エピソード2第11話 がんばろうぜ

 いつのまにか頭のなかでエレカシの「さあ、がんばろうぜ!」が繰り返されていた。頭のなかはぎんぎんに煮えたぎっている。時刻は間もなく夜の八時をまわるところだった。けれどもキッチンには料理の助走すらはじまる気配はなかった。

 あれから服を着替え、どうにかこうにか寿也がオムツをひっくり返したあとの床を始末し、始末といったって言葉でいうほど簡単でない。おしりふきで床に転がった寿也のクソを拾い集め、それらがだんだん栗やどんぐりに見えはじめ、その床もおしりふきで拭きとったけれど臭いが残っている気がしてたまらず、雑巾で水拭きしたけれどもどうにも気持ちがおさまらない。キッチンの引き出しをあちこちあけたらアルコールスプレーがあったので、最終的にそれを床に何度もスプレーした。

 オムツを替えてもまだ泣く寿也には、舞奈におしゃぶりをその都度いれてもらってごまかしごまかし作業した。寿也は口にいれられたおしゃぶりをなんどか吸って、何も出ないとわかるとべっとそれをだし、また、泣こうとした。

「パパー、泣いちゃうよ」としょんぼり舞奈が言うのを「ここが済んだら、飯を食わせるから」と声をかけ、作業をつづけた。

 なんとか床掃除をすませたあと、寿也の離乳食を温めようと食器棚にならんでいたパックや瓶詰を見ていたら「舞奈もお腹、空いてるんだよー」と舞奈がそばにきた。舞奈のご飯はどうしようか考えていたら、「舞奈もこれ、食べたい」とすっかりぬるく伸びきったカップヌードルを指さした。

「こんなのでいいのか?」

「いいよー」

 カップヌードルのカップから半分ほどをお椀にとりわけ、差しだした。舞奈はうれしそうに「ありがとう」と目を細めた。

 寿也の離乳食はけんちんうどんと書かれた瓶詰にした。そのままレンジに入れようとしたら「それ、お皿にいれるんだよー」と舞奈に教えられた。三歳の舞奈にこれほど助けられるとは思ってもいなかった。

 舞奈のとなりの席に離乳食を置き、ぐずぐず泣く寿也を膝に抱っこした。寿也は離乳食に気づくと右手をそこにのばした。

「だめー」とその手を制止し、スプーンを奪うとたちまち火がついたように泣き出した。すかさずその口のなかにうどんをのせてやる。けれども寿也はそれをべっと出して泣き止まない。舞奈が「これ、最後だよぉ」と言いながらバナナを持ってきた。皮をむき、手で先端をちぎって「ほら、ひさ、食べて」と口にあてがうと、寿也はぴたりと泣き止んでバナナを口に入れむしゃむしゃと食べた。

「またかよ」と思ったが、そのあとはなかなか順調で、寿也はバナナを片手に握りつぶしながら離乳食をつぎつぎほおばった。ときおり自分が握りつぶしたバナナをかじったりもした。食べ終わると、寿也の手やら口周りやらスタイやら食べものでぐちゃぐちゃで、それらを始末しなくてはならなかった。

 ようやく自分のカップヌードルにありつけたころには、空腹感もどこかへ失せていた。のびきった冷たい麺をすすると、どこか辛辣な気持ちになりかかったが、そこにまたエレカシの「さあ、がんばろうぜ!」が声をかけてくれた。

 ようやく満たされたらしい寿也はあちらこちらに調子よくはいはいしてはにこにこ笑った。辛辣に染まりかかった俺の気持ちも、その笑顔によって達成感のような感動に色が変わって満たされた。

「よしっ」と気合をいれ、舞奈といっしょに散らかりほうだいの部屋を片づけた。一か所片づけると、一か所を寿也がひっくり返すので、なかなか片づけるのも至難だった。ようやくなんとなくけりをつけ、掃除機をかけた。最後に掃除機をかけたのはいつだったのか、部屋の隅には子どもの菓子の食べこぼしや亜紀と舞奈から抜け落ちた長い髪があちこちに落ちていた。掃除機をかけはじめると、埃やそうしたゴミが吸いとられていくさまが気持ちよく、適当に済ませるはずがソファをずらしたり、キャスター付きの棚をつぎつぎどけたりしながらやめられなくなった。掃除機のかけ終わった絨毯のうえを舞奈と寿也がまた散らかしはじめたが、掃除機のかかり終わった部分には目をつむることにした。すっかり掃除に没頭し、そしたらコンロが汚れていることに気がついた。一度気になりはじめると、どうにも気持ちがおさまらなかった。掃除の仕方を知らなかったが、食器洗い用の洗剤を泡立てたスポンジでコンロをこすり、適当な布巾で泡を拭ってはすすいだ。何度も布巾で拭きとっていくうちに、コンロはすっかりピカピカになった。その作業が終わったらすっかり気持ちが晴れたが、時刻は夕飯時を過ぎていた。

 ようやく我にかえり、時計とにらめっこをした。

 俺はこの人生において、ただの一度も料理をしたことがなかったのだ。うっすら憶えているのは中学校の家庭科の調理実習くらいだろうか。そのときだって、とりわけ何かした記憶はない。みんな周りのクラスメイトがやってくれたんだと思う。俺は、ひたすら洗う係だったはずだ。

 キッチンの食器棚の一角に料理本が数冊置かれていたので開いたが、読んでもちんぷんかんぷんだった。そもそも米の炊きかたなんてどこにも書かれていない。

 どうしたものかと思っていると、二階から亜紀のおりてくる足音がした。

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