第2話 始まりの日
――『彼』の運命がねじ曲がったのは、九月。少女が魔獣に襲われそうになった日から、およそ二か月ほど遡る事となる。
◆ ◆ ◆
それは、家に帰る途中の出来事だった。
遠くで巻き起こる爆音を背に、
「なんだって、こんなことに……」
――今にして思えば、今日は朝からついていなかった。
そんな事を考えながら、鶫は霞む意識の中で今朝の出来事を思い返していた。
◆ ◆ ◆
その日は、朝から小さな不運が続いていた。
目覚ましは何故か鳴らず、双子の姉には起きてこないからと置いて行かれ、遅刻覚悟で乗りこんだ電車は人身事故で立ち往生。しかも終いには駅から学校までの短い道で、ゲリラ豪雨に降られ濡れねずみ。まさに踏んだり蹴ったりだった。
「どう考えてもおかしいだろ。一つだけならまだしも、普通あんなに不運が重なるのか? おかげで学校についたのは昼休憩の時間帯だ。ああ、一日を無駄にした気分だ……」
鶫がそう辟易しながら今朝の出来事を愚痴ると、話を聞いていた友人が顔を上げて、呆れた風に言った。
「――そういう時もあるって。鶫ちゃんの日頃の行いが悪かったんじゃない?」
「適当なこと言うなよ。別に俺は変なことなんてしてない。……それに俺は、お前だけには日ごろの行いを語られたくないんだが」
鶫が不満そうな顔をしてそう告げると、友人――
「えっ、心外なんだけど」
まるでそんなこと思ってもみなかったと言いたげに、行貴は文句を言う。心当たりなんてまったくない、とでも思っているのかもしれない。
……一体どの口がそんなことを言えるのだろうか。そんな事を考えながら、鶫は疲れたように溜息を吐いた。
「そういえばお前さ、昨日の帰りに後輩の女子に叩かれてただろ。まさかまた二股でもやらかしたのか?」
「あれ、鶫ちゃん僕より先に帰ったのになんで知ってるの?」
「動画付きで解説が送られてきた。見るか?」
そう言って派手に叩かれている場面を見せ、中々いい角度の平手打ちだったな、と鶫が笑うと、行貴は憤慨したように声を上げた。
「何これひっど!! こんなの撮った奴誰だよ!!」
「芽吹先輩とうちのクラスの愉快な仲間たちだよ」
鶫はためらうこともなく、あっさりと送り主の名を告げた。むしろ本人達がノリノリで拡散しているので、別に隠す必要もない。
「あの腹黒眼鏡と馬鹿どもめ……。僕が女の子に人気があるからって、こんな陰険な真似をするなんて」
「あー、うん。確かにお前はモテるけどさぁ、それは別件だと思うぞ」
――嫉妬とかそんな理由ではなく、ただ単純にお前があの人達に嫌われているだけなんだけどなぁ。
悔しがる行貴からそっと目を逸らし、言葉に出さずにそう思いつつ、鶫はそっと胃のあたりを押さえた。
「じゃあなに? あいつらの推しの魔法少女の不祥事疑惑をネットで晒上げたから? それともあいつの友達の彼女が、僕の方がいいって乗り換えたから?」
「……ちょっと待て。そんなの俺は一度も聞いたことないぞ」
「えー、じゃあどれのことだろう。――ま、でもこの程度で怒るなんて器が小さいよねぇ。嫌になっちゃうよ」
「……俺、いつかお前が誰かに刺されて死んだらインタビューでこう答えるんだ。『いつかこうなると思ってました』って」
「あはは、僕はそんなへまはしないって!」
鶫がしみじみとそう言うと、行貴はそう軽く嘯いてケラケラと笑った。そのお気楽な姿に、恐ろしさすら覚える。だが、こんな風に人格破綻者にしか思えない言動なのにどこか憎めない愛嬌があるのは、きっと行貴の容姿のせいだろう。
……この友人は、本当に見た目
それに頭も悪くないし、言動自体は人懐っこくて好感が持てる。まぁその中身に限って言えば、お世辞にも褒められたものではないが。
『人が嫌がったり、怒ったりしてる顔が大好き!』と、人目も憚らず公言するこの友人は、当たり前だが敵が多い。正直、仲が良い人間を探す方が難しいだろう。
容姿に惹かれて惹かれて寄ってくる女性は少なくないが、大抵はこの性格に耐えきれなくなって数日で幻滅、もしくは激怒して去っていく。中には変に心酔して信者の様になる者もいるが、その辺はあまり触れたくない。いくら友人の事だって、知りたくないことはある。
「程ほどにしておけよ。俺は嫌だぞ、身近で殺人事件が起こるのは。何なら巻き込まれて怪我しそうだし」
鶫が呆れたようにそう告げると、行貴はおかしそうに笑った。
「あははっ。そこで『お前が心配なんだ』とか言ったりしないのが鶫ちゃんらしいよね」
「だってお前、俺の忠告なんか聞いた試しがないだろう? どれだけ一緒にいると思ってるんだ。それくらい俺でも学習するさ」
これでも行貴とは長い付き合いだ。その扱いくらいは理解している。
……でも何でか知らないけど、いつも俺の方が割を食うんだよなぁ。鶫は去年に巻き込まれた、行貴がらみの騒動を思い出しつつ、そっと痛む頭を押さえた。
「それにしてもさぁ、鶫ちゃんって本当にタイミングが悪いよね。今日くらいは休んだってよかったのに」
「何でだよ。そりゃあ色々あって遅刻はしたけど、ちゃんと登校してきたんだぞ? ここで午後の授業まで出なかったら、後で
そう言って鶫は苦い表情を浮かべた。千鳥とは、鶫の双子の姉である。……あの優等生の姉が、弟――つまり鶫が授業をさぼった事を知ったら、後で何を言われるか分かったものではない。
そう告げると、行貴は大仰に肩をすくめながら話し始めた。
「鶫ちゃんは朝礼にいなかったから知らないだろうけど、午後からの授業は急遽全校集会に変わったんだよ。ほら、三年に結構有名な魔法少女がいたじゃん? えーと、佐藤なんちゃらさん。その人が昨日殉職しちゃったみたいでさぁ、何かそれの送別会かなんかをするらしいんだけど、鶫ちゃんそういうの興味ないでしょ?」
「……つまり、単位の心配はしなくてもよかったのか」
――佐藤、ええと何だったか。確か美智子とかそんな感じの名前だった事は覚えている。有名な先輩らしいが、交友関係が極めて狭い鶫にとっては薄っすらとしか印象にない。
鶫はそっと辺りを見渡すと、行貴に小さな声で呟くように話しかけた。
「それにしても殉職か。――あまり大きな声じゃ言えないが、よく持った方じゃないか?」
「まあね。魔法少女になってから五年は経ってたらしいし、平均よりは優秀だったんだろうね」
――魔法少女、というのは実に可愛らしい呼称ではあるが、その実態はかなり殺伐としている。
彼女達はいわば、魔獣と戦うために人ならざる者――いわゆる『神様』と契約を交わした
――事の起こりは三十年前。魔獣という化け物が、突如として日本に出現するようになった。現れた魔獣は人を襲い、建物を壊し、やがて日本は国として機能しなくなってしまったのだ。
暴れ回る魔獣によってライフラインが断絶され、このまま滅びを迎えるのかと全ての国民が諦めかけた時ーー始まりの『魔法少女』が現れた。
少女の名前は、
彗星のように現れた彼女は、巫女の様な衣装を身にまとい、幾多の戦場を渡り歩いた。
――全ては、魔獣を駆逐し、この国を救う為に。
彼女の存在がもたらした効果は、劇的だった。
「――魔獣を倒している女の子がいるらしい」
初めはそんな些細な噂話だった。それが、一人、二人、と目撃者が増えていき、ついには彼女の事を生き残った誰もが知ることとなったのだ。果たしてそんな彼女は、ただ怯えることしか出来なかった者達の目にどう映ったのだろうか。
――どんなに絶望的な状況であっても、きっと
そして奇しくも、『魔法少女』という存在の誕生により、一縷の希望が見えてきた。存命していた政府機関の者達は朔良紅音にコンタクトをとり、彼女の契約者――
その邂逅の中で八咫烏は自分の上に立つ存在、――
話し合いの詳細は国家機密となり一般には明らかにされていないが、掻い摘んで言うと、この国が再び神――天照大御神の支配下へと移るのであれば、庇護をしてやる。つまりはそういう話だった。
そうすればこの
交渉の間に立った八咫烏からの情報によると、奴ら『魔獣』は生物の悪感情によってエネルギーを得る、一種の概念のような生命体らしい。遠い次元に存在する概念存在が、空の裂け目から発生する無色のエネルギーによって、形を作って現世へ食事――絶望を吸収しに降りてきたモノ。それが魔獣の正体である。
そいつらが急に日本に現れるようになった理由は、前述したとおり、空が裂けたことが原因だった。
だが、八咫烏は何故空が裂けたのかまでは説明しなかった。彼はただ一言、「口にするのも
――その『おぞましいもの』が何なのかは、未だに解明されていない。
そうした話の他にも膨大な取引を経て、天照は魔獣に対抗するための結界『天ノ岩戸』を作り上げ、日本全土をその結界で覆った。そして天照は国を守る兵士を増やすために、独自のルートを用い、自分と同じような
――その結果出来上がったのが『魔法少女』という
天照曰く、自分達は天の裂け目から漏れ出た純粋なエネルギーを核にして、現実社会に顕現した、いわゆる分霊と呼ばれる存在なのだという。その中で真っ先に顕現したのが天照大御神だったのだ。
――本来、
そんな彼らが人の世に干渉しようとすれば、下手をすると自分の定義すら揺らぐ可能性がある。運が悪ければ、神としての力を使い果たし、存在が消滅してしまう危険性もあるのだ。
それは神々にとっても不文律の常識であり、自らの存在をかけてまで人間に関わりたいとは誰も思っていなかった。
――だが、その常識をあっさりとひっくり返して見せたのが、空の裂け目から漏れ出たエネルギーの存在だ。
あの無色のエネルギーを上手く用いれば、リスクも負わずに、ある程度の力を持った分霊を作りだすことが可能になる。
――ここだけの話、神様と呼ばれる存在は、基本的に暇を持て余している。そんな彼らが簡単に現世を闊歩できる術があることを知ったら、一体どうするだろうか。
――間違いなく、物見有山のつもりでこの日本へと訪れることだろう。
そのことに真っ先に気が付いた天照は、己の部下である八咫烏を下界に派遣し、人と契約を交わさせ、土地の正当な権利者になった。その上で、日ノ本に悪意を抱く神を弾き飛ばす術式を大地に刻み込んでいった。それが結界『天ノ岩戸』の効果の一つでもある。
準備を終えた天照は、様子見として日本に意識を飛ばしてきている神々に、こう持ち掛けたのだ。
『――もっと楽しいことをしてはみませんか』と。
そうして出来上がったのが『魔法少女』という
分霊として降りてきた神々が、感受性の高い少女と契約を結ぶことにより、現世への干渉権を得ることができる。その対価として、契約者――つまり魔法少女に魔獣を退治させることを義務とさせる。魔法少女は目に見える撒き餌なのだ。
人間からして見れば、魔法少女となるのは名誉ある戦士への転換であり、神々にとっては手軽に出来る育成ゲームのようなものだった。
人間は生き残る為に、自分自身を。神々は自らの愉しみのために、己が力を差し出した。
その対価をまとめ、新しくルールを作り、誰しもが利を得るように調整されて作り上げられたのが『魔法少女』というシステムなのである。
まぁ、最初はなあなあで済まされていた契約も、時を重ねるごとに細かな制約ができ、神々にとっては動ける自由度が減るというちょっと不自由な形にはなったが、それでも形代を持って好きに現世を動けるというメリットは神々にとっては大きかった。
それに元々日本という国は元々多神教がスタンダードである。場所によっては悪魔だと蔑まれる存在であっても、この国では荒御霊も和御霊も同じ神であり、そこに優劣は存在しない。
そんな独特の宗教感もあり、他の宗教によって僻地へと追い立てられていた古き神々も、敬う気があるなら協力してやってもいい、とかなり譲歩した形で協力をしてくれることになったのだ。
――魔法少女が政府によって管理され、表舞台に出てくるにつれ、ゆっくりと国内の情勢は落ち着いていった。
そんな中、魔獣を倒した時に出る生体エネルギーを固形物に変換させる術や、そのエネルギーの核を石油や電気の代用品に、そして様々な効能をもつ薬などに作り変える方法が次々に確立されていった。
そうして空が割れた日――通称『開闢の日』と呼ばれた日からわずか十年足らずで、日本は見事に国を立て直したのだ。
人間万事塞翁が馬とよく言うが、これほどまでに幸と不幸が逆転したケースは滅多にないだろう。
日本が良い方向に向かうにつれて、関係を断っていたはずの国々から国交回復の打診はあったが、現政府はその申し込みを全てはねのけてきた。
もちろんそれには諸外国からの批判もあったが、一国で何もかもを賄えるようになった今となっては、そんな批判は何の意味もなさなかった。
そして人々は辛い戦いを全て魔法少女に任せ、魔法少女となった少女達の尊い犠牲の上に、日本の新しい形の平和は作り上げられたのだ。
ちなみに魔法少女になることのできる年齢は十二歳からと定められているが、十年以上魔法少女を続ける者はほとんどいないとされている。聞こえはいいが、魔法少女というのは一月に何十人もの殉職者を出す危険な職業なのだ。まぁ大体の魔法少女は生きている内に五年ほどで引退して辞めていくのだけれど。
――ただし、長く生き残れば地位も名誉もお金だって手に入る。ハイリスクハイリターンとはまさにこのことだ。
最近だと有名な魔法少女はまるでアイドルのように扱われ、人気投票やなんだと色々と日本の平和を守ること以外でも忙しいそうだ。
そのせいで、始まりの地獄を知らない鶫のような少しひねた人間には『魔法少女』という存在に対し、いまいち良い印象が抱けない。
彼女達が英雄であることは分かっているが、それと不信感はまた別ものだろう。
……けれど、そんな激戦区の中で割と長くがんばっていたというのに、その先輩とやらも運の悪いことだ。
「それにしても集会か。……正直面倒だな」
つまらなそうに鶫がそう言うと、行貴は面白い物を見るように目を細めた。
「鶫ちゃんてば、人混み嫌いだもんね」
「避難所に押し込まれてるみたいで息が詰まるんだよ。こればかりはどうしようもない」
行貴が言うように、授業がないならば別に一人くらい帰っても問題は無いのかもしれない。鶫はそう思いながら、頬杖をついた。
「やっぱり俺も帰ろうかな。千鳥も俺がああいうの得意じゃないのは知ってるし、そこまで怒らないはず……あっ」
「どうしたの?」
「いや、一応千鳥に連絡を入れておこうと思ったんだが、携帯の充電が切れたのを忘れてた。悪いけど、変わりに連絡をしてもらってもいいか?」
「うん、いいけど貸し一つね」
行貴はそう告げると、徐に携帯のカメラを鶫に向け、そのままパシャリと写真を取った。そしてささっと写真に何らかの操作を加え、鶫の前に差し出した。その画面には、どこか青白い顔をした鶫の姿が映っている。
「上手く編集できてるでしょ。千鳥ちゃんには『顔色が悪いから帰らせた』って連絡しておいてあげる」
「……あー、うん。ありがとう。助かった」
……偽装ありきで写真を送ることを咎めるべきか、鶫が姉に怒られないように気遣ってくれたことを感謝するべきか。少しだけ迷って、鶫は行貴に礼を言った。行貴もきっと悪気はないのだ。多分。
鶫が礼を言うと、行貴は特に気にした様子もなく机の上の荷物をまとめ始めた。そして女子のような無駄にゴテゴテした小物類を鞄に詰め終え、鶫の方を向いて言った。
「じゃあ僕もそろそろ帰るから。鶫ちゃんも帰り道は気をつけてね。まぁ警報も持ってるだろうし大丈夫だろうけど。――あ、もしも渚ちゃんに会ったら僕が早退したこと言っておいて」
行貴はそう言うと、ぽん、と労わるように鶫の肩を叩き、ヒラヒラと手を振って教室から去って行ってしまった。本当に、自由な男だ。
そして鶫が何となく周りを見ると、もう半数以上のクラスメイトが姿を消していた。……いくら成績に響かないとはいえ、これはひどい。だが、元々鶫の所属している二年F組は問題児が集まったクラスである。むしろ全校集会なんてまともに出席する奴の方が少ない。
自分のことを棚に上げてそんな事を思いながら鶫はやれやれと肩を竦めると、窓から雨上がりの青空を見つめた。先ほどまでどしゃ降りだったとは思えないくらいに、清々しい晴天である。美しい虹までかかっている始末だ。
何となく理不尽なものを感じ鶫はしばらくの間苦々しく空を睨み付けたが、やがて諦めた様に息を吐き、カバンを担ぎ直した。自然現象をいくら憎らしく思ってもどうしようもない。こういう時は忘れるに限る。
そう思った鶫が教室のドアを開けたその時、外から教室に入って来ようとした人物とぶつかりそうになった。
扉に手をかけそこない、前のめりによろめいてきた人物を鶫は思わず抱き留めた。甘い香りが鼻孔を擽る。
「あ、あら。ごめんなさい。先生ちょっとうっかりしていて……」
「涼音先生、この前もそう言って階段から落ちそうになってませんでした? 気を付けてくださいよ」
鶫がそう言うと、教師――
――彼女は鶫のクラスの担任なのだが、どうにも年上にしては頼りないというか、おっとりしていて目が離せない危うさがある。そのせいか、問題児が多いこのクラスの中でも、反発されるでもなく頼りないマスコットのような扱いを受けている。
本人はその扱いが不満のようだが、四月にあった外部オリエンテーションの際に、生徒を差し置いて真っ先に迷子になったことなどを考えれば、順当な扱いではある。
因みにその時は我が強いクラスの連中ですらも、一丸となって迷子の教師を探した。そのお陰か、例年通りなら授業崩壊一歩手前といわれる問題児達を集めたこのF組も、現在はそれなりに纏まりがあるクラスになっている。あくまでもそれなりに、だが。
もしやこれが狙いだったのだろうか、と一時は思ったのだが、日々の彼女の天然ぶりを見ていると、あれも素だったのかと少しやるせない気持ちになる。はたして二十六歳の大人がこんな有様でいいのだろうか?
そんな心配をしつつも、鶫はこの状況をどうしたものかと内心冷や汗をかいた。
涼音は人の少ない教室を見渡しながら、おろおろと視線を彷徨わせている。いくら鈍い涼音でも、教室の様子のおかしさに気が付いたのだろう。
「……もしかして、今いない子達はもう帰ってしまったのかしら」
「あー、その、多分そうでしょうね」
「えぇ、そんな、ひどい……」
か細い声で涼音はそう言うと、目に涙を滲ませた。
――あ、やばい。そう思うが、一足遅かった。
涼音の目から、キラキラとした大きな雫が重力にまけてポロリと目から落ちる。その様子をニヤニヤと見ていたクラスメイト達が、嬉々とした様子で声を上げた。
「あー! 七瀬の奴が渚ちゃん泣かせてる」
「おいおい何やってんだよ。渚せんせーが可哀想だろー?」
けらけらと笑いながら、わずかに残っていたクラスメイト達が次々に野次を飛ばす。……ああ、これだから嫌だったのだ。内心げんなりとしつつも、鶫はクラスメイト達に向き直った。
「俺のせいじゃないっつーの。文句は早退した連中に言えよ」
ぐすぐすと本格的に泣き出した涼音の背を慰める様に軽く叩きながら、鶫は不満そうにクラスメイトに文句を言った。
「だってお前も帰るんだろ? なら一緒じゃん」
「ぐっ、それは……そうだけど」
クラスメイトの言う事ももっともである。
こっそり帰るつもりだったが、こうして担任に会ってしまった以上、一応早退の旨は告げなくてはならない。だが、ほろほろと涙を流す彼女に素直に帰ることを告げるのも、少しだけ心苦しい。
だってもう既にクラスの半数以上がこの場からいなくなっているのだ。こんな状態で全校集会が開かれれば、後で担任である彼女が他の教師に責められることは必至だろう。
……流石に可哀想だから残った方がいいかもしれない、と鶫が悩み始めたその時、涼音が濡れた瞳でじっと鶫の顔を見つめていることに気が付いた。
「先生? どうかしました?」
もしかして、帰ると言ったことを責められるのだろうか。鶫はそう考えていたが、涼音の口から出たのは予想できない言葉だった。
「――七瀬君。大丈夫?」
「は?」
それはひどく、心配そうな声音だった。何を聞かれたのか意味をくみ取れず、鶫は思わず聞き返した。
「何がですか?」
鶫がそう問うと、涼音は少し言いにくそうにしながらも、口を開いた。
「あのね、もし体調が悪いなら無理はしなくてもいいの。学年主任にはちゃんと先生が説明しておくから……」
普段はクラスの者が休んだり早退しようとすると悲壮な顔で止めにかかるのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。そんな涼音の言葉に内心首を傾げながら、鶫は口を開いた。
「えっと、俺そんなに体調が悪そうに見えます?」
「……七瀬君、自分じゃ気づいてないと思うけど、顔色があまりよくないわ。いくら私だって、本当に体調の悪い子に無理して残れとは言えないもの」
涼音が心配気にそう告げると、話を聞いていたクラスメイト達が鶫に声を掛けてきた。
「えっ、なになに? 七瀬体調悪いの?」
「いや、別にそんな事はないんだが……。そんなにひどい顔してるか?」
「んー、俺にはよく分かんねぇわ」
話を聞いていた他のクラスメイト達も、特に鶫が不調には見えないと言う。
「渚ちゃんの勘違いだって。ほら、馬鹿は風邪引かないって言うしさ」
だよなぁ、と楽しげな様子で軽口をたたき合う彼らに、鶫は思わず声を荒げた。
いくら体調が悪そうに見えないとはいえ、その扱いは納得できない。
「お前らさあ、ちょっとは心配するそぶりくらいみせろよ。それに俺は別に馬鹿じゃないだろ!?」
「何だよめっちゃ元気じゃん」
「つぐみんって天吏の野郎にはそんなに怒んないくせに、俺らには怒鳴るのな」
「おい、つぐみんって呼ぶのはやめろ。こっちが恥ずかしくなる」
――これ以上は付き合っていても埒があかない。不満そうな声を出すクラスメイト達を無視しつつ、鶫は自分の鞄を持って教室から出ようとした。教師である涼音からも一応ではあるが早退の許可は出ているし、特に問題もないだろう。
そうして挨拶もそこそこに教室から出ると、鶫の背後からパタパタと慌しい足音が聞こえてきた。何事かと思い振り返ると、急ぎ足で駆け寄ってくる涼音の姿を見つけた。
「ま、待って、七瀬君」
「はい?」
「はぁ、はぁ、よかった。間に合って……」
急いで廊下を走ってきたのか、涼音は肩を震わせて息をきらしていた。けど、一体どうしたのだろうか。何か言い忘れたことでもあったのかのかもしれない。
「えっと、大丈夫ですか?」
咳き込みながら肩で息をする涼音を心配そうに見つめながら、鶫は問いかけた。すると涼音は何かを鶫の前にそっと差し出した。
「これ、持っていって」
「これは……お守り? いや、こんな高級そうなの受け取れませんって」
小さな黒色の布袋に赤い糸で花の意匠が縫いこまれた、どことなく荘厳さを醸し出すお守りを見て鶫は首を横に振った。訳が分からない上に、何となく自分が持つには恐れ多い気がしたのだ。
「いいから」
涼音は有無を言わせぬ様子で、お守りを鶫の手にぎゅっと握らせた。その思わぬ必死さに、鶫が驚いて目を見開く。こんなに強引な行動をとる涼音は、今まで見たことがなかったのだ。
「嫌な予感がするの。……先生の我侭だと思って、これを持っていてくれない?」
「……えっ、何ですかそれ。ちょっと怖いんですけど」
鶫が驚いた風に理由を問うが、涼音は小さく首を横に振るだけで詳しい説明をしようとはしない。鶫は腑に落ちないものを感じながらも、手渡されたお守りを学ランの胸ポケットへと放り込んだ。よくは分からないが、別に持っているくらいならば問題はないだろう。
「ごめんね。変なこと言っちゃって」
「まぁ、それで先生の気が済むなら別にいいですけど」
「本当に、気をつけて帰ってね」
心配そうに何度もそう告げる涼音に、鶫は半ば飽き飽きしながら頷いてみせた。そう何度も同じことを言われなくても、もう幼い子供ではないのだし、大して心配はいらないだろうに。
「大丈夫ですよ。体調だってそこまで悪いわけでもないですし」
「……そう、よね」
どことなく歯切れの悪い返答をしながらも、涼音は不安そうな視線を鶫に向けてきた。
そして何か言いたげに口を開いたかと思うと、きゅっと一度だけ何かを躊躇うかのように深く目を閉じ、気を取り直すかのようにふわりと微笑んだ。
「――じゃあ、また明日。今度は遅刻せずに学校へきてね」
「……あはは。さようなら、涼音先生」
そうして鶫は涼音に背を向けると、また真っ直ぐに玄関の方へと歩き始めた。
その背をじっと涼音が見つめていたことは気づかないままに――。
◆ ◆ ◆
鶫の背中が見えなくなった頃、涼音は誰にも聞こえないくらい小さな声でそっと呟いた。
「……あの子、全身が
涼音はそう言ったが、もしこの言葉をクラスの生徒が聞いたら、きっと首を傾げたことだろう。鶫の見た目は、他の生徒からみて『いつも通り』にしか見えなかったのだから。
――はたして涼音には一体
「あれではもう恐らく……。いいえ、だからこそ……」
そして涼音は祈るように手を組み、静かに目を伏せた。
「私には祈ることしかできないけれど、どうか――
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