シーズン2第4話 宿題はちゃんと終わったのか?

 あのとき亜紀は二か月くらい実家へ行っていたろうか。

 確かに俺も悪かったのかもしれない。当時の俺は、亜紀が言うように妊娠も出産も簡単に考えていた。女という生き物が子供を産むということはとてもあたりまえのことのように思っていたからだ。犬も猫も平気でぽろぽろ子供を産むし、人間のような母親学級なんてやらない。妊娠期間中だって、あたりまえに生きている。そんなもんだろうって。

 ましてや人間のお産なんて、病院でやるんだしなお安全だ。亜紀が妊娠したときにネットか何かで赤ちゃんの死亡率が年々減ってきているのを知った。そのこともあって、亜紀も普通に妊娠期間を経て、普通に赤ちゃんを産むんだろうと思っていた。


 俺は、女のヒステリーには時間を置くしかないと思った。亜紀の高ぶった感情もいずれおさまり、うちに帰ってくるだろうと楽観した。だけど、実家へ帰った亜紀からは電話もラインも、もちろんメールも、いっさいなかった。

 実家に亜紀がいなくなったことをなんと告げたらよいか分からず、俺は、自分の生活のことを自分でこなすしかなかった。

 毎日が忙しくなった。朝飯を食べるのも面倒くさくてバナナをたくさん買い置きした。ある日は黒くなったバナナの皮を早朝にひとり剥いてため息をついた。

 洗濯はよくて三日置き、疲れがたまっているときは一週間に一回まわすのがやっとだった。八時前には家を出て、仕事を終えて帰るのは九時すぎだったから、風呂に入って寝るだけの、ほとんどゆとりのない生活がつづいた。風呂だって、自分で洗わなければ入れないから、洗えるときに浴槽だけ洗って、洗えない日はシャワーだけにした。夕飯はもっぱらコンビニ弁当やカップ麺をたよった。

 寝る前に「どうしてる?」とだけ亜紀にメールをしていたけれど、返事はなにもなかった。週末には会いに行ったほうがいいだろうかと考えながら、拒絶されるのが怖くて断念した。

 ひとりで山梨へ富士山を眺めに行った。しんとした朝焼けのなか山中湖から眺める富士山は壮大で、心のなかのとげとげがひっこんで丸くなっていくようだった。

 どうしたらもとの、亜紀のいる生活にもどれるだろうか。それは、できることなら新婚のころのような。

 俺は、生活に安らぎがほしかった。


 ある日曜日、遅くまで寝ているところにいきなり電話がかかってきた。亜紀からの番号だったからようやく話ができると思って通話ボタンを押した。「もしもし」と話しかけたら、「亜紀の母です」と返ってきて泡を喰った。

「あ」とどもるようにしてから「こんにちは。亜紀さんは、お元気ですか」やっと言った。通話口からは「元気よ」と不愉快そうな声がした。

「あのさ、亜紀がうちにきてから、もうひと月以上たつのよ。あなた、何を考えてるの?」

 亜紀のお母さんはあきらかに怒っている様子である。「はぁ」と曖昧な相槌をしてつづきを待った。

「はぁじゃないのよ。ふつうはさ、ふつうはね、奥さんが出ていったら、まっさきに追いかけてくるんじゃないの? 私のところに様子を聞く電話くらいしてくるんじゃないの? あんた、なにしてたの?」

 亜紀のお母さんは、亜紀が怒ったときとまるっきり同じ口調で俺に説教をする。なにしてたって言われても、おれはおれのことで精一杯だった。言いたかったけれど、言えなかった。

「あのね、夫婦の間のことに他人が口をはさむのはいけないかなって思ったんだけど、亜紀は、私の大事な娘なんです。それで、和樹くんはこんどお父さんになるわけでしょう。自分の奥さんに赤ちゃんができたっていうのを、どう思っているの」

 唐突に訊かれ、思慮が追いつかない。

「いや、それはとても嬉しいですし、がんばってほしいなって思っています」

「がんばってほしい、そうか。そうだね。うん、そう。でも、それにはさ、亜紀ががんばるには、やっぱりパートナーの支えが必要なわけよね。和樹くんは、妊娠についてちゃんと調べたの? 妊娠がどういうことなのか、出産するというのがどういうことなのか、調べた?」

「……いえ」

「それ、宿題ね」

「はい?」

「それをちゃんと調べて、娘の体に何が起こっているのか、妊娠がどういうことなのか、ちゃんと理解して。それから娘を迎えにきて。それに、ちゃんと娘の心のケアもしてやって。あなたは娘の旦那さんなんだから。なんでもかんでも奥さんに頼るんじゃないわよ。亜紀は、あなたの奥さんであって、お母さんじゃないんだから」

「……はい」

 そのあとしばらく説教はつづき、その内容はだいたい同じようなことの繰りかえしだったと思うが、あまりにくどくて忘れてしまった。

 亜紀のお母さんの言った通りなのはわかっている。だけど、俺にも俺の事情だってあるんだ。そう思ったけれど、今は、言うことを聞いたほうがいいと思った。


 俺はバナナを三本食べたあと、本屋へ行った。

 しかし、本屋で妊娠のコーナーを見つけると、たちまち狼狽した。立ち読みしているのは、ほとんど女の人ばかりだった。それに平積みされているのはたまごやヒヨコの絵がかわいらしく描かれた表紙の本ばかり。とても男が手を伸ばせるしろものには見えなかった。

 うわ~~~と思って、仕方なく医療関係の本がならんでいるコーナーへ移った。シンプルな背表紙の並ぶのを見ると、心底気が楽になった。

 そのなかに男性向けの妊娠読本というのがあって、これならと思って手にとった。

 それで、俺ははじめて妊娠についての知識を得た。妊娠は病気ではないけれど、体に負担のかかることなのだ。赤ん坊のぶんも臓器が働かなくてはならないから、心臓への負担もふえるし、腎機能にも影響がでる。糖分も塩分も制限したほうがよさそうだ。つわりの時期は、ひどい人だと脱水症状を起こして点滴をしなくてはならなくなる場合もあるのか。

 出産にはリスクがあり、必ずしも無事に赤ちゃんが生まれるとは限らない。弛緩出血がひどくて母体が助からない場合もある。赤ちゃんが逆子だと難産になるし、出産中に異常が生じて帝王切開になる可能性もある。

 俺は、急に出産がこわくなった。

 今は、何か月くらいになるのだろう。俺は、そんなことも知らなかった。

 健診を土曜日に受けられるなら、いっしょに診察へついていったほうがよいのだろうか。 

 けれども、そこまで考えてから、やはり自分の上司に赤ん坊の生まれるときに仕事を抜けだしていいかきくことには気がとがめた。

 親父に訊いたら職場への妻の妊娠の報告は半年くらい経過して安定してから報告するのが一般的だと言っていた。こんな妊娠したてでもう出産のことを話すなんて、やっぱりちょっと早すぎる。


 俺は、亜紀を迎えにいった。こんどの健診はいっしょに行くからと伝えた。亜紀は少し目を潤ませながら「迎えにくるのが遅い」と文句を言った。

「仕事はなんとかするから、こっちで産んでくれ」言うと、ますます亜紀の目は潤んだ。

 もうすぐ夏休みだった。間にあって、よかった。

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