第3話 女教師 


 広く豪奢な食堂に着くと、既に大柄な体躯の老人が、テーブルの上座についていた。

 老人は、エルヴィン=ヴァーミリオン伯爵。年齢は七十一歳。

 ヴァーミリオン伯爵家の現当主であり、シオンの祖父である。

 黒髪碧眼で、彫りの深い端正な顔立ちをしており、白い髭を蓄えている。身長186センチという長身で老いてなお筋骨逞しい。

 

 ビアンカは食堂に着くとシオンから手を離し、優雅に深くエルヴィンに一礼して、食堂の壁際にたった。ビアンカの他にも四名の近衛侍女がおり、同様に壁にたって背筋を伸ばして立っている。


 シオンは祖父エルヴィンの前に立つと、貴族の挨拶をした。

 右手を胸に当てて頭をさげる。完璧な所作であった。前世で王侯貴族を散々相手にしてきたので、礼儀作法は全て会得している。


「お爺さま、おはようございます」


シオンは凜とした声で言った。


「ほう。随分とよい挨拶が出来るようになったな、シオン」


 祖父エルヴィンは軽い驚きを碧眼に浮かべた。昨日のシオンとは大違いの挨拶だ。優雅で、かつ男らしい風格さえある。五歳児とは思えない王族のような一礼だった。


「全てはお爺さまの教育の賜物にございます」


 シオンは頭をあげて述べる。


「……何やら、急に頼もしくなったな、別人のようだぞ」


 エルヴィンが白い髭を手で撫でながら言う。


(しまった。やり過ぎたか?)


 シオンは慌てた。考えてみると五歳児なのに礼儀作法が完璧なのはおかしい。

 シオンは前世の記憶を思い出しだのを秘密にしようと考えている。

 そのため、五歳児のシオンらしい行動を取ろうと心掛けているが、中々難しい。


シオンとして生まれ変わってからの五年間の記憶と、前世の記憶や思考が、うまく統合できていないのだ。


(失敗した。怪しまれたか?)


 シオンは恐る恐る祖父エルヴィンの顔を見る。

 エルヴィンは老いた謹厳な顔に微笑を浮かべた。


「さすがは儂の孫だ。儂の才気は確実にお前に受け継がれておるようだな。将来が楽しみだ」


エルヴィンは腕を組んで重々しく頷いた。つられて食堂にいる侍女達も嬉しそうに頷く。ビアンカは誇らしそうに頬を緩ませていた。


(大丈夫だった。あまり心配はいらないようだ)


 シオンは安堵すると椅子の脇にあるお子様用の小さな階段を登って椅子に座る。近衛侍女の一人が無言で小さな階段を下げた。


 食事が始まり、和やかな朝食が開始された。

 紅茶から始まり、ゆで卵、スープ、パン、牛肉のローストが出てくる。 シオンは銀のナイフとフォークを使って、食事を楽しんだ。礼儀作法を完璧にし過ぎると怪しまれるので、五歳児らしい雑な使い方で食事をする。


「ところでシオンよ」


 エルヴィンが、口を開いた。


「なんでしょうか、お爺さま」

「剣術と魔法の修行はどうだ?」


 エルヴィンが問う。シオンは四歳から剣術と魔法の修行をしている。どちらも専任の教育係がいた。


「……精進します」


 シオンは無難な答えを出した。


「うむ。お前の父親も母親も剣術、魔法ともに天賦の才をもっておった。お前はきっと強くなる。怠らずに励めよ」


71歳の老人の声にはわずかに寂しげな響きがあった。


「はい」 


 シオンは頭を下げた。

 シオンの父親ハロルドは、シオンが一歳の時に病死した。そして母親のアリーナは、産褥で死亡した。

 後継者はシオンしかおらず、唯一の孫であるシオンを祖父エルヴィンは溺愛していた。


「さあ、沢山食べろ。そして、はやく大きくなって、子を沢山産め。儂は曾孫を十人見るまでは死なんぞ」


 祖父エルヴィンは快活に笑うとワインを飲んだ。

 祖父の老いた顔に寂しげな色彩が浮かんだ事をシオンもそして侍女達も気付いていた。


◆◆◆◆◆◆



 朝食が終わると、シオンは図書室に移動した。

 学問の授業があるのだ。


 貴族の子息は幼少時から英才教育を行う。シオンもヴァーミリオン伯爵家の次期当主である以上、当然学問をみっちりと叩き込まれる。

 学問の教師はビアンカだった。


 ビアンカは元奴隷である。

 生まれてすぐに奴隷商人に誘拐されて奴隷にされた。

 五歳の時にシオンの祖父エルヴィンに買い取られて自由市民としての身分を貰い、以来エルヴィンに忠誠を誓いヴァーミリオン伯爵家に仕えてきた。元々聡明な彼女は学問、武芸に励み、近衛侍女にまで昇格した。


 一生の全てをエルヴィンとシオンに捧げる事を使命としており、シオンの教育に熱意を持って取り組んでいた。


「さて、シオン坊ちゃま。今日も読書から開始しましょう」


 ビアンカが、眼鏡をくいっとあげた。手には黒い鞭を持っている。


「学問をするのは構わないが、その眼鏡と鞭はどうした?」


シオンが問う。


「これですか? 眼鏡と鞭はエルヴィン様の御命令です。『女教師に必須のアイテム』だと教えて頂きました」


「よし。今すぐ、眼鏡と鞭を捨てろ。俺は祖父に説教をしてくる」


 シオンが、椅子から降りようとするとビアンカが止めた。


「ダメですよ。そんな事を言ってお勉強から逃げてはいけません」

「……分かった。祖父への説教は後にしよう」


 シオンは不承不承、本を読み始めた。

 既に五歳までに文字は読めるようになってある。この時代の文字は、前世にいた時代の文字と類似点が多い。特に文法は近似している。

 今読んでいるのは子供向けの冒険譚の本。地球で言えば桃太郎の絵本のようなものだ。


「読み終わった。違う本を読んでいいか?」


 シオンが訪ねる。


「え? もう読み終わったのですか?」


 ビアンカが驚く。


「ああ、面白くはあるが、少々、物足りない」

「なんだか坊ちゃまは、急に大人びたような物言いをされるようになりましたね……」


 ビアンカが小首を傾げた。

 シオンの碧眼に僅かに動揺の波がゆらいた。


「……いや、面白かった。子供の俺には最適な本だ」


シオンは目をそらして言い直す。


「本当に読んだのですか? チェックしますよ。ウソをついたらお仕置きです」


 ビアンカがくいっと眼鏡をあげた。そして、メイド服の裾を大きくあげ、美しい足を組み替えてわざと太股を見せる。ビアンカの美しい太股が艶めかしくシオンの目に映り込む。ビアンカは二十歳の肉体を持った三十五歳である。若い肉体と成熟した女の色気が混合して凄まじいエロスが滲み出ている。


「お仕置きって何をする気だ? そして、なぜ太股を見せる?」


 シオンが、目を泳がせつつ問う。


「エルヴィン様に、『女教師にお仕置きされるのは男のロマン』と言われました。そして、太股のチラ見せは『幼児の頃から、エロスを叩き込んで早くシオンをエロい男にしろ。なるべく早く曾孫が見たい』とのご命令があるので」


「よし、俺は祖父を殴りに行く。少し待っていろ」


 シオンは決意を固めた。ビアンカは確か一歳の娘がいる未亡人である。そんな女性に何を教えてやがるクソ爺!


「ダメですよ、シオン坊ちゃま。勉強から逃げてはいけません」


 ビアンカは豊満な胸をシオンの背中に押しつけるようにして、シオンの後ろから抱きついた。シオンの背中にビアンカの胸の感触があたる。


「分かった。勉強するから止めろ」


 胸が当たってる!










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