エピソード2第10話 任務遂行中の悲劇

 亜紀が行ってしまい、急に心細くなった。何から始めたらいいだろうか。キッチンには舞奈の食べたあとのどんぶりとうどんを煮た鍋が流しのなかに無造作に置かれている。部屋は舞奈が遊びに遊んで散らかっている。寿也は今のところ静かに眠っているようだ。部屋じゅうを見まわしたところで腹がグゥと音をたてた。空腹なのを思いだした。

「ひどくねぇか、うどんを煮たんなら俺も呼んでくれればよかったのに」さっそくひとりごちた。「パパ、食べるかどうか分かんなかったでしょー」と舞奈がまた、知った風なくちをきく。いつのまに達者にしゃべるようになった。舞奈はズズズと音をたて、うどんの汁をぜんぶ飲んだ。

「お父さんだって、何も食べなければ腹がへるんだよ」

 冷蔵庫を開けるが、めぼしいものは入っていない。冷蔵庫のふたつきの段を開けるとハムとチーズをみつけた。パッケージを開け、そのまま口に入れた。「パパ、げっひーん」と舞奈が言う。それを無視して、こんなんじゃ腹の足しにもならないとさらにキッチンをぐるり見回すと、食器棚のうえにカップラーメンの段ボールをみつけた。冷蔵庫を閉めると、背伸びして段ボールをおろした。なかにはずらっとカップラーメンが敷き詰められていた。

 一個の蓋をあけ、ハムとチーズを突っこんだ。薬缶を火にかける。

「いいなー、舞奈もハム食べたーい」いつのまにか舞奈がとなりにきて、残ったハムをつまみ食いした。

「もっと食べるか?」冷蔵庫には三パック連なったハムが、残りひとパック残っていた。冷蔵庫からそれを取りだすと、パッケージを引っぱって開け、舞奈に手渡した。舞奈は「げっひーん」と言いながら、うれしそうにそれをくわえ、むしゃむしゃと食べた。

 ピーピー薬缶が鳴ったので、カップヌードルの蓋を開け、湯を注ぐ。湯気がふんわり塩辛い風味を漂わせた。タイマーのボタンをニ分にセットし、スタートボタンを押す。パッケージには三分と書かれているが、いつも二分後麺をひっくり返して食べている。そのころがいちばんちょうどいいのだ。

 よーしっと思ったところで、寿也がふにふに声をあげはじめた。おい、と胸のうちで舌打ちし、寿也よ、また寝ろ、と念じる。意に反してその声はしだいに猫の泣き声のようになり、しまいにはけたたましい赤ん坊の泣き声となった。

「はいはい」言いながら、寿也に近づいた。オムツかな? ズボンをおろすともわっと鼻をつくような臭いがした。「ああ、きたか」自分ひとりではほとんど替えたことがない、大きいほうだ。肩を落としたところで寿也の泣き声にかぶさるようにカップヌードルのタイマーが鳴った。

「パパー、タイマー、鳴ったよ」舞奈がタイマーを持ってかけてくる。

「ちょうどよかった、舞奈、寿也の足をおさえてくれ」舞奈からタイマーを受けとり、アラームを消す。「いいよー」と舞奈は気前がいい。新しいオムツとおしりふきを手元に置き、寿也のはいているおむつのテープをぺりぺりとはがした。おむつをあけると大人顔負けのごりっぱな。寿也は仰向けでいるのを嫌がり、体をよじらせようとする。「だめだ、寿也」叫ぶが、「くっさーい」舞奈も叫んで寿也の足を離した。たちまちくるりと寿也は体を回転させ、その瞬間はいていたオムツもひっくり返った。

 悲劇だ。

 悲劇としか言いようがない。

「きったなーい」言いながら舞奈は逃げるようにおもちゃのほうへ走っていった。

 テーブルのうえに置かれた新聞が目に入った。とっさに床に広げ、寿也を頭のほうからかぶさるように抑えつけた。左半身で寿也を抑えつけ、右手で尻をぬぐう。寿也は泣きながら放尿もした。俺のトレーナーがぐっしょりとぬれた。

 ひるんではいけない。思って、すっかり寿也の尻をつるりとぬぐいきると、新しいオムツをあてがいテープをとめた。尻が覆われると、ようやく勝負がついたような気持ちになった。

 けれども、俺のトレーナーといい、オムツのひっくり返った床といい、勝負はまだまだこれからなのだった。

 キッチンでゆっくりとカップヌードルは伸びていく。

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