シーズン2第5話 男の言い分
けれども、日常は思ったほど簡単ではなかった。
舞奈が生まれてからのことは、記憶にも残らないほど毎日がめまぐるしく過ぎていったと、おぼろげに憶えている。亜紀はほとんど毎日いらいらしていた。
だから、もうひとり赤ちゃんを産みたいと言ったときは、正気か、と耳を疑った。亜紀は、俺の両親がプレッシャーなのだと言っていた。たしかに、母さんが「赤ちゃんの次はおうちをかまえなくちゃね」と言いだし、そのタイミングで建売住宅の一角を購入し、六十五歳までのローンを組んだ。そしたら親父が「俺はうまかった。さいしょが男で、次が女だった」と言い、「子どもはひとりだけじゃかわいそうだ」ともこぼすようになっていた。
俺は亜紀に「覚悟はあるのか」と尋ねた。亜紀は、「ある」と言った。はっきり、そう言った。
寿也が生まれてから、ますます日々は忙しくなり、亜紀はますます苛立つようになった。苛立ちの矛先は、決まって俺に向けられた。
「和くんって、本当、なんにもしない」「家族っていうより、他人みたい」「私、家政婦じゃないんだけど」数々の台詞をぶつけられた。
けれども俺だって、何もしなかったわけじゃない。
亜紀の妊娠中は、なるべく妊婦健診についていくようにしたし、重い荷物だって積極的に持つようにした。母親学級には一回だけだけど一緒についていった。赤ん坊と同じ重さのおもりをお腹につけて歩く体験は貴重だったと思う。
出産だって、陣痛の知らせがきたら駆けつけた。だけど上司に早上がりさせてもらったのに、出産までには随分時間がかかった。
腰が痛いって言うからその都度さすってやった。なのに亜紀はずっといらいらして「痛いのはそこじゃない、のどだって渇いてるんだから早くお茶ちょうだい。ほんと役立たず」と罵ってきた。助産婦さんからはじゃまくさそうにされるし、亜紀が苦しかったのはわかるけど、こっちだってさんざんだった。
いざ産まれるとなったら立ち会う度胸がなかった。助産婦さんから「早くこっちにおいで」と言われるのから逃げて、待合室でずっと待った。そのことは、のちに何度も亜紀から責められた。
生まれたての舞奈は、申し訳ないけれどもくちゃくちゃの赤い猿のようで、あまり可愛いとは思えなかった。
ふたりが退院してきてからだって、舞奈のおむつを替えたし、風呂にだって入れた。ミルクを飲ませたり、離乳食を食べさせたこともあった。
家事は、やり方が分からなかったこともあり、たしかに何もしていなかったかもしれない。正直、仕事しながら家事なんて、適当にしかできない。亜紀は完璧を求めすぎるんだ。亜紀だって、休めるときには休んで、やれるときにやれることを適当にやればいいんだ。
だからいつも「無理をしないで」と声をかけるようにしたけれど、亜紀は「私が無理しないで、いったい誰が家のことをやってくれるっていうの」とキレた。そんなふうに言われると、面倒くさくなって、何も言いたくなくなってしまう。
舞奈が生まれて何か月経ったころだろう、あんまり疲れたふうにしていたから「家のことなんか、やれないならやらなくていいよ」と言ったら、いきなり泣きはじめた。
「私がやらなかったら、誰がやってくれるの」
またか、と思った。
そうじゃないんだよ。
「家のことは仕事じゃないんだから、そんなに真剣にやらなくていいんだよ」
「私、いっこも真剣になんてやれてないんだよ。何にも、なーんにも真剣になんてやれてない」
亜紀はすすり泣きしながら、責めるような口調で言う。俺を責めているのか、自分を責めているのか。
「そんなこと、俺は望んでないよ。疲れてるんだから、寝てればいいじゃん」
「……簡単に言うね」
「だって、そうでしょう。やれないならやれないって、あきらめればいいんだ」
すると、亜紀は泣き止むどころか、どんどん山が徐々にマグマを彷彿させとうとう噴火するみたいに泣きだした。
どうしてそうなったのか。何か言葉を発しているのだがしゃくりあげているから何を言っているか分からない。
「そんな、泣くことかよ。ちょっとおかしいんじゃないの。俺、そんな泣くようなこと言ってないよ」
亜紀は手元にあった舞奈のぬいぐるみを投げてきた。
「あんたは何にもしてくれないじゃない!」
やっとそう言った。
「舞奈が夜泣きしたって微動だにしないで平気で寝てるし。そりゃあ平日は仕事があるもんね、休んだほうがいいだろうけど、休みの日だって寝てる。家のことだって、私はもう最低限のことしかできてないの。これで私が何もしないって言ったら、誰が洗濯するの、誰がごはんつくるの、誰が食器を洗うの、お風呂だってたまに洗ってるだけだよね。舞奈の世話だって、私が頼んだときにちょっとやってくれるだけじゃん。積極的にやろうとなんかしてくれたこと、ないよね」
亜紀の言葉がようやく成立したかと思ったら、それらは弾丸のように飛んできた。
「俺が何もしてないって言うの?」
「してない!」
愕然とした。俺は、だって、朝の八時すぎから夜の九時まで働きどおしだぞ。そのなかで、やれることはやってきたつもりだったのに。
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