シーズン2 第2話 終わらない食器洗い

 亜紀が帰ってくると、舞奈がさーっと玄関へ走っていった。ふたりで何かを話しているようだ。

 いきなりリビングの引き戸が開いた。

 亜紀は一歩部屋に入ると、しばらく舐めまわすように部屋をながめ、それから俺のほうをじーっと見た。

——嫌だなぁ、言いたいことがあるなら、さっさと言えばいいのに。

 自然と食器をこする手に力が入った。無意味にごしごしこすってしまう。

「ただいま」

 あきらかに不満げな口調だ。喧嘩をしたくなかった。俺はその顔を見ずに「おかえり」と答えた。思いのほか力のない声だった。

「寿也、ごはん食べた?」

 訊かれて——あれは、食べたうちに入るのだろうか?

 考えながらとっさに「食べなかった」と返した。

「えっ?」瞬時に亜紀の顔がこわばった。わざわざ流しに歩みより、三角コーナーの残骸を見て「捨てたの?」と俺を睨みつけてきた。

「……うん」

 ばつが悪くてますます食器を洗う手に力が入る。

「どうして?」亜紀の眉毛は両方ともつりあがり、目は仁王像のように見開いていた。これが、俺の奥さんの形相か。気持ちが冷え切っていくような感じがした。

「食べなかったんだから、仕方ないじゃん」

「ミルクは?」

「ミルクは飲まないじゃん」

「せめて、麦茶は?」

「……飲ませてない」

 そもそも飲ませろって言われてないし。

「えーーっ?」

 亜紀は眼球が飛びだしそうなほど大きく目を見開き、驚いた顔をしてみせた。演技がかっているよなぁ。亜紀にバレないように鼻から息をふんっとひとつはきだした。

「それって私がいない間、寿也は飲まず食わずだったってこと? おむつも替えてないよね」

 頓狂な声だ。耳にキンキンする。病院へ行ったったわりに元気そうじゃないか。

 確かにオムツを替えるのは忘れた。寿也は朝起きてからずっとあのオムツを履いていることになる。四つんばいでおもちゃを持つ寿也の尻がぼっこり膨らんでいる。


 だけど、俺だって何もしてなかったわけじゃあない。


 舞奈が「お腹すいちゃった」と亜紀にすりよった。

 おまえ、飯残してたよな。言いたいのをぐっとこらえた。

 亜紀はじっと俺を睨みつづけ、あからさまなため息を大きくついた。

 それからの亜紀の動作は早かった。袋からおむつを引っぱりだし、おしりふきを片手に寿也に歩みよった。手際よく寿也からズボンを脱がせ、おむつを剥がすと尻は糞尿でべとべとになっていた。亜紀は顔をしかめながら、けれどもおしりふき数枚をさっと引っぱりだし、寿也の尻を拭いていく。「こんなんだったら、洗ったほうが早かったかも」寿也は尻を拭かれながら、くすぐったいのか動きたいのか、必死になんども体をねじらせている。

「ちょっとは手伝ってよ」尖った口調で再びこちらを睨んだ。

「舞ちゃん、できるよー」言いながら、舞奈が近づき、寿也の体をおさえた。けっこう上手におさえられ、寿也は泣き出したが亜紀はすっかりその尻をつるりときれいにふきとった。「ありがとう、舞奈」あきらかに俺への口調とまったく異なるやわらかなトーンで舞奈に言う。舞奈は「くっさいけど、平気だったよ」とにこにこしている。

 亜紀はキッチンの裏側にある洗面所で手を洗うと、キッチンへ入りこんできた。もはや俺など眼中にないように黙々と食器棚の上段からパック状の離乳食をとりだし、鍋で温めはじめた。ついでに幼児用のせんべいもとりだし、袋をあけて舞奈に手渡す。舞奈は喜んでそれを受けとり「おいしい」と嬉しそうにかじりついた。

 亜紀は終始無言で食器棚からプラスチック皿をとりだし、調理台のうえに置いた。

「食べないんじゃない」

 鍋を見つめている亜紀に話しかけるが、返事はない。

 ようやく食器の泡を流し食洗器に詰めこんでいると、さも何か言いたげに視線を送ってきた。食器をぜんぶ手洗いしておきながら、そのほとんどを乾燥機にかける俺を以前から「ナンセンスだ」とバカにしているのだ。

「やりづらいな。乾燥かけるだけだよ。拭くより楽だろう」

「……何も言ってないけど」

 温まったパックの中身をプラスチック皿にうつしている亜紀に、「俺も作ったけど、食べなかったよ」と再度伝えた。

「べつに作ってないでしょ。温めただけじゃない。それに、寿也が食べなかったんじゃなくて、あなたが食べさせなかったんでしょ。食べさせかたに問題があったんじゃない?」いかにもとげのある言いかただ。


 亜紀は離乳食を食卓へ置き、寿也を膝にのせ腰掛けると「あーん」と言いながら寿也の口にスプーンを運んだ。寿也は嬉しそうにそれを食べた。


 おまえ、いつだったか俺が同じように抱っこして食べさせようとしたら、自分で食べるようにしつけろって言っただろう。だから、俺はその通りにしたんだぞ。

 あのベチャベチャのテーブル、見せてやりたかったよ。後片付けだってみんなやったんだぞ。


 言いかけて、口をつぐんだ。

 それを口にしたところで、喧嘩の火種になるだけだ。


 寿也はぺろりと飯をたいらげ、哺乳瓶に用意された麦茶もごくごく飲んだ。上機嫌だった。


 すっかりしらけてしまった。

「くっだらね」と小さくひとりごちてソファに転がった。


「もう、大丈夫だから。あとはお願いね」

 亜紀の頼むのに、「うん」とだけ返した。それだけ動けるなら、おまえこそ大丈夫じゃないのか。

「舞奈、ママ、お腹痛いからお布団で寝るからね。お腹が空いたとか、遊んでほしいとか、何かあったらパパに言うんだよ」

「わかったー」

 舞奈は屈託のない顔で笑っている。


 亜紀が階段をのぼる音を聞きながら、どっと疲れが押しよせてくるのを感じた。

 寿也はずりばいしながら鈴つきのオモチャを鳴らして遊んでいるし、舞奈はバナナをかじりはじめた。

 なんだかなぁ。

 そう思いながら、俺はまどろみのなかに落ちていった。

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