第4話 懐かしい記憶


「ピアノ..........?」


 放課後、生徒会室に向かおうとした響は、つと流れてきたピアノの音に耳を奪われる。

 その儚げなメロディー。これに響は聞き覚えがあった。


 音につられてやってきた響の眼に入ったのは幼い少女の姿。

 全身を使ってピアノを弾く、懐かしい少女の姿。


「.....奏?」


 思わず呟いた響に気付き、少女が振り返る。


「秋津君?」


 そこには百香。


 今のは幻か?


 呆然と立ち竦む響の前で百香はピアノの蓋を閉じ、鍵をかけた。


「空いてる時間だけ借りてるの。たまにだけど」


 ここは音楽室のピアノ。吹奏楽部の休みの日だけ、百香は教師の許可を得てピアノを弾いていたらしい。


「部活には入らないのか?」


「そんな余裕ないもの。今日はバーガー屋のバイトが休みだから、こうして弾けるけど」


 吹奏楽部の休みとバイトの休みが上手く重ならねば弾けない。

 暗にそう語る百香の手を引き、響は図書館の特待生室へ向かった。


「ちょ? なに?」


「.....来い」


 いきなりの事に狼狽える百香を連れて、響はズカズカと廊下を歩いていった。




「ここ..... 図書館?」


 物珍しげにキョロキョロする百香を微笑ましげに見つめ、響はその奥にある扉のキャットにカードを通す。

 すると観音扉の鍵が開き、バンっと開けた正面には見事なグランドピアノが置いてあった。


「なんで、こんな所にピアノが?」


「生徒会長の..... 私物。作詞作曲やってるから。.....ここでも」


 そこで百香は思い出した。生徒会長が某有名レコード会社の御曹司である事を。

 

 だからって私費で学校にグランドピアノを持ち込むって。金持ちのやる事は凄いわね。


 呆れたかのようにポカンとする百香を余所に、響はソファーに寝そべり、囁くような声で小さく呟いた。


「青きドナウ。.....弾いてくれたら、ここのカードやる。毎日、好きなだけ弾くと良い」


「は?」


 訳が分からないが、好きなだけピアノを弾けるのは魅力的だ。

 しかも百香の得意な曲である。

 固唾を呑み、無言で立ち尽くす彼女に、響は質の悪い笑みを浮かべた。


「.....弾けるだろう? 得意だったものな」


 ぞわりと百香の背筋が凍る。


「あんた、何で知って?」


 あからさまな警戒を浮かべた百香の一瞥から顔を逸らし、響はぶっきらぼうに答えた。


「弾いたら教えてやる」


「~~~っ!」


 苦虫を噛み潰したような顔で、百香は椅子に座るとピアノの蓋を開く。

 手入れの行き届いた鍵盤に、そっと指を滑らせ、彼女が至福の笑みを浮かべたのを響きは見逃さなかった。


 ああ、懐かしい顔だ。


 こうして、彼は数年ぶりに愛しい少女の演奏を堪能する。




「何だ? ピアノ?」


 生徒会長の拓真は軽く眼を見開く。

 阿月も珍しく驚いたような顔をしていた。


 二人は待っていてもやってこない響を探して、特待生室を確認に来たのだ。

 暇があれば、彼がソファーで昼寝をしているのを知っていたから。

 モデルの仕事で忙しい響を、なるべく休ませてやりたい二人は、極力それを邪魔しない。


「しかし、これ。上手いな。誰だ?」


「音楽室ではないですね。これ、図書館から聞こえません?」


 図書館にあるピアノと言えば、特待生室のグランドピアノだ。

 特待生室は、拓真が趣味で置いたピアノやオーディオがある。それに伴い、完璧な防音もされている。

 こうして微かにでも聴こえてくると言う事は、窓が開いているのだろう。


 二人は顔を見合わせて、すさささっと特待生室に向かった。


 そして鍵をあけて扉を開くと、微かな音がハッキリと聞こえてくる。

 

 豊かな情感ののった見事な演奏。

 思わず拓真は背筋を、ぶるりと震わせた。

 音色が彼の全身を粟立たせる。畠は違えど、同じ音楽に通じる者として、拓真の敏感なセンサーは、目の前の少女に己と同類な才気を感じていた。


「.....おいおい、何だよ、これはっ?」


 思わず呟いた拓真の言葉に、ピアノを弾いていた少女が顔を上げる。

 ピタリと演奏が止まり、気だるげに響がソファーから身体を起こした。


「響か? 凄いの見つけてきたなっ!」


 興奮して喜色満面な拓真。


「素晴らしい演奏ですね。驚きました」


 阿月も、うんうんと頷いている。


 そんな彼等を冷めた眼で見つめ、百香は響を睨み付けた。


「さあっ、弾いたわよっ? あんたの知ってる事を教えてよっ!」


 素直に激情を顕にする百香をぼんやりと眺め、響は思わぬ台詞を口にする。


「.....まだ弾き切っていない」


「殆ど弾いたじゃないっ!」


 確かに拓真らの乱入で演奏は途切れた。しかし、残り数小節。弾き切ったと言っても過言ではないはずだ。


「.....一曲の約束」


 こんちくしょうがっ!!


 忌々しげな眼差しで響を射抜き、百香は残り数小節を弾こうと鍵盤を弾いた。

 すると響は不機嫌そうな顔で首を横に振る。


「.....続きからじゃなく、一曲」


「また最初から弾き直せってのっ?!」


 百香は、知らず知らず、演奏の邪魔をした拓真達を睨み付けてしまった。

 それに気づいた二人も、百香のフォローに回る。


「何の話しか分からないが、俺らが邪魔しちまったんだよな? すまんっ!」


「ごめんなさい。響、彼女に意地悪しないで?」


 オロオロする二人に、響はまたもや首を横に振った。


「.....未熟。プロなら、それくらいで演奏を止めたりしない」


「アタシはプロじゃないっ!!」


「..........でも、目指してた」


 据えた眼差しの響に、百香の顔が凍りつく。


「なんで.....? あんた、何者なのよっ?!」


 記憶を持たぬ百香にひとつだけ残されたモノ。それがピアノに対する情熱だ。


 何故か分からないが百香はピアノが弾けた。

 貧乏な養護施設には古びたピアノがあり、毎日のように彼女はピアノを弾いていた。

 百香の腕は超一流。

 それを耳にした好事家が彼女に支援を申し出てきた事もある。

 しかし、養護施設のためにお金を稼ぎたかった百香は、それを断り、こうして苦学生の道を選んだのだ。


 でも、心に降り積もるピアノへの執着は消せない。


 それを見透かされた気がして、百香は動転する。さらにその台詞は、百香の知らない何かを彼が知っているのだと仄めかしてもいた。


 ガタンと椅子から立ち上がり、少女は信じられないと言った眼差しで響を凝視する。


「..........あんた、何なのよ?」


 恐怖にやや脚を縺れさせ、百香は踵を返すと、凄い勢いで特待生室を飛び出して行った。


 それを無言で見送り、響は小さく溜め息をつく。


「なあ? あれって一体、どういう事なんだ?」


 恐る恐る尋ねる拓真。阿月が扉を閉めたのを確認し、響は重い口を開いた。


「.....彼女は奏だ」


「かなで.....って、おまえの幼馴染みのっ?」


「え? 亡くなったと聞いた彼女ですかっ?!」


 驚く二人に、響は頷いた。


 そしては、百香を見つけてからの話をする。




「それはまた。なるほどな。それなら、おまえの態度が柔らかいのも分かるわ」


「ですね。植え込みの一件、皆で首を傾げていたんですよ。彼女が奏さんだと言うなら、納得です」


 二人は知っていた。奏という少女が、幼い響を壊してしまった原因である事を。

 それほどまでに愛していた少女が目の前に現れたのならば、居ても立ってもおられまい。


 うんうんと頷く二人の前で、響の顔が歪む。


「.....なんで忘れてる? 俺とアイツには絆があった。なのに何故?」


 今にも泣き出しそうに悲痛な顔の響。それは拓真と阿月が数年ぶりに見る、彼の年相応な顔だった。


 感情が完全に欠落していた響に、それが戻り始めている。

 友として、これを応援しない選択肢はない。

 軽く思案し、拓真はアレコレと口にしてみる。


「俺が援助するのはどうだろう? あれだけの才能だ。野に放置するのは惜しいし」


 忖度なしな拓真の言葉。


 彼の本音なのだろう。


「.....無理。俺、調べたんだ。アイツ、養護施設にいた。小さい頃の記憶がないらしい。.....で、同じように、援助を申し出た人もいたみたいなんだけど。アイツ、断ってるんだ」


 おまえ、いつの間にそんな長文を口にするようになったんだ?


 二人は別の意味で顔に驚嘆を浮かべる。

 今まで片言の返事ぐらいしか口にした事がない響が。説明すらも面倒そうに鼻白らんでいた響が。


 感無量に天を仰ぐ二人。


 響の春の到来を、心から喜ぶ拓真と阿月だった。


 オカンか、お前らは。


 呆れたかのように二人を見つめる響だが、その二人の気持ちが面映ゆく、ついつい口元が綻んでしまう。


 全力で響に協力すると言った二人は、取り敢えず静観を勧めてきた。


「今は待つしかないだろう。彼女が卒業近くなって、将来を考えるようになった頃、改めてスカウトしてみるとか」


「ですねぇ。今は、たぶん頑なだと思います。自分でという気持ちが強いのでしょう」


 先ほど見た百香と、響からの話を総合し、二人は彼女が施しを受ける事を忌避しているのだと考えた。

 そして、その見解は正しい。正しいのだが、納得出来ないバカがいる。


「.....バーガー屋で、アイツに善からぬ視線を向けてた奴がいる。早く辞めさせないと」


 ..........おまえ、俺らの話を聞いていたか?


 じっとりと見据える二人の視界で、響は独りごちていた。


「.....仕事か。なにか融通出来ないかな。外には置けない。奏は可愛いから危ない」


 ブツブツと呟かれる思考。だだ漏れなソレがエスカレートしていっている気がする二人は、神妙な顔を見合わせて頷いた。


 コイツを止めねば。


 応援はするが、暴走はさせない。


 響が人として道を踏み外さぬよう、眼を光らせる事を心に誓う拓真と阿月である。


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