エピソード2第8話 男の安易な決意

 こんこんと眠った。布団にしずんだ肉体からじわじわと疲労が滲みだしていくようだった。体はずっしりと重たかった。

 眠りながらうっすらと目をさまし、ぼんやりと家のなかをさまようような、夢のような感覚に襲われながら、また眠りに落ちる。それを数回繰りかえした。ときどき子どもたちや亜紀がケラケラうれしそうに笑う声を聞いた気がする。その声は、俺からずっと離れたところであがっていた。俺は独りを感じ、心細くなった。その声のするほうへ向かおうとするのだが、体に力がはいらず、というより、体に感覚がとおらなかった。一生懸命足を動かそうとするのに足は空を空振りするように感覚だけが動くだけで、少しも地面を蹴らないのだ。

 亜紀たちはどんどん自分から遠ざかっていく。

 どんどん、見えないところへ行ってしまう。


 はっとして目をさました。いやな脂汗をかいていた。

 夢は、目をさましたとたんに印象の断片を残して消えていった。

 ゆっくり立ち上がり、トイレに行こうと部屋のドアを開けた。ふんわりと甘じょっぱい汁のようなにおいが鼻についた。下の部屋で亜紀が子どもたちと何かを食べているのだろう。

 そういえば、自分も朝食いらい何も食べていなかった。

 用足しをし、一階へ降りようか考えたが、階段を降りかけたところで足が止まった。進めなかった。踵をかえし、いったん寝ていた部屋に戻った。

 布団に再び寝そべった。しばらくもんもんとしながら寝返りをうつ。

 なすべき答えはしごく簡単なのに、自分のなかからは引っ張りだせない気がした。

 スマホを開き、「喧嘩、仲直りの仕方」と検索した。さまざまな検索結果が出てきた。亜紀と喧嘩するたび開いては読みもせず閉じていたページの群れだった。今度こそはちゃんと読もうと思った。

 だけど、じっくり内容を読めば読むほど、自分にはハードルが高い気がした。自分から謝るには、どうしたらよいだろう。

 項目のなかに「感謝を思いだす」というのを見つけた。

 俺は、心のなかではいつも亜紀に感謝をしているんだ。いつだって、感謝、している。なのに、うまくいかない。

 調べていくと、感謝の気持ちを伝える五つの方法というのまで出てきた。確かに、感謝の念を持っていても、直接伝えることはしてこなかった。ひと通り読みおえ、 スマホを閉じる。

 寝室のウォーキングクローゼットへ行き、そこに積まれた段ボールのひとつから新婚当時のアルバムを引っぱりだした。このころは幸せだった。毎日が天国だったのではないかと思う。亜紀はかわいかった。いつでもかわいかった。何をしていてもかわいかった。料理をするときも、掃除機をかけるときも、文句を言いながらむくれるときも。

 このころ俺は、家事をなんにもしていなかった。今は、風呂掃除とゴミ捨てはしているけれど、亜紀には不十分なんだろう。

 明日は日曜日だ。明日なら何とかなるんじゃないか。ベストなタイミングなんじゃないか。そう思った。

 今日、これだけ休めば、明日にはいくらか動けるだろう。明日、俺が家のことをやってみよう。自分にだって家事くらいなんとかなるんじゃないか。

 よしっ、と右手で握りこぶしをつくった。これを材料に、今から謝ってこよう。

 俺は気合をいれ、寝室のドアをあとにした。

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