エピソード2第9話 妻による教育

 俺は気持ちを軽くしようとトントン足音をたて、景気よく階段を降りていった。喧嘩のあと自分から謝りにいくのははじめてだった。いつもは夕食の時間に子どもたちが起こしにくるので、誤魔化すように一階へ降りていっしょに食卓へ着いていた。一応「ごめん」と小声で言うもののその先はうやむやになったまま、亜紀は「謝ったって何も変わんないでしょ」と冷たく言いはするけれど、日が経つにつれふつうに話しかけるようになっていく。そのことに甘んじている部分は大いにあった。


 亜紀は子どもたちとうどんを啜っていた。引き戸を開けたとたん、だし汁の香ばしいにおいがふんわり漂ってきた。

 亜紀と舞奈は俺を一瞥し、すぐに自分たちの器に視線をもどすと黙々とうどんを食べつづけた。

「俺の分は?」冗談でたずねたつもりだったが、亜紀は無視を決めこみうどんを食べつづけている。俺はおちゃらけたよう「冗談だよ、冗談」と笑ってみたが、空気は重たいままだった。

「ごめん」その空気を破りたくて、いきなりだったが頭をさげた。

「俺、亜紀の思ったようにいろんなことができてないんだろう。仕事がさ、けっこうきついんだよ。年々疲れがとれなくなってきているし、頭ではいろいろしなくちゃって思っても、体が動かないんだ。家のことをほとんどぜんぶやってもらってて悪いって思ってるよ。いつも心のなかでは感謝もしているんだ」

 亜紀が、はじめてこちらをちゃんと見た。けれども、「それで?」と口調は冷たい。俺は「それで……」言いよどんだが、つづけた。

「それで、ふだんは難しいかもしれないけど、明日なら、なんとか家のことをやれるかなって思って。だから、明日、亜紀は休んでていいよ」

「……」亜紀はポカンと口を開け、死んだ魚の目をして俺を眺めつづけた。

「私さ、昨日の夜から体調悪いんだよね。吐いたり、くだしたりしてさ。明日からじゃなくて、今朝たのんだときからずっと家事をしてほしいと思ってたんだけど。子どもたちのこともちゃんと世話してほしいって、伝えたと思うんだけど」

 背筋を冷たい汗が走っていく。「あぁ」と間の抜けた声が漏れた。

「じゃ、じゃあ、今から」

「それはそうでしょう。とりあえず、パジャマを着替えたら?」

「ああ、そうだね」俺は苦笑し、ふたたび階段を昇った。なせば成る、口のなかで自分に言いきかせた。家事ぐらい、子どもの世話くらい、俺にだってできる。


 クロゼットで適当にトレーナーとGパンを着て、ふたたび一階へ降りた。

「パァパ、もう日が暮れるよー」舞奈が知った風な口をきく。けれども確かに、時刻は四時近かった。外ではうっすらと陽が傾きつつあった。

「じゃあ、洗濯物とか、おそうじとか、夕飯のこととか、子どもの世話とか、いっぱいあるけど、明日までよろしくね。助かるわ~。がんばってね」亜紀が冷淡な表情で、けれどもうれしそうに笑った。

「寿也は、今うどん食べたからしばらく泣かないとは思うけど。泣いても放置しないでね」言いながら、食べ終わったどんぶりを「これも洗っておいてね」と流しに置いた。

「舞奈、また、ママは具合悪くて寝に行くから、なにかあったらパパに言ってね」

「はーい」

 亜紀はうれしそうに二階へあがっていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る