第3話 掴み取れない記憶


「さってと。急がないとね」


 ただいま午後三時半。何事もなく授業も終わり、百香は急いで昇降口へ向かう。

 今日からバイトのシフトが入っているのだ。

 五時から八時まではハンバーガーショップ。八時半から十一時まではファミレス。

 それぞれ週に五日、土日は両方で、比較的余裕のある収入になる。


 何より、どっちも賄いがつくのよね。夕食が浮くし上手くすれば翌日の朝食にも回せるし♪


 思わず顔を綻ばせる百香に、柏木が声をかけてきた。


「鎮海さん、良かったら皆と御茶をいたしませんこと? 美味しいカフェを見つけたのですって。これから皆と参りますの。御一緒しませんか?」


 おっとりと首を傾げて、彼女は友人らしい女生徒らと立っている。

 柔らかく微笑む可愛らしい女生徒達。

 誘いは非常に嬉しいのだが、百香の生活がソレを許さない。


「ごめんなさい、これからバイトに行かなきゃならないの。誘ってもらえて凄く嬉しいんだけど。ほんと、ごめんなさい」


 拝むように両手を合わせる百香。

 それに眼を見張り、女生徒らは顔を見合わせる。


「そうでしたの。宜しくてよ。事情があるのですものね」


 にっこりと快く頷いてくれるクラスメイト達に、申し訳ない気持ちを抱きながら、百香は慌てつつも廊下を早足で歩いていった。


「バイトって、アルバイトですわよね?」


「苦学生でいらっしゃるのよ、お気の毒に」


「キチンと御自分で賄っておられるのね。立派だわ」


 ほんのりと同情を浮かべて見送る女生徒達の中で、何故か柏木だけが蛇蝎を見るが如く、辛辣に眼をすがめていた。




「ヤバいヤバいっ、思わぬ時間を食っちゃったっ」


 アルバイト先は学園から徒歩で四十分ほど。

 授業の終わりと照らしても余裕のある出勤時間を想定していたのだが、教室から昇降口までの時間を計算していなかった。さらには昇降口から門までの時間も。

 無駄にデカイ建物と校庭は、門にたどり着くまでに二十分も食わせ、途中で柏木達と話し込んだロスタイムも加わり、走っても時間内につけるか際どい有り様だった。


 初日から遅刻とか、ないないないっ!


 疾走する不動学園の制服に、通りすがった人々が、立ち止まっては振り返る。

 まるで珍獣を見るが如き眼差しに、百香は苦虫を噛み潰した。


 えー、えー、そりゃあ珍しいでしょうよっ! あの金持ち学園の生徒が髪を振り乱して全力疾走とかっ!


 無心で走り続ける百香の横で、甲高いブレーキ音が聞こえる。


「おいっ! どうした?」


 そこに居るのは草部。部活用のジャージ姿で自転車に跨がっていた。


「.....はっ、ごめん、急いでるのっ!」


 振り返っただけで速度を落とさず、百香は手短に答える。

 その彼女を自転車で追いかけ、草部は百香の前に回り込み、彼女を止めた。


「急いでるんなら乗れよ。送るからさ」


 一瞬、迷った百香だが、背に腹はかえられない。


「お願いしますっ!」


 草部は百香を後ろの荷台に座らせ、駅前のハンバーガーショップへ行きたいのだという彼女に頷き、力一杯ペダルを漕いだ。



「十分前ーっ! セーフだっ!」


 転けつまろびつ自転車から飛び降りた百香は、草部に深々と頭を下げる。


「ありがとうっ、助かりましたっ!」


「いや。俺も部の買い出しに出たついでだから。バイトだろ? 頑張れよな」


「うんっ! 私がシフトの時に来てくれたら、ポテトのサービスするねっ」


 屈託なく笑い、百香は店の裏口へ駆け込んでいく。

 それを見送り、草部は眼に弧を描いた。百香の頭で、揺れる尻尾が可愛らしい。

 何となく好い気分で、彼は学園へ自転車を走らせる。買い出し云々は出任せだ。彼女の心に負担をかけないための。

 たまたま通りすがっただけだが、幸運だった。彼女の窮地を救えたのだから。


 帰りにでも店に寄ってみようかな。いや、それだとポテト目当てに来たみたいで、何か嫌だ。

 また、折を見て覗きに行こう。


 知らず上がる口角を自覚しないまま、草部は鼻歌混じりに駅前をあとにした。



「いらっしゃいませーっ」


 遅刻を回避した百香は、上機嫌で接客中。


 ほんとに助かったわ。初出勤で遅刻なんてしたら、心象最悪だっただろうし、草部君に感謝しないと。


 商品をお客様に渡しながら、百香は心の底から安堵に胸を撫で下ろした。

 そして来客のベルが鳴り、慌ててカウンターへと足を向ける。


「いらっしゃいませ、御注文は御決まりですか?」


 にっこり微笑む彼女の前で、サングラスをかけた人物が、ぽかんっと口をあけた。

 ジャケットのフードを目深にかぶり、口元しか見えないお客様。

 無言で見つめてくる男性に、百香は首を傾げる。


「お客様?」


「あ...... いや」


 つと口元を押さえ、しばし固まった男性は、物憂げにサングラスをずらした。

 そこには感情の欠片も見えない薄茶色の瞳。


「秋津君?」


「ああ。ここは良く使う。.....バイトか? 何時から?」


「今日からなの。御贔屓にしてね」


 にぱーっと快活な微笑みを浮かべる百香。彼女の営業用ではないスマイルに、周囲の男性らからも視線が集まる。

 その男どもに冷たい一瞥をくれ、響は自分に向けられた親しげな百香の笑顔に胸を高鳴らせた。


「そう.....か」


 またも微かに上がる口角。


 百香は不思議そうな顔で、響を見つめる。


 殆ど表情がないのに、何故か彼の喜怒哀楽が分かるのだ。おかしい話だ。


 そんな事を考えていた彼女の耳に、しっとりとした声が聞こえる。


「ハンバーガー五つと、チーズバーガー五つと、ナゲット三つと.......」


 次々入るオーダーに、百香は眼を丸くした。


「凄い量だね。友達でも来てるの?」


 何の気なしの素朴な疑問。


「いや。俺一人だけど?」


「はい?」


 え? この量を一人で? え?


 あからさまに狼狽える百香に眼を細め、響はコテリと首を傾ける。


「一度に食べる訳じゃない。......まあ、二日くらい? 買い置きをレンチンして食べてるかな」


 あ~、そう言う。


「一人暮らし?」


「そう」


 男の子だなぁと百香は思う。


 だがしかし、これらは所詮ジャンクフードだ。栄養など考えてはいない、カロリー過多、塩分過多な食べ物である。ハッキリ言えば成人病予備軍量産食。

 口はばったい事は言いたくないがと思いつつも、彼女は商品を手渡すさい、響に小さく耳打ちした。


「身体に良くないよ。お金はあるんでしょ? せめて食事処とか、暖かくて栄養のあるモノを食べなよね」


 一瞬呆けた響だが、次には花のような笑みを浮かべる。それは彼女が初めて見る、彼の満面の笑顔だった。


 そんな顔も出来るんじゃん。


「そうだな。意識してみるよ。.....また来る」


 来んなっ!


 意識してみると言った口からまろびた本音。


 あんた、食生活改善する気ないでしょーっ!


 喉元までせりあがった言葉を無理やり呑み込み、百香は営業スマイルを張り付かせつつ、響を見送った。


 そして仕事も終わり、百香は賄いでもらったハンバーガーのセットを懐に抱えて帰宅する。

 まだ暖かいソレに、彼女は苦笑した。


 まあ、アタシも人の事は言えないけどさ。


 食費を浮かすため、賄い目当てでバイトを決めた百香である。

 彼女の収入は、ハンバーガーショップが月額七万円ほど。ファミレスが十万円ちょっと。

 ファミレス側で保険や年金を納めているので、税金を抜いても手取りで計十五万程度になる。

 内、家賃に三万、光熱費に一万。スマホなど雑費が一万。食費が五千円ほどで、緊急用に三万を常備し、二万を貯金に回すと、五万弱残るのだが、彼女はそれを自分が出身した養護施設に寄付していた。

 

 得体の知れない百香を分け隔てなく育ててくれた老夫婦。

 貧しい養護施設は、国の支援を受けていても、常にカツカツな状態だった。

 周囲の善意に支えられ、訳ありな子供でも快く引き取り、そのせいで赤字経営に苦労している。

 頭数に入れられない子供達が多く、申請が通らないため、ほぼ自費で運営されているようなもの。

 幸い老夫婦は養鶏を営んでおり、子供らが手伝い何とか口を糊していた。

 たまに善意からクーラーなどの寄付も申し出られるが、園長らはその全てを断っている。

 家電があっても、それを動かす電気代がないのだ。

 あるのに使えない贅沢品は、かえって子供らの心を荒ませてしまう。


 クーラーとまでは言えなくても、せめてテレビくらいは好きに見させてあげたい。


 そう考え、百香は節約を重ねて作ったお金を老夫婦へ援助する。

 卒園生の暖かな気持ちを無下にも出来ず、園長らは渡される封筒を額づけては、ありがとうと涙を零していた。


 感謝したいのは、こちらの方なのに。


 百香は唇を噛み締める。


 彼女は発見された時、それまでの個人的記憶を一切失っていた。

 言葉もおぼつかず、時折うなされ、悲鳴を上げ続ける彼女を、前の養護施設の職員らはもてあまし、疎ましげに放置していた。

 たまたま見学に訪れていた老夫婦が、その惨状を目にし、自分らの養護施設へ引き取ってくれたのだ。

 訳も分からぬ恐怖から泣き喚き、日がな一日布団に籠る百香を、老夫婦は根気よく面倒をみて、愛し慈しんでくれた。

 今でもときおり、百香は無性に泣きたくなる事がある。

 何故だか分からないが、胸の奥が灼けるようにひきつれ、感情のまま叫びだしたい衝動に駆られたりもする。

 だけど老夫婦の労りが、今の百香を作ってくれた。

 泣かなくて良いのだと。何故に哀しいのか、怖いのか分かってはやれないが、自分達はここにいる。

 何時でも百香の傍にいるから、怯えなくても良いのだと、彼等が教えてくれた。

 全力で暑苦しいまでの愛情に包まれて、今の百香がある。

 だから百香も全力で彼等を支えるのだ。

 それが分かっているから、老夫婦も彼女の援助を断らない。


「家族だもの。子供が親を助けるのは当たり前じゃない」


 そうか。と、顔をくしゃくしゃにして百香を抱き締めてくれる二人。

 支え、支えられ、幸せな日々を作るのだ。

 それを教えてもらった恩は、こんな些細な事では返せないが、しないよりはマシだろう。


「明日も頑張らなきゃねっ」


 悲壮感の欠片もなく、節約生活や、僅かずつ増えていく貯金に毎日を楽しんでいる百香だった。


 彼女が能天気なのは意図してそう育てられたから。

 百香の心の奥深くに眠るトラウマは、一瞬でその身をズタズタにする凄惨なモノ。

 それを知る人物が、彼女の心のダメージを減らそうと、幼い頃より意図的に百香を楽観的な性格へと誘導した。

 その謀は功を奏し、百香は大抵の事では揺るがない、図太い人間へと成長する。

 

 結果がどうなるのかは、その人物にも分からない。


 その人物の願いは、ただただ百香が幸せな人生を送る事。


 人生、何が転機となるかは神のみぞ知る。


 こうして怪しげな気配をチラホラさせつつ、百香の高校生ライフが始まったのだった。

 

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