エピソード2第6話 男の沽券は火種にしかならない
寿也が生まれたあとも、ひどい喧嘩をした。
亜紀の言い分としては、家事や育児をもっと負担してほしいということだった。俺はゴミ捨てと風呂掃除をうけおった。ゴミはまとめて収集所へ持っていくまでの工程ぜんぶだ。家じゅうのゴミ箱を大きなゴミ袋へつぎつぎうつし、専用容器からおむつを回収する。オムツの回収はなんどやっても汚臭が鼻をついて気持ち悪くなった。
だけど、亜紀はそれ以外でも家事を分担してほしいようだった。
現状では絶対に無理だ。二交代制で夜勤もしている。仕事が終わればへとへとだった。できればずっと布団で眠っていたい。そのなかで、亜紀の機嫌をかわしながら、子どもの世話や家事をできるかぎりやってきた。
あの喧嘩は、師走の忙しい時期のことだった。
会社で忘年会があるからその金を用意してほしいと伝えたら、亜紀は「小遣いから出しておいて」とぶっきらぼうに言った。亜紀は幼稚園からきた手紙をチェックしているところだった。
思わず、「俺のボーナス、どうしたんだ」と訊いた。
俺としては、仕事は家庭をささえるための大事な俺の役割だと思っていた。だから、忘年会というのはその仕事の締めくくりで貴重なひとときだった。そんなこと、口に出して言わなくても、亜紀にもわかっていてほしかった。そんなふうに、適当に言われたくなかった。
だから、お金がどうとかそんなことで言ったわけじゃなかった。
「は?」
亜紀は手紙から目線をあげ、こちらを睨むように見た。一瞬たじろいだが、男の沽券にかかわると思い、引けなかった。
「十一月に給料が三十万あったろ。それに、今月はボーナスが四十万はあったはずだ。それで十二月の給料もあったろう。ぜんぶ合わせたら百万はあったはずだ。何に使ったんだよ」
「はぁ? それ、今、言う?」亜紀は間の抜けた声で見くだすように言った。
「忘年会の会費四千円くらい、出せるだろう」
「あのさぁ……」亜紀は体ごとため息をついた。
「なんだよ、答えられないのかよ」
「……私、今、すっごい時間に追われてるのね。あんた、これから仕事へ行くんでしょう。そのごはん支度もしないとならないし。寿也のおむつやおっぱいや離乳食に追われて、ふたりの相手しながら、もう余裕ないんだよ。
家計はさ、そりゃぁ通帳預かってるよ。だけどさ、自分の稼ぎじゃないんだもん、そんな派手に使えるわけないじゃん。だいたい、私がどれだけ自分のことにお金使えてないかもわかってないじゃん。幼稚園にくるママたち、みんなきれいにしてきてるよ。だけど、私はずっと長いこと自分の服も買えてないし、化粧品だって薬局で安売りしているのとか百均とかで買いそろえてんの。
毎月、おむつだってふたパックは買わないと間に合わないし、おしりふき代だってバカにならない。育児費だって寿也のぶんも増えたんだから、出費が増えるのはあたりまえじゃん」
「ずいぶん犠牲者ぶった言いかただな。だから俺は言ったんだ。ふたりめなんて本当に育てられるのかって。だけど産みたいって言ったのは自分だろう」
言ってから、言いすぎたと思った。思ったときには遅かった。
亜紀の両目にはもう涙があふれていた。
狼狽しながら「また、すぐ泣く」と続けてしまった。
「私、寿也のこと、かわいいと思ってるよ。すごくかわいいよ。産んだことにひとつも後悔なんかない。私に覚悟が足らなかったとしたら、それは和くんとのことだよ。こんなふうに育児や家事に協力してもらえないで罵られる覚悟は、ひとつもなかった。あなたと子育てしていく覚悟は、本当に足らなかった」
「なんだよ、それ」
泣いている亜紀をほったらかし、買い置きされていた菓子パンをほおばって家を出た。時間があけば、お互い気持ちも落ちつくだろう。
車で休憩をとり、それから仕事へむかった。
ところがだ。
仕事を終えて帰ったら家はしーんと静まり返っていた。舞奈は幼稚園へ行っているとしても、寿也の泣き声ひとつしない。
リビングに入ると、テーブルのうえにルーズリーフが置かれていた。十一月の給料日からの出費内容が細かに書かれており、ボーナスは舞奈と寿也の子ども用の通帳、家のローン用の通帳、貯蓄用の通帳へそれぞれ振り分けられていた。
それに、いつ用意していたのだろう、離婚届が置かれていた。
またか、と思った。
一瞬にして白髪化するんじゃないかと思った。
このまえにも一度同じようなことがあったのを、まざまざと思いだした。
俺は、亜紀から二度も離婚を切り出されたことになる。
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