シーズン2第3話 男には解らない

 いつからこんなふうになったろうか。

 思い出そうと思ったが、すぐに面倒くさくなった。学生時代落第点しか取れなかった俺の記憶装置では、断片的なことしか思いだせない。それらがどうやって今に至ったのか。

 だけど、はじめはすごく幸せだったと思う。


 亜紀とはじめてデートした日のことは、鮮明に思いだせる。緊張していたからだろうか。それとも、ずいぶん長いあいだ女性と付き合うことをあきらめていたからだろうか。

 亜紀のまえに彼女がいたのは俺が24歳だったと思う。そこから10年以上ずっとひとりで過ごしてきた。

 何も不自由を感じなかった。ひとり車で遠出して山梨の湖畔で富士山を眺めれば、それだけでじゅうぶん気持ちが満ち足りた。帰りに河口湖周辺の温泉と蕎麦屋によるのがお決まりのコースだった。

 たまに車のレースを観にいく友人もいた。竹馬サーキットはタイムアタックの聖地で、日本各地から挑戦者がやってくる。最後に見たD1グランプリは最高だった。

 あれから何年、レースを見に行っていないだろう。寿也が大きくなったら、いっしょに行けるだろうか。


 寝返りをうったら、ちょうど寿也がおもちゃの箱を雪崩のようにひっくり返したところだった。それらを片づけることを思うと、いっきに面倒くさい気持ちがあふれてきた。


 実家では母がせっせと掃除をしていた。

 もちろん飯を用意してくれたし、風呂もいつも掃除されていて、沸かせばいつでも入れるようになっていた。

 自由気ままな生活だった。

 母や親父から「早く結婚しろ、孫を見せろ」としつこく言われていた時期もあったが、それも三十五を過ぎるまでだったな。

 けれども、両親も俺も、いつまでも若いというわけではない。年々年を追うごとにくたびれやすくなっていく。親父は高血圧になり、母はリウマチをわずらった。なんとなく生活に心細さを感じるようになった。

 三十八を過ぎたころ、しょっちゅう腰痛に悩まされるようになった。ひとりベッドで横になり、この先ひとりきりで生きていけるか不安になった。急に結婚への焦りがわいてきた。

 婚活サイトを利用することは安易だと、しばらくためらっていた。けれども、女の子の口説き方も付き合い方もまるで分らなくなっていた俺にとって、そういう出会いがあることはすごくありがたいことのようにも思えた。


 亜紀はふつうで、少しかわいい感じの人だった。俺はすぐに気を許した。

 ギャルではない、お嬢様っぽいふうでもなかった。本当に理想的なふつうのかわいい人だった。

 口下手な俺にうるさくないくらいの質問を投げかけてくれ、自分の話しも少した。

 はじめてのデートでは、一緒にアクションものの映画を観て、食事をしながらその映画の話しを嬉しそうに話した。

 この日のうちに、俺はもう亜紀と結婚しようと思っていた。


 さいしょに亜紀と喧嘩したのはいつだったか。

 あれは確か、亜紀が舞奈を妊娠したときだったと思う。まだ妊娠したてのころだった。亜紀から「出産のときは駆けつけてくれるんでしょう」といきなり言われた。

 そんな先のことを言われたので、びっくりした。

「仕事の都合があるから、わからない」と答えたら、急に眼が吊りあがった。

「出産する場所を決めないといけないの。里帰り出産しようか、こっちで産もうか悩んでるの」すごくいきり立った言い方だった。

 おどろいて、俺も冷静さを欠いてしまった。こんなふうに女性が感情的になったとき、冷静に対処できる男がいるだろうか。いるのならどうか俺にも伝授してほしい。

「そんなの、亜紀が決めることだろう」

 とっさに伝えたら、怒っていたふうだったのが、ショックを受けたようにくしゃくしゃと顔がゆがみ、今にも泣きだしそうな顔で「どうして」と訊いた。

 俺はすごく動揺した。こんなに感情がぽんぽん変わることにも動揺したし、亜紀が何をどう考えているのかがまるっきり分からなかった。

「だって、自分の出産のことでしょう。自分が安心して産めるのが一番なんじゃないかな」俺は極めて冷静に判断したつもりだった。

「自分のって、私たちふたりの子が生まれるんだよ」

「うん」

「和くんは、私にこっちで産んでほしいとか、ないの。私は、和くんがお産に一緒に立ち会ってくれるなら、そのほうが嬉しい。私に陣痛がきても、和くんは駆けつけてはくれないの?」

「そんなこと急に言われても。会社のそのときの都合だってあるだろうし、今言われても答えられないよ」

「そんなのさ、上司に言っておいてくれればいいじゃん。6月ごろ妻が出産するかもしれないって」

「そんなの、ずっと先のことじゃないか」

「先のことでも、もう、出産する医院は決めないといけないんだよ。私が安心して産めるかどうかって、和くんがどうするかってことも前提になるわけじゃん」

 もう、押し問答だった。それに、亜紀はいつまでも立ち合い出産にこだわった。

「お父さんだって、お産に立ち会ったほうが気持ちの切り替えがスムースだって、助産師さんが言ってたよ」

「とりあえず、今かかっているところで産むことにしておいたら。それで、また出産日が近くなってから考えるとかできないの?」正直、お産に立ち会うことが未知すぎて怖いのだ。けれども、亜紀をよけいに興奮させると思うと、そんなことは絶対口に出してはいけない気がした。

「そんなの、いい加減すぎる。さっきも言ったじゃん。事前に出産する産院は決めないといけないんだって。それに、和くんは出産することがどういうことなのか、まるで解ってないっ。和くんは、自分の両親が亡くなりそうなときに、駆けつけたりしないの?」

「飛躍しすぎだろう。親が死ぬことと赤ちゃんが生まれることは、違うだろう」

「違うくないよっ。和くんは、女性が妊娠するってことも、赤ちゃんが生まれることがどういうことなのかも、全然わからないんだ」

 このとき、亜紀が全身で泣くのを、俺ははじめて見た。それは、あまりに激しすぎて、その感情の温度差についていけない自分があった。どうしたらいいか分からず、俺は亜紀を残して寝室にこもった。

 ドア越しにいつまでも亜紀のむせび泣き、すすり泣きが繰り返され、うんざりした気持ちになった。

 それから亜紀は少し寝たらしく、その後、不貞腐れた顔をしてはいたけれど、いつもどおり夕飯を作った。

 その食事を黙々と食べ、それぞれ風呂に入り、会話のないひと晩をすごした。


 翌日仕事から帰ったら、書置きひとつ残して亜紀はいなくなっていた。

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