第93話 理不尽なる焔
壁の中から抜けだした鶫は、離れた所にある高台から、魔獣が倒れている場所を観察していた。
首をへし折り行動できない様にしたが、あれでは即死には至らないだろう。そのまま止めを刺せば良かったのだろうが、あの狭い場所で血を撒き散らかすのは躊躇われた。
――あの魔獣の赤黒い血に、
それに加えて、前回イレギュラーと戦った柩は、毒霧を吸ったせいで魔獣に意識を乗っ取られた。
ならば、同じイレギュラーであるこの魔獣の体液に触れるのは良くないのではないか? と考えたのだ。
だからといって抱き着くのもどうかとは思ったが、幸いにも葉隠桜の戦闘服は露出が少なく、魔獣に組み付いても直接肌が触れる場所は殆どない。首を折ったのは、それが一番手軽だったからである。……見た目は少々ショッキングだったかもしれないが、糸で輪切りにするよりはずっとマシだろう。
魔獣の防御を掻い潜るのに多少の代償は払ったが、それでも十全な結果と言える。
「……首元がチクチクする。もっと綺麗に切れば良かったかな」
風に吹かれて顔に掛かった横髪を耳にかけながら、鶫は肩のあたりで乱雑に切られた自身の髪をなでた。
そして髪に触れている反対側の手――左手は少なくない量の血で染まっており、よく見ると数枚ほど爪が剥がれているようにも見える。指先に結んだ糸で止血は出来ているようだが、白い手に生々しく残る傷跡は、見ていて痛々しい。
「……その様子だと、どうやら多少は飼い慣らせたようだな」
煩わしそうに髪を押さえている鶫に、ベルがそんな声を掛けた。首を斜めに傾け、腕を組んだその姿は、いかにも「不機嫌です」といったオーラを醸し出している。
そんなベルの姿を見ながら、鶫は小さく苦笑した。
「まあ、以前に比べたらマシな方かな。
この怪我は、魔獣によって付けられたものではなく、【暴食】の贄として捧げる為に、鶫が自分自身で付けたものである。
半年前のラドン戦以降、鶫は戦闘終了後以外に【暴食】のスキルを使うことをベルから禁じられていた。
だが、最近になってベルも思う所があったのか、瞬間的な能力の強化――髪や爪、皮膚の一部など、簡単に修復できるものであれば、供物として使用しても構わないと言い出したのだ。
鶫自身、イレギュラーなどの魔獣の存在に危機感を覚えていたこともあり、手数は多い方がいいと考え、何度か実験的に【暴食】の使い方を試していたのだ。
今回【暴食】によって強化したのは、言わずもがな【透明化】の能力である。
『透明化』は、姿と気配を消し敵に近づき、罠を仕掛けたりするのにとても有効な能力だが、等級の高い魔獣には通用しないことが多々あった。恐らくは姿や気配以外の魔獣が察知できる要素――空間の揺らぎなどが消し切れていないのかもしれない。
それはこの変身する魔獣も同様だった。あの魔獣は、転移で移動する鶫の動きを大まかに把握していた節がある。その探知を誤魔化すためにも、透明化の強化は必須だった。
鶫としては、今回の強化で両手の爪を全て持っていかれる覚悟をしていたのだが、幸いなことに髪の半分と爪三枚程度ですんだ。この程度の怪我ならば、結界を解いた時に自動で修復されるので特には問題ない。
――けれど、本当に成功して良かった。
いくら多少コントロールが出来るようになったとはいえ、この【暴食】が不安定で危険なことには変わりない。
手足を【暴食】の口に喰わせた時のことは、今でもよく覚えている。体の半身を千切られるかのような痛みと、それを覆いつくすほどの高揚感と多福感。体を喰われる恐怖と、魂が失われる感覚が混じり合い、まるで脳が溶けるような心地だった。少しでも気を抜けば、全てを委ねてしまいたくなるほどに。
……今はまだ物理的な対価で済んでいるが、油断すると魂まで明け渡してしまう可能性もある。それだけは絶対に避けなくてはいけなかった。ベルも鶫のそんな危うさが分かっていたからこそ、今まで【暴食】の使用を禁じていたのだろう。
「魔獣の気配は徐々に弱まっている。そろそろ終いだろうな」
ベルのその言葉に、鶫はそっと胸を撫で下ろした。長時間に及ぶ耐久戦のせいで、体はもうすっかり疲れ切っていた。
最後がだまし討ちのようなものだったせいか、なんとなく消化不良のような感覚もあるが、これで終わるのならそれで構わない。
――そんなことを考えた瞬間、鶫の本能がビリビリと警鐘を鳴らした。
鶫は咄嗟にベルの手を掴み、遠くにある木の陰に隠れるように転移した。バクバクと大きな音を立てる心臓の上を右手で押さえつけながら、息を整える。
「おい、急に何をする。許可なく我に触れるなど、普通であれば許されんぞ」
苛立ったベルが鶫に文句を言ったその瞬間――眼下に広がる景色が
「……ベル様。あいつ、もう力が残って無いんじゃなかったの?」
「その筈だったのだが……」
鶫はじっと爆発の中心地――魔獣が居たはずの場所を見つめた。暗闇の中、パラパラと音を立てながら土煙が晴れていく。
そこに現れたのは、赤黒い焔だった。いや、正確には人型の魔獣の周りに、炎の様な物が取り巻いている。その人型はふらふらと左右に揺れながら、まるで鬼火のように周囲をその身を焼く炎で照らしている。
――違う。あれは先程まで戦っていた魔獣ではない。
そう思ってしまう程に、魔獣の纏う気配は異質だった。あの魔獣は猪の姿でも、柩の姿に変身しても、根底にあるドス黒い悪意の気配は変わらなかった。
だがあの燃える魔獣からは、その悪意が読み取れない。ただ、純粋な悍ましさだけが渦巻いている。それは変身というよりも、別の魔獣に
そうしてじっと米粒のように小さく見える魔獣を観察していると、視界の奥に赤い炎がちらついた。思わず、その炎を避けるかのように数歩だけ右に動く。それは、殆ど無意識の行動だった。
――結果的に、それが鶫の明暗を分けた。
無意識に踏み出した先で、露出した木の根に躓き、鶫はその場でたたらを踏んだ。
そしてほんの少しだけ魔獣から目を離した瞬間、突如として吹き荒れた強風に、鶫は踏みとどまれずに強かに吹き飛ばされてしまった。風に煽られた勢いでゴロゴロと山肌を転がりながらも、何とか受け身をとる。
「くっ、一体何が……」
混乱する心を押さえつけながら、鶫はその場に立ち上がった。たらり、と岩で切れた額からとめどなく赤い血が流れていく。
ちらりと首を曲げて左側を見ると、谷のように深い溝が出来ていた。そうして視線をさらに上に向けると――後ろに聳える山の一部が、
「……は?」
ズタズタになった山の残骸が、大きな音を立てて岩雪崩のように崩れていく。カタカタと自分の体が震えているのが嫌でも分かった。あの時、もし左に向かって動いていとしたら、恐らく自分はこの山と同じ運命を辿っていただろう。
――これは、下手するとラドンよりも攻撃力が高いかもしれない。
じわり、と焦りと恐怖で体に汗がにじむ。
イレギュラーの力を過小評価していたつもりはない。遊園地の青鬼のように復活する可能性もあるということは、頭の片隅にあった。けれど、魔獣がこんなにも強力になって戻ってくるとは思っていなかったのだ。
絶体絶命、そんな言葉が頭に浮かぶ。
――コンディションは最悪。神力も残り少ない。だが、鶫にだって意地はある。いくら相手が理不尽に強くとも、決して生きることを諦めたりなんかしない。神様と、そう約束したんだから。
心の中でそう覚悟を決め、鶫は細い糸を広範囲に張り巡らせながら、静かに精神を集中させた。第二ラウンドの開始である。
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