第4章
第86話 想定外の出会い
季節は梅雨に入り、どこか肌寒い空気が漂っている。そんな休日のとある日、鶫はしとしとと降り続ける雨の中、紫陽花が美しく色づいている庭園に一人佇んでいた。
青い紫陽花が咲き誇る庭園には、一か所だけ赤い紫陽花が群生する場所があった。その鮮やかな色彩は、まるで血をそのまま花にしたかのような不気味さがある。
「――綺麗だろう? 実はその赤い紫陽花の下にだけ、特別な肥料が使われているんだ」
鶫がぼんやりと赤い花を眺めていると、背後からそんな言葉をかけられた。
「ええと、まさか死体だなんて言いませんよね?」
「あはは。櫻の樹の下の話じゃあるまいし、そんな訳ないだろう。――正解は貝殻さ。貝殻に含まれる成分の影響で、ここの紫陽花だけは青く染まらない。よくできているだろう?」
「少し不気味ですけどね。――それで、今日は一体何の用があってこんな所にまで俺を呼び出したんですか、芽吹先輩」
鶫が呆れた様にそう言うと、芽吹は悪戯気に笑って言った。
「なあに、ちょっとだけ君にお願いしたいことがあったのさ」
そして鶫は、楽し気に近況を話している芽吹の後ろについて、庭園の道を歩き始めた。どうやら相変わらず忙しくしているらしい。
紫陽花の道を抜けた先には、アンティーク調の豪奢な建物が見える。大きさから判断すると、ホテルか何かなのかもしれない。
ホテルに隣接されたガラス張りのカフェテラスには、品が良さそうな人々が思い思いの時間を楽しんでいる。そのハイソな空気感に、なんだか少し気後れしてしまいそうだった。
鶫がそんなことを考えていると、おもむろに芽吹が鶫の右手を取った。そして先導するように手を引き、ホテルの入口へと歩いていく。
「……もしかして此処に入るんですか?」
まさかと思い鶫がそう問いかけると、芽吹はさも当然と言いたげに首を縦に振ってみせた。
「うん? その通りだけど、何か問題があったかな?」
「いや、見るからに高級そうな所なので……。俺普段着なんですけど、入店拒否とかされませんか?」
遠慮がちに鶫がそう聞くと、芽吹はきょとんとした顔をして、やがてくすくすと小さく笑い始めた。
「心配しなくても大丈夫さ。ここはそこまで格式高い所じゃないし、そもそもうちの系列が経営している場所だからね。事前に個室席も予約しているし、何の心配もいらないさ」
さらりとセレブな発言をしながら、芽吹はホテルの入口へと足を進める。
……ここまでの場を用意される『ちょっとしたお願い』とは、一体どんな無茶ぶりなんだろうか。
鶫は厄介事の気配を感じ取ったが、相手は色々と恩のある先輩だ。話も聞かずに断ることは流石にできない。こうして鶫は、ホテルの中にある喫茶店へと足を踏み入れることになったのだ。
◆ ◆ ◆
「留学生、ですか?」
「そうなんだよ。数日前に外務省を通じて連絡があったんだけど、私の遠縁が急に日本に留学することになったらしくてね。期間は三年程だけど、その間はうちで面倒をみることになったんだ。監視っていう名目もあるんだけど、なんだかんだでやっぱり親戚だからさ。できる限りは助けてあげたいんだ」
そんな芽吹の話を聞きながら、鶫は注文したチョコレートケーキをつついていた。やはりこういった所が出しているお菓子だからか、とても濃厚で美味しい。ただ、メニュー表に値段が載っていなかったのが怖いところだが。
――でも留学生か。わざわざ日本に来るなんて、かなり根性があるな。
現在日本は鎖国という形をとっているが、外国との繋がりを完全に断っているわけではない。ほんの極僅かではあるが、こうして留学生が受け入れられるケースも中にはある。まあそれは芽吹の遠縁のように、身元がしっかりしている人間に限られるだろうが。
けれど、それでもまだ世間の目は外国人に対して優しくない。いくら留学という名目とはいえ、人々から辛く当たられることも多々あるだろう。
「でも、どうしてそんな話を俺に? 俺に出来ることがあるとは思えないですけど」
「それはね、鶫君。――その子の転入先が君のクラスだからさ。ちょうど年齢は君たちの学年と一緒だからね。できれば仲良くしてあげてほしい」
「……正気ですか?」
顔を引きつらせながら、鶫はそう聞き返した。
自慢ではないが、鶫の所属する3年F組は折り紙付きの問題児クラスである。そんな場所に色んな意味でデリケートな存在――留学生を入れるなんて、頭がおかしいとしか思えなかった。
「酷いことを言うなぁ。私としても、本当は自分の大学で面倒をみたかったんだよ? でも本人がどうしても同年代の子と高校に通いたいと懇願していてね。偏差値や通学のことを考えると、私の母校しか選択肢が無かったんだよ」
「だからって何もわざわざ俺のクラスを指定しなくても‥…」
鶫が心配そうに告げると、芽吹は苦笑しながら口を開いた。
「鶫君からしたらF組は厄介なクラスかもしれないけど、あそこは私みたいな『外れ者』にとっては結構居心地が良いクラスだったんだよ。少なくとも私の代のF組の子たちは、変な色眼鏡で人を見ることはなかった。それだけで、十分なのさ」
そう言って優しく微笑む芽吹に、鶫は何も言えなくなった。
確かにF組では、変な実験やよく分からない悪戯に巻き込まれたり、くだらないことで喧嘩にもなったりするが、鶫自身がどうすることもできないこと――幼少期の記憶が無いことや、親がいないことを揶揄われたことは一度もない。
迷惑を被った印象の方が強いため忘れがちだが、そういった人として大事な部分は割ときちんとしているのだ。
「……まあ、芽吹先輩の親戚だってことを事前に言っておけば、そこまで変な絡まれ方はしないと思いますけどね」
「私もそう思うんだけどね。でもほら、鶫君のクラスには
あれ、と芽吹に言われて、一人の人物が鶫の脳裏に浮かぶ。
「ああ、そういえば行貴の奴が居たか。……あー、まさかとは思うんですけど『ちょっとしたお願い』っていうのは……」
「あはは、察しが良くて助かるよ。鶫君――キミには天吏の奴がその子にちょっかいを出さない様に見張っていて欲しいんだ。頼まれてくれるかい?」
「ずるいですよ、この流れで嫌とは言えないじゃないですか。……まあ、出来る限りのことはしますけどね。あんまり期待はしないで下さい」
「うんうん。今は良い返事が貰えただけでも十分さ。急だけど、再来週の月曜日くらいから登校する予定だから、よろしく頼むよ。――それにその子の写真を見たけれど、かなり可愛い子だったよ。ある意味役得なんじゃないかな?」
可愛いという言葉に、ぴくりと鶫の肩が上がる。厄介事を抱え込む上で、それはモチベーションを左右する重要な情報である。
「へえ、やっぱり顔立ちは先輩に似ている感じですか?」
「目元とかは似ているかもしれないね。線が細そうに見えたから、あまり運動とかは得意じゃないと思う。写真だとかなり穏やかそうな印象があるから、それだけが少し心配だけれど」
――大人しそうな芽吹先輩似の女の子と送る学校生活。ちょっと悪くないかもしれない。
鶫が心の中でそんなことを考えていると、コンコンコン、とノックの音が響いた。芽吹が「どうぞ」と答えると、スーツを着た壮年の男性が会釈をして部屋の中に入ってきた。
「芽吹様。事前に伝えられていたお客様がいらしているのですが、この場にお通ししてもよろしいでしょうか」
「ああ、ようやく来たのか。通してくれて構わないよ」
「畏まりました。では、失礼させていただきます」
そうして退室する男の背中を見送りながら、鶫は芽吹に問いかけた。
「何か他にも約束があったんですか? もしお邪魔なら俺は席を外しますけど」
忙しい芽吹のことだ。鶫との予定の後に、別の人とここで会う約束をしていたのかもしれない。そう考え、鶫が善意でそう告げると、芽吹はゆっくりと首を横に振った。
「いいや、それはちょっと困るんだ。私のお客というよりは、鶫君に対してのお客と言った方が正しいからね」
「俺の?」
そう言って首をひねったが、全く想像がつかない。
――もしかして、さっき話していた遠縁の女の子が顔を見せに来てくれたのだろうか。先輩は人を驚かすことが好きだし、それもあり得るかもしれない。
そんな風に考えた鶫がドキドキしながら待っていると、ノックと共に個室のドアが開いた。そして鶫は、ドアから入ってきた人物の顔を見て、思わず右手で口を押えた。
「……随分と面倒な所を予約したんだな。道に迷いそうになったぞ」
「すみません。この季節は紫陽花がとても綺麗なので、ぜひ一度ここの庭園を見てもらいたいと思ったので。こうでもしないと、
眉を顰めてぶっきらぼうにそう告げた男に対し、芽吹は悪びれもせずにそう返した。
……見るからに仲が良さそうなのも気にはなるが、問題はそこではない。芽吹はこの男のことを『緋衣』と呼んだ。その名前から連想できるのは、一人しかいない。
――緋衣雪。魔法少女の活動及び生態理論、そして魔核のエネルギー転換における効率性など、多岐にわたる研究をしている有名な研究者だ。その忙しさ故に滅多にメディアには出てこないが、鶫も顔くらいは知っている。けれど、何故そんな人物がこんなところに?
鶫が茫然と二人を見つめていると、鶫の存在に気付いた緋衣が近づき、緩やかに笑みを浮かべた。
「ああ、君があの【七瀬鶫】か。芽吹から話は聞いていると思うが、今日はよろしく頼む」
そう言って差し出された右手と、横で笑っている芽吹を交互に見やる。……確かに以前芽吹と会った時に緋衣の話は出ていたが、こんなにも急に引き合わされる破目になるとは想像もしていなかったのだ。
――サプライズにしては、ちょっと質が悪すぎるだろう。
そう思いつつも、鶫は緋衣の右手を握り返した。こうなったら、もうなる様しかならない。
「ええと、こちらこそよろしくお願いします。緋衣さん」
鶫が引き攣った笑みを浮かべながらそう答えると、緋衣は珍しいモノを見たかのように目を細めた。
――その様子はまるで、鶫を通して別の
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