第3話 忍び寄る影
学校を出て人通りの少ない道を歩きながら、鶫は首を傾げた。先ほどの涼音の様子が、どうにも気になっていたからだ。
「――あの人もよく分かんない人だよなぁ」
涼音渚という女性は、教師というには少し頼りないが、大人としての人格は信頼できる。相談をすれば親身になって協力してくれるし、決して理不尽なことは言ったりしない。その善性のおかげか、変な奴らしかいない鶫のクラスからも不思議と受け入れられている。
――だが、それでいて地に足が付いていないかのような不安定さがある。こちらを見ているようで、
――それに加え、涼音渚という教師には色々な噂がある。それも、オカルトな方向にだ。
曰く、元は引退した魔法少女だとか、有名な神社の跡取り娘や、凄腕の霊能者などバリエーションも様々だ。
最近だと、事故で死ぬ人間をピタリと当てた、といった話がクラスに広がっていた。まぁ、それも元は行貴が面白おかしく吹聴していたことなので、鶫はあんまり真面目には聞いていなかったが。
だが実際のところ、鶫の通っている
鶫自身はそういったモノに遭遇したことはないが、姉の千鳥はよく学校で変な気配を感じたと言っている。鶫としては勘違いなんじゃないかと思っているが、実際に幽霊がいないとは証明できないので何ともいえない。
――まぁ何にせよ、気を付けるに越したことはないだろう。
そんな背景もあったため、鶫は真っすぐ帰るために駅に向かって歩いていたのだが、どうにも何か大切なことを忘れているような気がする。
「……あ、そうだ。本を取りにいかないと」
不意にそんなことを思い出した。実は一月前から発注していた本が、昨日届いたと古物商の店主から連絡があったのだ。
鶫の姉である千鳥は海外の文学、それもマイナーな児童書の収集を趣味としており、学校と部活が休みの日には古本屋めぐりをすることも少なくはない。そんな彼女が前々から欲しいと言っていた本が、ようやく手に入ったのだ。
今となっては入手の難しい外国の古書で、仕入れてくれる店を探すのは随分と苦労させられた記憶がある。行貴が親切で店を見つけてくれたので、本当に助かった。
「千鳥の誕生日が明後日だからなぁ。明日の放課後は行貴と予定があるし、本当なら今日取りに行くのが一番都合がいいんだけど……」
明後日は、鶫と千鳥の十七歳の誕生日だ。毎年特に打ち合わせなどはしていないが、当日は食べ物やケーキを持ち寄って、互いにプレゼントを交換し合うことが定例となっている。
――せっかく早めに帰れるのだし、少しくらい寄り道したっていいんじゃないか、そう心の中で悪魔が囁いた。
だが仮にも、担任に許可をもらって早退をしている身なのだ。本来であれば寄り道などもってのほかだろう。……けれど、本を取りに行くのに一番都合がいいのは今だ。幸いにも、店自体は最寄の駅からそう遠くはない。歩いて十分くらいの距離だ。それくらいなら、問題ない筈だろう。
「まぁ、きっと大丈夫さ」
――ごめんね、涼音先生。
鶫はそう心の中で涼音に軽く謝罪した。常識的に考えて、そんな過剰に心配するような事なんて、滅多に起こるはずがないのだから。
実際のところ体調だって特に悪くもないし、たとえ魔獣と遭遇するにせよ、普通であれば警報が出るので時間さえあれば簡単に避難できる。鶫は携帯の他にも警報用の端末も持っているし、警報を聞き逃すことはまずない。
魔獣出現の際には最低でも三十分前には警報が出るし、一度は聞き逃しても十分もあれば魔獣の行動範囲から逃げることくらい容易だろう。鶫はそう楽観的に考え、涼音からの言い付けを破り、駅の反対側へと足を進めたのであった。
――その選択のせいで、今後の人生を揺るがす出来事に遭遇することも知らずに。
◆ ◆ ◆
――脇腹を押さえ、止血を試みる。気休めにしかならないだろうが、やらないよりはずっとマシだ。
飛んできた瓦礫にぶつかり、自由がきかなくなった片足を引きずりながら、鶫は崩壊していない建物の影へと隠れた。……痛みで意識が飛びそうだ。
「なんだってこんなことに……」
鶫は自らの身に起こった出来事を思い返していた。
涼音先生の言いつけを破り、駅の裏手にある古物商へと足を進めていた時、どこか
もしや本当に風邪でも引いてしまったのかと、内心不安になりながら足を進めていると、その違和感の原因が明白となったのだ。
――人の気配が、
人が避難しきった後の様にも見えるが、それにしたってあまりにもおかしい。警報だって鳴っていなかったし、つい数分前にはちらほらと人も居たのだ。
突如として人が居なくなる? メアリー・セレスト号じゃあるまいし、そんなこと現実に起こってたまるか。
――いいや、違う。本当の問題はそれじゃない。
――そもそも、ここは、
目的の古物商の店は、駅から近くの神社まで進んで、あとはずっと一本道だったはずだ。何度か店には訪れていたし、道を間違えたとは考えにくい。それなのに、今自分が立っている場所は、どう思い返しても見たことのない場所だったのだ。
焦りを感じながら、鶫はひとまず来た道を引き返そうと足を速めた。訳が分からないが、ここに留まるのだけはまずい気がする。
――その刹那、まるで爆弾でもばら撒いたかのような音が、頭上から聞こえてきた。まさかと思い、空を見上げる。そこで鶫は、信じられないものを見てしまった。
目まぐるしい速さで空中戦を繰り広げる、
「う、嘘だろっ!? なんで俺が結界の中にいるんだよ!!」
結界とは、魔法少女が戦う際に作り上げる隔離空間のことである。魔法少女達はその中に魔獣を閉じ込めることで、建物や逃げ遅れた人に被害が出るのを防いでいるのだ。
――魔獣を退治するたびに街を破壊してしまっては、戦う意味がない。かつて最初の魔法少女はそう
三十年前に突如として出現し始めた魔獣――それに応戦できるのは、神々からの加護を受けた魔法少女のみだ。けれど、彼女達が戦いを繰り広げるたび、街やそこに住む人々に被害を出してしまっては本末転倒である。
――八咫烏からその報告を受けた天照は、『天ノ岩戸』の結界に、隔離空間を作るシステムを追加した。それ以降、魔法少女達は魔獣と戦う前に結界――いわば即席で『異世界』を作り上げるようになった。
魔法少女が契約した神の力を借りて、現実の鏡面空間に魔獣ごと移動する。そうすることにより、現実での被害を減らすのに成功したのだ。
結界内で破壊された物は、魔獣が倒されたのと同時に元の状態へ再生されるので、魔獣が引き起こす被害は、ほぼゼロにすることができる。
――だから彼女達が結界の中でいくら派手に戦おうと、どんなに街を破壊しようと、何の問題もない。
だが、一見万能に見えるその結界にも致命的な欠点がある。
魔法少女が作り出すその結界は、魔獣、もしくは魔法少女のどちらかが
しかも魔獣ではなく、魔法少女の方が先に命を落とした場合、その結界内で建物が負ったダメージは、そのまま現実にフィードバックされてしまう。魔獣出現の際に避難が推奨されるのは、その万が一の事故を起こさないためだ。
――だからこそ、魔法少女に敗走は許されない。勝つか死ぬか。そのどちらかしか選べないのだ。
けれど例外がないわけではなく、崩壊が反映されるほんの少しのタイムラグの間に、別の魔法少女が結界を張り直せば、崩壊のフィードバックは先延ばしにされる。
以前は応援の魔法少女が間に合わず、街に被害が出ることも多々あったが、ここ十年の間に魔法少女の動きもだいぶ組織化されたため、最近はあまり大きな被害はない。
……長々と説明したが、それと鶫の現状はまた別の話だ。
魔法少女の戦いの様子は、日本中の彼方此方にある特殊なモニターを通すことによって、現実でも見ることができる。それなのに、鶫がいま見ている光景は一体なんなのだろうか?
当然だが、その隔離空間――つまり結界の中に、普通の人間は入ることはできない。
魔法少女の結界に一般人が巻き込まれたなんてケースは、今まで一度も聞いたことがない。明らかに異常な事態が、鶫の身に起こっているのは確かだ。
「冗談じゃない! こんなのどうすればいいんだよ!」
思わず叫んでしまったが、こんな状況では混乱しない方が間違っている。
……涼音先生の言っていた『嫌な予感』という見立ては、どうやら最悪なことに大当たりしていたらしい。
――取りあえず、ここから離れないと。戦闘に巻き込まれたらひとたまりもない。
そうして鶫が逃げ出そうしたその時、上空で戦っていた魔法少女が、魔獣の太い岩のような腕で遠くに弾き飛ばされた。ぞくり、と背中に冷や汗が流れる。
――あ、やばい。そう思った時には、もう遅かった。
――魔獣が、道で立ちすくんでいる鶫を
……それから裏路地に逃げ込むまでの間の記憶は、ひどく曖昧だ。
鶫は荒い呼吸を整えつつ、コンクリートの壁へと体重を預けた。正直、もう普通に立っている気力もない。
これ以上は動けないし、何よりも出血がひどい。下手をすれば、このまま意識を失ってお陀仏だろう。
――涼音先生の忠告をもっと真剣に聞いておけばよかった、と悔やむものの、まさかこんな目に遭うとは思いもしなかった。もし生きて帰れたら、どういうことか問い詰めないと気が済まない。そう、生きて帰れたら……。
鶫はぐっと唇を噛みしめた。最悪の可能性が頭を過る。こんなところで虚しく死ぬなんてまっぴらごめんだ。
そもそも、なぜ警報が何故鳴らなかったのだろうか。そして、ここはどこなのか。……奇妙な世界にでも紛れ込んでしまった気分だ。
「――くそっ」
そう悪態をつくも、どうすることもできない。此処はありとあらゆる外界から隔絶された、魔法少女の
怪我さえしていなければ戦闘の中心から逃げることもできたのだろうが、運悪く魔獣に攻撃されて、その余波で壊れた建物の破片が運悪く足と脇腹に刺さってしまい、この有様だ。
体から段々と力が抜け、べたりと地面に這いつくばるようにして倒れこむ。少しずつ、目の前の景色が霞んでいくのがわかった。
――もう駄目かな、とぼんやりとした頭で思う。
一日に何十体もランダムに魔獣が出現する現在では、魔法少女の救援が間に合わず低級の魔獣によって怪我を負うことはそう珍しくもない。言ってしまえば、交通事故で重傷者が出る件数と大して変わらないくらいだ。
鶫の場合、シチュエーションとしてはレアケースなのだろうが、結果的は変わりないだろう。
……今にして思えば、自分は短いながらも中々壮絶な人生を送ってきたようにも思う。こういう風に人生を振り返りたくなるのも、ある意味走馬燈と呼べるのだろうか?
――七瀬鶫には、七歳より以前の記憶が無い。一番古い記憶は、黒いすすに塗れた姉が鶫の手を引いて炎の海を走っている光景だ。
十年前に起こった特A級の魔獣が引き起こした大災害。街ひとつが滅んだ災害の数少ない生き残りの内の一人が、鶫と姉の千鳥だった。
鶫も千鳥も、自分自身のことは何一つ覚えていなかったけれど、お互いが家族であることだけははっきりと分かっていた。二人は保護された先で、とある老人に引き取られ、ほぼ姉と二人暮らしのような形で、今まで二人で支えあうようにして生きてきた。
――もしも自分が死んだら、千鳥は一体なにを思うだろうか。
悲しむだろうか。それとも厄介者の弟がいなくなったと喜ぶだろうか。……でも、きっと彼女は泣くのだろうな、と鶫は苦笑した。
大事な片割れのことだ。大抵の行動は読める。だからこそ、鶫は強く思った。
「――ま、だ。死ねない」
――だって鶫が死んだら、今度こそ千鳥は、姉は一人ぼっちになってしまう。広い家の中で一人、泣いて過ごすのだ。そんなの、悲しすぎるだろう。
それに鶫がこんな不可解な死に方をしたら、きっと千鳥は原因を調べるだろう。その過程で彼女が魔法少女を目指したらと思うと、背筋がぞっとする。戦いなんて、あの優しい姉には絶対に似合わない。
――けれど、どうすればいい。どうすればこの最悪な状況で生き残ることができる。
上から聞こえる戦闘音から推測するに、魔法少女と魔獣の戦いはまだ終わりそうもない。恐らく決着が付く前に、鶫の体力の方が尽きるか、周りの建物の倒壊に巻き込まれる方が早い。
ぎり、っと地面に爪を立てる。己の無力さに吐き気がした。
だが、まだ死ねない。死ぬわけにはいけないのだ。
だって自分はまだ――姉に対する恩返しが出来ていない!
――十年前、燃え盛る街で泣きわめいていた鶫の手を引いて、彼女は必死で走ってくれた。自分だって怖かったはずなのに、そんな様子は微塵も出さずに、励ますように笑ってくれた。
その
辛い時も、苦しい時もずっと姉は側にいてくれた。なのに鶫はまだ何も千鳥に返せていない。このまま死ねば、きっと死んだ後も永遠に後悔するだろう。そんなのは嫌だ――嫌なんだ。
そんなエゴにも似た思いを抱きながら、鶫は搾り出すような声で言った。
「生きて、やる。――こんな訳の分からないところで、死んでなんかやるものかっ……!」
力が入らない体を無理やり起こし、震える足で立ちあがろうとする。血を強かに吸った制服が重くて仕方がない。鶫が立っている地面はもう既に血みどろだ。でも、まだ自分は
状況は最悪で、いつまた戦闘の余波に巻き込まれるか分からない。そんな有様なのに、鶫は微笑んだ。何一つ諦めたりしない、そんな決意が見える表情だった。
――その満身創痍で歩き出した鶫の姿を、じっと見つめる黒い影があった。
黒い影は、まるで面白い物を見たとでも言わんばかりに、ぱたりと一度だけ艶やかな尻尾を揺らし、言った。
「――これだから人間は愚かしい」
だが、それもまた醍醐味か。そう言って黒い影は、ゆっくりと鶫の方へと足を進めはじめた。
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