第9話 奏の記憶 ~中編~
「あんな格好..... 見たことない」
三人が後をつけているとも知らず、百香は街の明かりを縫って歩いていく。
絹のドレスシャツにシャープな黒のスラックス。足も踵のあるエナメルの黒いパンプスで、どう見ても普段着とは思えない。
髪を下ろして胸に赤いチーフを差したその姿は、一見気の利いたバーテンダーのようである。
あんなにお洒落をして、いったい何処へ? 誰と逢うのか。
三人がそれぞれ疑問を脳裏に浮かべていた矢先に、百香は心ぶれた路地裏へ入っていく。
「え?」
「こんな所に?」
薄暗い怪しげなシャッター街。何の衒いもなく歩く彼女を見て狼狽える幼馴染み二人を余所に、響は眼を見開いてある一点を見つめていた。
「..........まさか」
そう呟いた彼は、暗がりに消えた百香を追って、だっと駆け出していく。
「響っ?」
慌てて響を追いかけた二人は、彼が呆然と立ち竦んでいる姿に首を傾げた。
そこは地下に続く小汚ない階段。
「おい、響。なんだ? ここ」
「百香が..... いるかも」
階段を降りながら、響は慣れた手つきで通路奥のエレベーターに乗り込んだ。そこには2Bのボタンだけ。
当たり前のようにボタンを押す響。地下に到着し、幼馴染みの二人は扉の開いたエレベーターの外側に驚愕の眼を向けた。
一面に広がるのはシックな造りのロビー。広々とした空間に、赤と黒の紗々が掛けられ、大きなシャンデリアに照らされている。
仄暗く設定した明かりの中で談笑する身形の良い人々。
まるでパーティー会場か観劇場のようなロビーへ足を踏み入れ、響は受付カウンターに向かうと財布から取り出したカードを示す。
「.....三人だ」
「畏まりました」
言葉少なな受け答え。
受付の男性は響に鍵を渡し、傍に控えていた案内係が三人を観客席に案内した。
響が鍵を使って開けた部屋はボックス席。中二階にあたる席の下には幾つかの丸テーブルが見える。
ボックスのソファーに座り飲み物の注文を入れ、深々と腰かける響に幼馴染みの二人は剣呑な眼差しを向けた。
「ここは?」
「アンダー・ザ・ローゼ」
「何ですか?」
「...............」
黙り込む響。さらに問おうとした拓真が口を開く前に、舞台の幕が上がる。
音の洪水が溢れて、いきなり演奏が始まった。
「なんだ.....?」
バンドが演奏する中心には一人のサックス。緩急つけた繊細な演奏に、拓真の耳が奪われる。
優美な物腰で立ちつつも、額に煌めく幾つかの汗。熱のこもる音の濁流に、拓真は同じ音楽畠の血が騒いだ。
真剣な面持ちで舞台にのめり込む彼を見て、響が微かな笑みを浮かべる。
人を惹き付けてやまない氷の微笑。
「ここは..... 知る人ぞ知る高級クラブ。.....不定期開催。オーナーの.....お眼鏡にかなった奏者が見つかると.....開く社交場」
「やるな、あのサックス。見たことない顔だが」
こんな力量を持った奏者が埋もれていたとは。あれなら、俺が支援しても良い、いや、支援したい。
無意識にリズムを踏む拓真を眺めつつ響は説明を続けた。
「ここの.....出演条件は。無名であること」
「こんなクラブがあるとは知らなかったよ。なんで教えてくれなかったんだ?」
怨めしげに藪睨みする拓真に溜め息をつき、ポツリポツリと響は言葉を紡いだ。
聞けば、このクラブメンバーは世襲制。五十年ほど前にクラブを設立した五人のオーナーによって運営されており、部外者には入れない。
人材発掘と趣味を兼ねた遊興場。長い月日に幾らかメンバーは増えたものの、ここに入場出来るカードは超プラチナカード。おいそれと手に入るモノではない。
そう説明して、息切れする響。
「血族.....にしか。.....扉は、開かない。.....俺の爺さんが、オーナーの一人」
五人のオーナーの血筋にしかカードは発行されないのである。金持ちの道楽の粋を極めた遊興場である。
響も生まれた時から、ここのメンバーになっていた。
ぐぬぬと唸る拓真。
「カード一枚で三人まで同行可能」
「なら、お前が連れてきてくれたら良かったじゃないかっ! 何で黙ってたんだよっ!」
「面倒。.....知ったら、お前、開催するたびに.....連れてけって言う。うん」
違いない。
図星を刺されて、ぐうの音も出ない拓真。
それを愉快そうに一瞥し、響は舞台に視線を振る。
あんな艶やかな姿の彼女が目指す先は、ここしか思い浮かばなかった。
このクラブは酔狂なメンバーが無名の新人にチャンスを与える登竜門。
世に埋もれそうな才能を見出だして、パトロンとなれそうな人々に紹介する場所だ。
なので開催されるのは非常に稀。ここに出演した新人には、すぐにパトロンがつきデビューしてしまうから。
開催される場合、メンバーに連絡が入るはずなのだが、今回、響にはそれが無かった。
今まで大して興味もなかった場所なので気にもしないが、百香が関わっているとあれば話が別である。
そうこうしているうちにサックスの演奏が観客の拍手と共に終わり、舞台が暗転すると今度は大きなグランドピアノが現れた。
思わず、ガタっと席から腰を浮かせる響。
やっぱり..........
グランドピアノの席に座るのは百香。
しなやかに指を操り、全身をつかって鍵盤の上を滑らせていく。
緩やかな前奏から始まったのは、ラ・クンパルシータ。
響は無意識にソファーの手すりを掴み、愛しい少女の艶姿に魅入る。
ここに居た。
限界まで見開かれた彼の双眸。
無邪気に瞳を輝かせて鍵盤に指を叩きつけるその姿は、響の心に深く刻みつけられた奏そのものだった。
君は、ここに居た。
楽しい、嬉しいを全身で表現する美しい少女。流麗な調に溺れ、観客らをこれでもかと惹きつけ、百香の演奏が終わる。
一瞬の静寂の後に起こる怒涛の拍手。
それを無視して、響はボックス席から飛び出した。
「響っ?!」
駆け出した響を追って、拓真と阿月も飛び出していく。
響がやってきたのは舞台裏側の控え室。スタッフオンリーの立て札を蹴倒し、彼は爆走した。
しかし、さすがは高級クラブ。当然のごとく立ち塞がるのは警備員。
「これより先は関係者以外ご遠慮いただきます」
筋骨逞しい警備員が、複数の誰かを睨み付けていた。
どうやら出演者に会おうとやぅてきた観客らしい。
「俺の親父はあの芸能プロダクションの会長だぞっ? 通せっ!」
居丈高な男が怒鳴り付けても何処吹く風。警備員は仁王立ちしたままビクともしない。
忌々しげな舌打ちを残して立ち去る男性客達。彼は響の横を通りすがり、ふんっと鼻白んだ一瞥を投げてきた。
それでも響は怯まない。男性客らと入れ替わりに警備員の前へ向かった。
「ピアノ奏者の石動百香と会いたい」
途端にピクリと警備員の眉が動いた。
ここは無名の新人達しかいない。その名前を知る者も皆無と言っていい。
なのに響は彼女の名前を口にした。
「関係者ですか?」
コクリと小さく頷く響。その名前を尋ね、二人の警備員は顔を見合わせる。
「確認してまいります。少々お待ちを」
一人の警備員が踵を返して控え室に向かう。
それを見ていた観客男性達が、眼を剥いて警備員に食って掛かった。
「俺らはダメで、こいつらは良いのかよっ! 何でだっ!」
「ピアノ奏者の方はデビューする気がないのです。なのでスカウトやファンなどは一切御断りするよう言いつかっております」
「なんだとっ?!」
喧々囂々とやり合う男性客らを余所に、戻ってきた警備員が道をあける。
「確認が取れました。秋津様らでお間違いございませんね?」
「ああ」
「お通しして構わないそうです。こちらへどうぞ」
ぎゃんぎゃん叫ぶ男性客らを尻目に、響達三人は警備員の案内で百香の控え室へ向かった。
「ホントに秋津君達だったんだ。 どしたの? こんな時間に」
それはこっちの台詞だ。
拓真は胡乱げな眼差しで百香を見据える。
彼女はティッシュで軽く口紅を拭うと、不思議そうな顔で響を見上げた。
百香の唇に残る仄かな紅の赤味。その扇情的な色合いに思わず喉を鳴らして、響は困ったかのような顔をする。
「いや.....その。あの後、ここを.....思い出して。遊びにきたら。偶然.....お前が演奏してて。.....驚いた」
前者は嘘だが、後者は本当。
しどろもどろにつっかえる響の言葉を、乾いた眼差しで聞く拓真と阿月。
「お前が。.....出演してるなら、.....花でも持ってきた.....のにな」
「やめて~~っ、あんたに花は似合いすぎて、受け取るこっちが恥ずかしくなるから」
顔をしかめてヒラヒラと手を振る百香。しかしその部屋の片隅に積まれた多くの花束やプレゼントらしき包みに響は剣呑な顔をする。
「.....あれは?」
「ああ、差し入れらしい。物好きが多いんだよね、ここ。金持ちばっかりみたいだしね」
しれっと答える百香。
妬みか嫉みか。煉獄の焔をメラメラとさせる響に百香は全く気づいていない。
お前、彼氏面すんなっ! お前だってファンから山のように差し入れ貰ってるだろうがっ!!
己を棚に上げ奉り、嫉妬を顕にする響。だが百香は、のほほんとして、その妬け焦げそうな研ぎ澄まされた眼光をスルーしている。
響の機微には、あれだけ聡いくせに。なぜこれに気づかないのか。
ハラハラと見守る幼馴染み二人を余所に、響は百香に向けて微かな笑みをはく。
「.....どうするの? これ」
「ん? 一応中身を確認して、カードとかを抜いたら養護施設に寄付してるけど?」
あまりの言葉に絶句し、顎を落とす拓真と阿月。百香も普通では無かった。
思わぬ言葉に拓真は嘴を挟む。
「いやっ、寄付って..... 君に贈られた物だろう?」
「アタシにくれたんなら、アタシがどうしたって構わないじゃない」
「それはそうだけど.....」
ファンの心を踏みにじる行為だ。拓真はそう思った。
「中には高価な物とかもあるんじゃないか?」
身につけてもらいたいと、拓真もファンからアクセサリーなど色々もらう。日替わりでつけているが、ブログやツイッターなどで着けて貰えて嬉しいとか書き込まれると、こちらも嬉しくなるものだ。
だがしかし、そんな情緒など持ち合わせてはいない苦学生様。
「ああ、あるね。良いお金になって助かるよ。園長らも喜んでくれてるし♪」
にぱーっと笑う小悪魔。
換金してるよ? と身も蓋もない台詞を宣う百香に、拓真は眩暈を禁じ得ない。
思わずよろけた彼を支えて、阿月も苦笑いしている。
「まあ、価値観は人それぞれですから」
自己満足で贈られた品だ。百香の自己満足に使われたのなら本望とでも思う他はないだろう。
「何時から.....?」
「ん? 高校入学したあたりかな。ファミレスに小さなピアノ置いてるじゃない? サックスやトランペットとか。ギターも」
そういやあったな。小さな舞台横に。
「店長の趣味でね。たまに演奏するんよ。そこで声かけられてさ」
なるほど。
「まだ.....?」
「うん、やるよ。こういう舞台の臨場感は堪らないよね。ラッキーだったな、アタシ♪」
「また.....」
「良いよー、何時でも見に来てよ」
何故、会話が成立する?
響の片言に、正しく受け答える百香。それが間違っていない事は、嬉しげな響の顔で丸分かりだった。
熟年夫婦か、己らは。
ぴったりとした阿吽の呼吸。端から見れば微笑ましいカップルにしか見えない二人に溜め息をつき、幼馴染み三人組は控え室を後にした。
「.....続けてた。良かった」
万感の想いがこもる響の呟き。それを耳にして、拓真と阿月も微笑んだ。
だが次の瞬間、響の眼に炯眼な光が宿る。
「確かめ.....ないと」
低く唸るような呟きをもらして、響はタクシーをとめた。
怪訝そうな顔で拓真と阿月もタクシーに乗り込む。
バタンっとドアが閉まり、走り出したタクシーの中で、拓真は響に何処へ向かうのか聞いた。
「.....親父んとこ」
「響の?」
コクリと頷く響。
何が起きたのか分からないまま、三人を乗せたタクシーは、一路響の父親の会社へと向かっていった。
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