第75話 タダより高い物はない

 五月の終わり頃。紫色の夕暮れで染まる東京湾の船着き場で、正装に扮した鶫は、目の前に悠然と佇む巨大船舶を見上げていた。


――三年ほど前に造られた、航海よりもクルーズを目的としたセレブ用の豪華客船。今回の懇談パーティーの会場は、この船の中に設けられていた。

 この船は安全上の理由から、魔核を溶かした塗装剤で外側をコーティングされていて、ちょっとした要塞程度の防御力を有している。そう言った面から考えても、要人が集まるパーティーに使用するには打って付けなのかもしれない。


「……それにしても、締め付けられているせいか少し息が苦しいな。――はあ。何で着物・・ってこんなに大変なんだろう」


 波の音よりも小さな声で、鶫はそんな愚痴を吐いた。


――シロから贈られた服。それは黒地に華やかな桜の文様が描かれた美しい着物だった。

 着物の最大の利点は、体型による格差が少ないことだ。メリハリのない平坦な体や、太ってくびれが無い体型だとしても、着物であればそれなり・・・・に見えてしまう。

 そして何よりも、単純に見栄えと周りからの受けが良いのだ。晴れ着としては、これ以上ないほどに相応しい代物だろう。


 そんなことを考えながら海を眺めている鶫――葉隠桜は周りの人々から密かに注目を集めていた。まず初めに目を引くのは、その美しい出で立ちだった。


 見るからに質の良い布地に描かれた、舞い散るかの様な色とりどりの桜模様。帯は控えめな銀色で、金と赤の糸で流れる雲の模様が刺繍されている。

 帯留めには大きな緑色の猫目石が付いており、その周りには螺鈿で端正な細工が施されている。

 そして月の紋様が浮かぶ簪はキラキラと光を受けて輝いていており、結い上げられた黒髪は艶やかで、首元からのぞく細くて白いうなじは禁欲的な色香を感じさせた。


 そんな和装美人そのものである鶫を見て、周りの人々は惚れ惚れと感心していたのだが、当人である鶫の心中はあまり穏やかではなかった。


――話は、鶫が着物を受け取った時にまで遡る。


「これは、その、随分と高級そうに見えるんだけど……」


 その豪華な着物一式をシロから差し出された時、鶫が感じたのは何とも言えない恐怖だった。


――この着物からは、札束の気配がする。それも、とんでもない量の。


 肌に吸い付く様な手触りの生地に、暗い場所でも淡く光を放つかのように輝く刺繍。見るからに上等な宝石が付いた帯留めに、品のいい髪飾り。その他の小物も、到底一般人が手を出せる値段の物には見えなかった。


 そして着物を、さぞや重いことだろうと持ってみれば、全てがまるで羽のように軽かった。どう考えても、尋常の代物ではない。


「……この着物って、本当に俺の為に用意してくれたのか? 何か別のものと間違ってないか?」


 あまりのことに動揺した鶫が、顔を引き攣らせながらシロに着物の仔細を聞くと、驚くべき答えが返ってきた。


「うん? 間違ってはいないぞ? ……だが、その着物は元々『姉君』に送ろうと思って裁縫が得意な知り合いに作らせた物だからなぁ。結局は受け取りを拒否されたので蔵に仕舞っていたが、その柄は可愛い妹に似合うと思って選り分けておいたのだ」


 もちろん千鳥に贈る分も残してあるぞ、とシロは得意げに語っていた。鶫はその説明を聞きながら、震える手で着物をそっとテーブルの上に降ろした。


 元々はシロの姉に――つまりは名のある神に贈られる筈だった着物。……タダより高いものは無いとよく言うが、これは値段すらまともに付けられない代物じゃないか。


 事の重大さに怯えた鶫が着物を返そうとすると、シロは先手を打つかのようにあっという間にその場から走り去ってしまった。咄嗟に声はかけたが、何故か立ち止まってくれる様子はない。


 そして着物一式を置いて出ていったシロの背中を、鶫が呆然とした様子で見送っていると、ずっと黙って隣にいたベルがぽつりと呟くように言った。


「……奴は、本当に頭がおかしいな」


 鶫は同意を示すように小さく頷くと、深々とため息を吐いた。


――受け取ってしまった以上、着ないわけにはいかないだろう。鶫は頭痛がする頭をそっと押さえながら、大きな溜め息を吐いた。


 別に他の着物を用意するのはそこまで難しくはないだろうが、そんなことをすればシロがショックを受けるのは明白だったからだ。鶫は基本的に、身内には甘い。

 仮とはいえ家族になったシロもまた、その枠の中のひとりである。悲しむ顔はあまり見たくは無かった。


――そして鶫は、政府に依頼して着付けやヘアメイクの専門業者を紹介してもらい、今に至るのだ。

 着付けを担当した彼らもプロのとしての矜持があるのか、特に着物のことは詮索されなかった。……まあ、着付ける手が微かに震えていたのはご愛敬だろう。気持ちは分かる。


「葉隠さん、こんばんは。――素敵な衣装ですね。今日の為に新調したのですか?」


 ぼんやりと海を眺めていると、後ろから歩いてきた人物に声を掛けられた。


「こんばんは、薔薇そうびさん。……ええ、兄からの贈り物なんです。薔薇さんも、青いドレスがよくお似合いですよ」


 鶫は笑みを形作ると、軽く頭を下げて挨拶をした。


 そこに居たのは、鶫と一緒に警備の任に就く予定の薔薇真姫そうびまきだった。彼女の語り口はいつも穏やかで、生来の品の良さが感じとれる。


 薔薇はふんわりとした青を基調としたドレスに、銀色の柔らかそうなショールを合わせている。白くて細い首元には、薔薇ばらの花をモチーフにした可憐なネックレスが鎮座していた。

 そして注目するべきは、その立ち姿だ。ピンと背筋を伸ばし、穏やかに微笑みを浮かべるその姿は、鶫にはない貫禄があった。


「ふふ、ありがとうございます。――それにしても、柩先輩も災難でしたね。今朝方イレギュラーとの戦いに駆り出されて、喉を負傷したのでしょう? 大事には至ってないそうですけど、心配ですね……」


「ええ。私にも昼間に連絡がありました。代理の方からの電話だったのですが、本人は治療が終わり次第、遅れるかもしれないけど船には向かうと言っているらしくて。正直、あまり無理はなさらないで欲しいのですが……」


 鶫は薔薇の言葉に、沈痛な表情を浮かべてそう答えた。


――柩藍莉ひつぎあいりの負傷。そのニュースは、一瞬のうちに全国に拡散された。

柩は今日の朝にイレギュラー――時間短縮によって出現したB級の魔獣と戦い、その戦いの最後で魔獣に黒い霧を吹きかけられ、喉を負傷してしまった。幸い大事には至らず、結界が解ける際に怪我の大部分は治ったものの、喉の違和感だけは消えなかったらしい。


 普通であれば、多少の怪我は結界が閉じる際の神力の変換で完治するのだが、怪我の度合いが酷いと治りきらないこともあるらしい。つまりラドン戦での鶫の様なものだ。


「あの人は責任感の強い人ですから。大方、『諸外国の要人が集まる日に、国家戦力である十華の一人が弱体化したとは思われたくない』とでも考えているのではないでしょうか? ……もう少しくらい、私達後輩に頼ってくれてもいいのだけれど」


「そうですね……」


 心配そうに、けれどどこか不満げにそう告げた薔薇に、鶫は小さく頷いた。柩本人は「好きでやっていることだから気にしないで」と言いそうだが、傍から見ている方は落ち着かない。


「とりあえず、柩先輩が来ても来なくても私たちの仕事は変わりません。他の人と同じようにパーティーを楽しみつつ、変な動きをしている人がいるかどうかを観察して下さいな。……食事は美味しいものばかりだと思いますけど、食べ過ぎてはいけませんよ?」


「あはは……。気を付けますね」


 そう言って、鶫は笑って誤魔化した。

……葉隠桜は健啖家だと噂が立っているせいか、最近政府の中で出会う人々から、差し入れやお菓子の類を贈られることが増えてきている。いつも笑顔でそれらを受け取っていたせいか、どうやら噂に拍車がかかってしまったらしい。


 先ほどの薔薇の発言は、鶫がパーティーで食事に夢中になって、警護を疎かにしないか心配してのことだろう。……いささか不名誉な扱いだが、今さら訂正もしにくいので黙っているしかない。


 そうして薔薇と共に今後の行動を話し合っていると、船の方からベルが鳴るような音が鳴り響いた。どうやら、乗船の準備が整ったようだ。


 船着き場の担当スタッフに促され、船の周りに集まった報道カメラに笑いかけながら船に乗り込んだ鶫は、背筋をしゃんと伸ばしてパーティー会場へと向かった。


――今までと勝手は違うけれど、此処だってある意味戦場みたいなものだ。気を引き締めないと。


 ふう、と小さく息を吐きだして、鶫は眼前の扉を見つめた。制服を纏ったドアボーイが、葉隠桜の名前を呼びながら、豪勢な扉を開いていく。


「――十華、葉隠桜様の入場です」


――さあ、戦いの始まりだ。

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