エピソード2第7話 永遠に埋まらない溝ではなかろうか

 寿也の泣き声がする。行ってやったほうがよいのだろうか。体がずっしり重たく、動きたくない。赤ん坊なんて泣くもんだし、少し様子をみることにした。

 二度破り捨てた離婚届を思いだしながら、また、まどろみがやってくる。日々の疲れが抜けないのだ。もっと、自分が若ければよかった。もっと、若いころに婚活をしておけばよかった。ちゃんと彼女と向き合う努力をしていたら、今はもっとちがっていたろうか。そんなたらればを繰り返しているうちに、寿也の泣き声は大きくなっていく。

 仕方なし、どっこいしょと腰を持ちあげようとしたそのときだった。

 二階からトントン足音がし、亜紀が降りてきた。

 亜紀はまっさきにソファに転がっている俺を睨みつけた。それから部屋じゅうを舐めるように見まわし、泣いている寿也のところへむかった。

 亜紀は寿也を抱きかかえると、「ねえ、子どもたち、見てくれるんじゃなかったの? 私、胃腸炎でさっき病院へ行ってきたの知っているよね」と低い声で唸るように言った。

 なんだよ、俺よりずっと元気そうじゃないか。

「だから、見てるじゃん」カチンときて、思わず言った。

「はい?」亜紀の声が裏返る。

「子どもたちはふたりとも無事でいるでしょ」

 舞奈はバナナをかじりながら、部屋じゅうに散らかったおもちゃでうれしそうにままごとをしていた。寿也は亜紀に抱かれて泣き止み、甘えたくて「ダァ、ダァ」と声をあげている。

 亜紀はまじまじと俺の顔を見た。

「……寿也、泣いてたじゃん」

「赤ちゃんは、泣くのが仕事でしょう」

 亜紀は深々とため息をついた。息をはききると、同時にしゃくりあげはじめた。

「なんで泣くの?」

 正直、うんざりした。亜紀が泣くのには、すっかりあきれ果てていた。女って、ほんとうによく泣くなと思う。女が男より我慢強いなんて、都市伝説ではなかろうか。

「和樹はさ、私が具合い悪くても平気なんだね」

「そんなことないよ。心配しているよ」

「じゃあさ、ちゃんと子供たちのこと、見てよ」

「だから、見てたじゃん」

「何を、どう見ているの? 寿也が泣いたら、抱っこしてあげてよ。おむつの確認してあげてよ。お腹が空いていないか、聞いてあげてよ。離乳食の買い置きだって、いっぱいあるんだし、赤ちゃん用のおやつだってあるの知ってるでしょ。何か食べさせてあげればいいじゃん。そんなところで寝っ転がっていないで、舞奈とも遊んであげてよ」

 腹立たしさがわき、わなわなと体の震えるのがわかった。キレては駄目だと思うのに、どうにも我慢ができなかった。

「俺だって疲れてるんだよ。寝てちゃダメなの?」

「そうじゃないでしょ。そんなこと言ったら、私だって日々疲れているけど、子どもたちのことを世話してるんだよ」

「そんなの、おまえだって休めばいいじゃんか。舞奈だってひとりでちゃんと遊んでるんだし」

 亜紀は押し黙り、じっとしばらく俺を睨んだ。

 亜紀は黙々と離乳食とお茶を温め、器に盛りはじめた。押しつけがましいと思った。

「俺がやるからいいよ」俺は亜紀から寿也の食器をうばった。

「なんなの、今さら」

 離乳食の奪い合いになった。

「だいたい、おまえが来るタイミングが悪かったんだ。放っておいたら、おれだってちゃんと寿也の世話をしていたよ」問答しているうちに、子供用のプラスチック製の器が食事ごと床にひっくり返った。

 亜紀が「もうっ」と叫んだ。

「私、和樹なんか、大嫌いだよ。放っておいたらって、なんにもしてなかったじゃない。ソファでひっくり返って寝てただけだった。私、まだ、全然和樹のこと、許してなんかないからね」亜紀が声を荒げる。

「パパ、もうやめて。ママをいじめないで」

 舞奈が俺たちの喧嘩を止めに走ってきた。

「舞奈、汚れちゃうからあっちで遊んでな」言いながら、亜紀は床に散らばった離乳食を片づけ、皿を洗いはじめた。

 俺はしばらく無心でそれを傍観していたが、ばつが悪くてその場を離れた。気持ちがくさくさする。

 二階のいつか寿也の部屋になる予定の六畳間に、ぶっきらぼうに布団をのばし、横になった。

 こんなつもりじゃなかった。

 亜紀を泣かせるつもりじゃなかった。

 どうにもうまくいかない。

 さいごに亜紀が笑ったのは、いつだったろうか。

 新婚時代、にこにこ笑いながら愛妻弁当を持たせてくれた亜紀の笑顔をぼんやりと思いだそうと試みた。けれども、脳裏にべったり思いだされるのは、いつも憎らしそうに俺を睨みつける亜紀の顔ばかりだった。

 どうしたら亜紀を、妻を笑わせてやることができるだろうか。

 思いながら、俺はまた、やってくる睡魔に従うのだ。自分でも愚かだと、思う。

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