シーズン2 第1話 男は黙ってサッポロビール
俺は、黙々と食器を洗っている。うちには食洗機があるにもかかわらずだ。
このシロモノは、ただ食器を突っ込んでボタンひとつを押せばよいというわけではない。食器にこびりついた米や固まったバターなどをスポンジでこそげとってからでないときれいには洗えないし、食器の配置も適当に入れたのではうまく洗われないこともある。だから、食洗機のかごの形状に合わせて食器をそれぞれが重ならないように入れる必要があるわけだ。
そんなもん、泡立てたスポンジで食器を洗い水ですすいだほうが速い。
けれども亜紀は、これを器用に使いこなしている。俺よりずっと早く食器洗いを終える。
今朝、いきなり亜紀がキレた。
毎週末、布団のなかこそ俺にとっては唯一の極楽だった。ぬくぬく幸福に意識もほとんどなかったところにいきなり「起きてよ」と泣きながら訴えられ、かなりの動揺のなか目が覚めた。いきなりよくわからない現実にもどされた、というより、そういう世界にワープでもして連れていかれたような感じといったほうが正しいかもしれない。あまりに突然すぎたので、何が起こったのかさっぱり分からなかった。
「どうしたの」
「お腹が痛いんだよぉ」
「そうなんだ」
意識をとりもどしながら相槌をかえすと「そうなんだじゃないよ」と亜紀は不満そうである。
「ずっと、お腹痛いの」
「寝てれば?」
伝えたらいきなり枕がとんできた。
「なんだよ」
びっくりして亜紀を見あげると、しゃくりあげるように泣いている。俺はますます動揺し、何を言ったらいいか分からなくなった。
「もう、昨日の夜のうちからお腹が痛くて、ずっと吐いたりトイレへ行ったりしてるんだよ」
それ、ますます寝てればいいんじゃないの、って思った。
「寿也が泣いているの、気づかなかった?」
「えっ」
現時点では、生後十カ月になる寿也はとても安らかに眠っていた。
「泣いたの?」
「何回も泣いてたじゃん。舞奈まで起きたらって思って、私、気持ち悪いの我慢しながらずっと相手してたんだよ」
「……」
そんなことを言われても、眠っている間のことにまで責任はとれない。けれどもそんなことを言ったら火に油だ。
「何か言ってよ」
「とりあえず、落ちつきなよ」
「落ちつけないよ」
「そんなふうに泣かれると、何も言えないよ」
「あんたなんか大嫌い」
え。
冷静になろうとしたけれど、亜紀が感情的になるとどうにも動揺がおさまらず、自分のほうでも混乱してきてしまう。亜紀の泣くのはどんどんひどくなってきていた。
「病院へ行ったらいいんじゃないかな」
泣きはらした真っ赤な顔で「行っていいの?」と俺の顔をみた。「いいよ」と答えると、「じゃあ、家のことと子どものことと、やってくれる?」と、まじまじと尋ねる。
「ああ、わかった」
返事をすると「じゃあ私、すぐ行くから」と言って寝室から姿を消し、本当にすぐに病院へ出かけていった。
なんだかどっと疲れた。布団にもぐりなおすと、寝ぼけながら寿也が近づいてきた。俺のとなりにごろんと転がるとまた眠ってしまった。懐が温まり、俺もまた気持ちよくなってきた。
赤子のぬくもりといっしょに意識が遠のいていった。
どのくらいそうしていたのか。ぐずぐず泣く寿也の声で目が覚めた。舞奈はもうとっくに起きていたらしく、寝室へ持ち込んでいた人形で遊びながら「ママは?」と訊いてきた。
「お腹痛いんだって。病院へ行ったよ」
「そっかぁ。まぁちゃんね、お腹空いた」
俺は目をごしごしこすりながら「お腹空いたか」とひとりごとのようにため息まじりに応えた。
意識がはっきりしてきたところで、家のことと子どものこととやってくれと言われたのを思い出した。——飯、なんとかしなくちゃかと思いながらとりあえずトイレに立ちあがると、寝室のドアの入口に干されていない洗濯物が籠に山積みになっていた。
寿也はママがいないからか、お腹が空いたからか、びゃあびゃあ泣きはじめた。
トイレで用足ししながら、いっこずつ片づけるしかないなと思った。
寿也の激しく泣くのと、舞奈が「お腹空いた」「寿也、泣いてるよ」というのをBGMに、洗濯物を干した。
洗濯物を干すのに一時間近くかかった。子どもたちの騒ぐので気が散るし、そもそも何をどの位置にどんなふうに干したらいいのか分からず、洗濯物を手にするたびに悩む。
今日だけでなく、たまに亜紀にやれって言われたり、自分で気を利かせたつもりでやることもあるんだが、毎回どうもうまくいかない。いつも亜紀に文句を言われる。文句を言われるのも自分でうまくできないのも嫌になってくる。どうせまた何か言われるんだろう。そう思ったが、なんとかやり終えた。
いつの間にか寿也はどこで見つけたのか舞奈の靴下を見つけだし、それをかじったりふりまわしたりしながら嬉しそうに笑っていた。舞奈は寿也のまわりにぬいぐるみを集めて楽しんでいた。
子どもなんか、ほっといても自由にするもんだ。
それから寿也を抱きかかえ階下へ降りていくと、なんだ、ちゃんと飯が用意されていた。よかった。
舞奈と自分の茶碗に飯をよそい、温めたみそ汁といっしょに食卓へ並べた。ふたり分の目玉焼きもちゃんと皿にのせられラップがかけられていた。
寿也用の離乳食の瓶詰が置いてあったが、これはどうしていいか分からなかった。パッケージを見ると耐熱皿にあけレンジで温めればよいと書いてあったので、適当な食器に中身を出し、書いてある通りに温めた。
いつも使っている椅子に寿也を座らせ、袖付きのエプロンをつけ、目の前に離乳食とスプーンとを置いてやると、寿也はしばらくそれを興味深そうにながめ、それから手でベチャベチャ触りはじめた。口に入れたり出したり、しまいには椅子にセットされていたテーブルに離乳食をぺたぺたくっつけだし、とうとう塗りたくってしまった。
「お腹空いていないのかなぁ」
半ば放心しながら呟くと、舞奈が「食べさせなきゃダメなんだよ」と知った風な口をきく。それで仕方なしと思って寿也に近づき食べさせてやろうと思ってスプーンを取りあげると、たちまち火がついたように泣き出した。
「えっ、おまえ、スプーン使ってなかったろう」
「あーあ、パパ、ダメだなぁ」
舞奈がキッチンへ走ってゆき、バナナをとってきた。それを器用にむいてやると「ひーちゃん、あーん」と言ってバナナを食べさせた。
寿也は泣き止んだが、口に入ったバナナが大きすぎたのか、激しくむせかえした。俺は焦ってその背中をたたいたが、なんせこんな小さな赤ん坊の背中、どのくらいの加減でたたいたらいいかわからない。
なんとか落ちついたので、そのバナナをフォークで小さく切り分けてプラスチック皿に入れ、寿也のまえに置いた。すると、いくつかは手づかみで食べたが、しだいにそれは先の離乳食と同じことになっていった。
「ごちそうさま、ぱっちーん」
かわいい声で舞奈が言い、席を立った。食器にはぐちゃぐちゃになった目玉焼きの残骸や飯が半分以上残っていた。
「まだ残ってるよ」
「だって、もういいんだよ」と、オモチャのあるほうへ遊びに行ってしまった。寿也も離乳食とバナナにまみれてどろどろだ。
深いため息が出た。
寿也のエプロンをはずし、頭や顔にへばりついた食事を濡らしたタオルでぬぐってやった。テーブルや床を始末するのは大変なことだった。
ようやくそれらを片づけ、もくもくと食器洗いに没頭しているところに亜紀が帰ってきた。
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