第8話 執念

 離婚届けを手渡すと、当然のことのように和樹は引きとめようとした。親からも考え直すように言われた。

 和樹は「そんなに傷ついていたとは思わなかった」としらじらしく言い、日々の生活のことを私に感謝しているとか、ひどいことを言ったかもしれないとか、それらしいことをいろいろと言い訳してきた。

 私は突っぱねた。

「そんなの、あなたが世間体を気にして離婚したくないだけじゃない。だって、あなたは私の体より、自分が障害者スペースに車を停めることに対する世間体のほうを優先させたでよう。私が切迫流産や切迫早産の診断を受けて安静にしないといけないのに、不安のなかで家事をしてたのを見て見ぬふりしてた。私はこの先あなたと生活していくことなんか絶対にできない」


 和樹を信頼できないまま、寿也を生んだ。

 赤ちゃんに罪はない。


 退院のときは父親に頼み、私は子どもたちを連れ、両親の車で実家へ帰った。

 里帰りし、私は半年以上を実家で過ごした。母は子煩悩で舞奈と遊び、寿也をあやし、うれしそうに相手した。

 床上げの時期をすぎると、少しずつ家事をならし、母とふたりで分担した。家事をひとりきりでしなくて済んだし、のんびりすごしてもごはんが出てきた。私は産後を安穏と過ごした。

 もう、このままここで暮らしてもいいんじゃないかって、何度も思った。

 この間、和樹は毎週末通ってきた。

 何をするわけでもない、ただ私の母が出すお茶をすすり、世間話をし、「いつでも待っている」と言って帰った。

 しぶとい男だった。来ないでほしいと言っても、ぜったいに来た。

 顔を見るたびむかついた。


 だけど、両親も毎日のように私をなだめた。

 養育費はどうするのか、子どもたちにとっては父親がいるほうがいいんじゃないか。私の一時的な感情ひとつで、子どもたちに生活面で苦労をかけることになる。父親を失うことになる。

 確かに舞奈は、私がこんなに腹立たしく憎んでいる男を、当たり前のように父親として受け入れ、慕っていた。

 考えれば考えるほど、自分ひとりで子どもたちを抱え生活していくことは困難だと思った。両親だって、いつまでも若いわけではない。


 季節がひとつ過ぎ、ふたつ過ぎ、春が近づくにつれ、気持ちがあせった。

 舞奈の幼稚園のことを考えなくてはならなかったし、私も心を決めなくてはならなかった。

 それに、春は気持ちがどこか緩むから、もう、いっかって気にもなった。


 結局、私は和樹のところへもどった。

 だけど、私は心のなかでずっと和樹のことを恨んでいる。

 少しも許してなんかいない。


 もっと、自分に財力があればいいのに。

 もっと、自分に生活力があればいいのに。

 なんでもできる、強い人間だったらいいのに。


 だけど、決定的な部分は補えない。

 舞奈と寿也の父親は、和樹にしかなれない。


 

 結局、胃腸炎の私が子どもたちの世話をし、部屋を片付け、夕飯を作った。その間、和樹はずっと寝室にこもっていた。何をしていたのかはわからない。そのまま永眠すればいいのに。

 こういうときに旦那さんの食事にヒ素をまぜてみようとか、受けとりが高額な保険に入会させようとか、多くの奥さんが気を迷わせるのかもしれない。

 私だって、怒りにまかせて和樹の箸や茶碗をだめにしたことが何度もあった。


 それで今、煮えたぎるような心のなかで決めていることは、絶対に私のほうが元気に長生きしようって。

 それで、この男が病気かなにかを患ったら、懇切丁寧に看病してやろう。この男が苦しんでいる様子を、しっかり看病しながらこの目に焼きつけよう。決して、安楽死なんかさせない。とことん延命治療を望んであげよう。

 この男が病魔にもだえながら死の間際に「おまえには感謝していた」って、心から述べるのを聞いたら、ようやく私は安らかな気持ちになれるだろう。


 私の人生をかけた劇場は今日も静かに繰り広げられている。

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