認しながら、鶫はふらりとその場に膝をついた。


「……ま、だ。まだかも、しれない。目を閉じちゃ、だめだ」


 段々と重くなる瞼を必死で開きながら、鶫は爪が剥がれている左手の指をぎゅっと握りしめた。ぼやけた視界はもう意味をなさないが、魔獣の消滅が確定していない以上、まだ意識を失うわけにはいかない。


 そうして鶫が砂浜に蹲っていると、目の前に小さな影が現れた。


「――もういい、貴様はよくやった」


 空から舞い降りたベルが、穏やかな声でそう言った。


「ベル、さま。魔獣は……?」


「死んだ。今は【暴食】が残骸を喰らっている。――ふん、貴様は何時もボロボロだな」


 そんないつも通りのベルの憎まれ口に、鶫は安心した様に微笑んだ。


「えへへ、ごめんね。これでも、頑張っているつもり、なんだけど。でも中々、変われないね」


 息も絶え絶えな様子でそう答える鶫の頭に、ベルはそっと手を置いた。手が触れた場所からザアザアと雨の様な音が頭の中に響き、段々と意識が奪われていく。


「……貴様は貴様のままで良い。どうかそのまま変わってくれるな。――さあ眠れ、我が巫女よ。夜は短いのだから」


 その言葉を最後に、鶫の意識は完全に闇の中に落ちていった。その寝顔は穏やかで、小さな笑みを浮かべている。


――討伐時間、計15時間。長丁場の戦いが、ようやく終了した瞬間だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る