エピソード2第12話 男のおつかい
亜紀の足音を聞くと、背筋がピンと伸びた。それは、上司が近づいたときの嫌な感じのピンだ。
廊下とキッチンをつなぐスライドドアが開く。俺はごまかすように料理本をながめているふりをした。
「八時過ぎたけど、ごはん、できた?」
ずっと寝てたのか、亜紀はぼんやりとした顔つきでぐるりと部屋をながめた。
「そっか、掃除してくれたのか」息をはくようなひとりごとだった。舞奈と寿也は畳の部屋でくっつきあって寝入っていた。
「それが……、ごはんは作れなかったんだ」俺は白状した。
「ああ、やっぱり」亜紀は俺を見て、そうだろうなとつぶやいた。「でも、今から何か作るんじゃ大変だよ」言いながら、冷蔵庫を開け「簡単に作れるの、なんにもないねー」とひとりごとのように言った。
「スーパーでさ、煮るだけのうどん、買ってきてよ」
「え?」頭のなかをカップうどんがよぎった。
「どん兵衛とか?」尋ねると「ちがーうっ」と亜紀はなかば叫んだ。
「いつだったか作ったことあったじゃん。アルミのお鍋にうどんとか天ぷらとか入っててさ、つゆと水を入れて煮るだけのやつだよ」
「え」そうしたうどんは、俺の記憶には見つからない。
「乾麺を茹でるんじゃ、ダメか?」
「乾麺じゃ、あったかくして食べるには面倒じゃん。アルミのうどんのほうが火にかけるだけですぐできるよ」
「そうか……じゃあ、買ってくるか」
「お店入ってすぐんところにお惣菜売り場があるじゃん。その後ろの左っ側に焼きそばとか生めんとか陳列されてる棚があるから、そのあたりにあると思うよ」
「わかった」
俺は仕事用の鞄に入れていた財布をズボンのけつのポケットに入れ、椅子に掛けっぱなしにしてあるジャケットを羽織った。スーパーへ行くのは、何か月ぶりだろうか。
久しぶりにきたスーパーは、食べ物であふれていた。これほど食べ物があふれた世界にいるのに、食べ物に飢えている人間がいることが不思議だった。けれども、それはそうだ、ここにある食べ物は金がなくては買えないのだからと思い直した。
入ってすぐに果物売り場があった。遅めの時間だからか、値引きされた苺がいくつもあった。「やっすいな」その苺を手にとった。苺なら、亜紀も子どもたちも喜ぶだろう。苺をかごにいれながら、ぐるりあたりを見まわした。惣菜はどこにも売られていない。
入口はふたつあった。惣菜売り場があるのはもうひとつの入口のほうだったのだろうか。久しぶりにスーパーへきたついでに、店内をぐるりと眺め歩きたくなった。青果売り場を通りすぎ、魚売り場にたどりついた。売れ残った刺身にも値引き札が付けられていた。まぐろが半値になっていたのでかごにおさめた。
精肉売り場を通りすぎ、ハムやチーズの陳列棚へきた。Kiriのクリームチーズを見つけた。これ、うまいんだよな、思わず手が伸びる。
菓子パンや団子、和菓子類の陳列された棚を通りすぎると、ようやく惣菜コーナーが見えてきた。煮物や野菜くずを詰めただけのサラダがならび、そのとなりに揚げ物がケースに入れられならんでいた。トングでパックに詰める様式になっている。プラスチックのパックにハムカツ、チキンカツ、唐揚げ、エビフライを詰めた。その反対側に亜紀が言っていた麺のコーナーがあった。アルミのうどんはきつね、たぬき、肉の三種類だった。もちろん肉だろう、舞奈の分もと思ってみっつ買うことにした。
レジへ進もうとしたら、途中でアルコールのコーナーを見つけた。ちょうどビールを切らせるころだった。六缶パックのビールをひとつと亜紀にフルーツ系のサワーをひとつ買った。
会計をすませて車にもどると、時刻はすっかり九時近かった。亜紀も子どもたちも待ちくたびれているかもしれない。思いながら、アクセルを踏んだ。
家に着くと、玄関を開けたとたん妙な雰囲気を感じた。それは直観とも呼べるものだったかもしれない。
廊下からキッチン、リビングへとつづくスライドドアを開けると、「遅いっ」とまっさきに声が刺さった。
「うどん買うのに、一時間もかかるの?」亜紀がほとんど叫んでいた。
「ご、ごめん」どもりながら謝った。「久しぶりにスーパーへ行ったもんだから、つい、いろいろ買っちゃって」
亜紀は俺の持つ荷物を、目が剥き出るほど見開いてみた。
「何、これ」
「だから、いろいろだよ」
購入した品々をキッチンの台にのせていく。そのさまを亜紀がじっと見ている。
「パパ、お腹空いたよぉ」といつの間にか目をさました舞奈も寄ってきた。
「ほら、舞奈に唐揚げ買ってきてやったぞ」
しばらく閉口していた亜紀が「あのさ」と口を開いた。
「私、お腹こわしてるんだけど……」
「え」
「だからさ、お腹こわしてるから、こんな揚げ物食べられないし、刺身だって無理。苺は、ちゃんとパックの裏側まで見た?」言いながら、亜紀が苺にかぶせてあった透明カバーをペリリとはがす。苺をざるにあけると、下のほうにあった苺数個がつぶれたり傷んだりしていた。「ほら」亜紀はそれみたことかと言わんばかりに俺の顔をみた。
「だけど、値引きしてたし、こんなもんだろ」
「値引きしてたってことは、味も落ちてるよ」
「買ってきてもらっといて、それはないだろ」
「……」亜紀はふたたび閉口し、ため息をつきながら大きく肩を落とした。けれど、「ま、でも、ありがとう」小さく力ない声ではあったが、亜紀はアルミのうどんのビニルを剥がしうどんやつゆをセットしはじめた。
また喧嘩になるのかと一瞬身構えたが、めずらしく亜紀のほうから矛をおさめたようだった。
「いっしょにやって」と言うので、俺もとなりでほかのうどんのビニルをはがしはじめた。
待ちきれなくなった舞奈が唐揚げに手をのばし、口に頬張った。「おいしぃ」と温めてもいない唐揚げを咀嚼する。
畳の部屋で寝ていた寿也が目をさましたのか、ふにゃふにゃと泣きだした。
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